星久喧噪記
□プロローグ「汐音と黒郎太」
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しばらくすると一匹釣れた。
これで、安心だ。陽果はホッと胸をなで下ろした。
穏やかな太陽が照らしている。
雲は一つもなく、柔らかい潮風が、体を揺らしてくれる。
心もゆるみ、睡魔が体を包み始める。
(ここで寝てしまおうか…)
そんなことをぼんやり考えながら、ゆったりと水面を眺めていたときだった。
「ん…?」
大きな黒い影が水面に浮かび上がった。
はじめは、大きな魚が泳いでいるのかと思った。
(なんだサメでも釣れたか…?)
そう思ったときには、すでにそれは、海より飛び出していた。
「う、う!?」
陽果は身をのけぞらせて、尻餅をついた。
市庁舎親衛隊所属の女兵士のようだった。
特殊セラミック製の胸当てと腰当てで武装しているので、それはすぐに分かった。
だが、鎧はひび割れ、壊れかけている。
露出した両手、両足の肌が不健康なほどに白い。
腰のあたりまである漆黒の長髪が、顔に身体に、不気味にからまりつき、ぴちゃ、ぴちゃ、と激しく水をしたたらせている。
黒い髪の奥に垣間見えるその表情は蒼白で、とくに唇が威容に蒼い。
まるで、水死体が何者かの力で動かされているかのようだった。
「あ、あなたは…」
言葉をかけようとした瞬間、黒い視線が彼の瞳を見た。
「う!!」
すさまじい戦慄が陽果の身体を貫いた。
悲鳴を上げそうになったが、ノドがつまり、絶句する。
女は大きく口を開けて、死にものぐるいで息を吸い込んでいる。
「……」
なまじ肌が白いだけに、開いた口の中の赤さが、陽果の目に鮮烈だった。
そして彼女は一人ではなかった。
その懐には、一人の子供を抱いていたのだ。
女と同じように漆黒の髪と白い肌を持った、やせた女の子だった。
意識を失っているのか、それとも死んでいるのか、ぐったりと女の身体にもたれかかったまま、動かない。
「あ、あの…」
陽果は恐怖心を押し殺して、口を開いた。
「……」
女は疲れ切った、しかし強く光る視線を向けてきた。そして、押し殺した声で言った。
「逃げなさい…」
「は?」
訳がわからず、聞き返す。
「逃げなさい…。全速力で、逃げなさい! 死にたくなければ…!!」
そこまで聞いたとき、また、海からしぶきが上がった。
まるで海底で爆発が起きたかのように水面を大きくふくらませて、男の姿が現れた。
「あ…」
その男は、女とは違いまったく疲れた様子もなく、余裕の表情で突堤で着地した。
口元の皺が深い、白髪の交じるオールバックの男であった。
その落ち着いた感じのある赤みがかった目が、見下すともにらむとも付かぬ視線で、細波を見下している。
背広を着ていたが、その奥にひしめく筋肉が、背広越しにも容易に察せられる。
いかにも余裕に満ちた様子で、ポケットの中に両手を入れている。
「う、うわ!」
日差しを受けて男の胸のあたりがギラリと光った。
盾をかたどったバッチであった。
陽果はようやく彼らが尋常の存在でないことを悟った。
この「星久」に住むもので、そのバッチが何を示しているのかを知らない者はいない。
それは市庁舎に属する親衛隊員のバッチであった。
彼らは、列強の支配下からこの町を開放した英雄であったが、同時にこの町の治安維持を任されている恐怖政治の象徴でもあった。
この町の中での彼らの行いは、すべて市長の名の下に正当化される。
そのため、治安維持を目的に傍若無人な態度を取る親衛隊員も、多く存在したのだ。
陽果の目は、彼の口元に浮かぶ陰湿な笑みを見た。
(殺される!!)
親衛隊員に対する彼の小さな好奇心など、その笑み一つで簡単に吹き飛んだ。
逃げることだけが頭の中に渦巻く。
「まて」
男が声を発し、陽果にむけて手のひらを向けた。
言葉を無視してきびすを返そうとしたときだった。
「あ…」
ふと、胸に違和感を感じた。すうすう、するような、そんな感じだった。
真っ赤な何かが視界を覆い、周りによく分からないものが勢いよく散らばっている。
妙な浮遊感覚が身体を取り巻き、視界がくるくる回転しはじめた。
別に、痛みはなかった。
「……」
声を出そうとしたが、出なかった。
何かが身に起こった。
そう思ったのか、彼の思考の最後だった。