星久喧噪記
□プロローグ「汐音と黒郎太」
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神都と呼ばれる町「星久」の天候は、いつにも増して晴れやかだった。
抜けるような青空が一面に広がり、季候も眠気を誘うほどに暖かい。
潮騒の音も、今日はいつになく穏やかだ。
陽果(ようか)は店の前に出ると、大きくのびをした。
彼は海に面した通りで小さな雑貨店を営んでいた。
買い物をするにはまさに絶好の日よりではあったが、今日も相変わらず客が来る様子はなかった。
もっとも、陽果も客が来ないのがあたりまえだと思っていたし、そもそも仕入れをしていないので、来たところで売るものなどはほとんど残ってはいなかった。
それに、このあたりの住人はほとんど中央に引っ越すか、貧民の住むバラック街に引きこもるかのどちらかで、まともに客になりそうな者など住んでもいなかった。
彼にも、市庁舎から店を引き払って中央に移住するようにとの通告が来ていたが、無視を決め込んでいた。
生まれてこの方、五十数年…。
ずっとこの海岸線で潮の香りと共に生きてきたのだ。
海から引き離されるくらいならば、死んだ方がましだとすら思っていた。
朝から店頭で来もしない客を待っていると、さすがにあくびが漏れてくる。
無駄なことはやめることにした。
昼飯を食べた後、意気揚々と物置から釣り竿を取り出し、彼は港へ釣りに出かけた。
彼はつりをするのが大好きで、かつては客足が遠のくのを見計らっては嫁の目をかいくぐり、幼い息子を連れて港へ繰り出したものだった。
その嫁が、息子が、いなくなってからもう十年になる。
嫁を、息子を殺し、町を占領していた列強も六年前に町を去っていたが、のこされた彼には何もなくなった。
「……」
陽果は首を振った。思い出すにはまだまだ生々しい。せっかくの釣りが、楽しめなくなる。
港の突堤に着くと、どっこいしょ、と突堤に腰を下ろし、いつものごとく釣り糸を垂らす。
一匹くらいは釣りたい。でなければ、今日の夜食べる物がなくなる。
だが二匹はいらない。そんなに口に入れたら、吐いてしまう。
常に空腹だった列強の占領下の生活以来、彼はすっかり小食になっていた。
胃が、壊れているのかも知れない。
医者に診せようにも、近所に医者はいない。
それに金もなかった。