フライレン大陸物語

□放浪の魔道士
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 セ・ルルト湖は今日も日差しを浴びて果てしなくきらめいていた。
 澄み切った水面は、鏡のように空の青さを映し出し、ゲイムリー山からの風を受け、ささやかにたゆたっている。
 その周りを囲む、新緑の草原は人々の進入を禁止しているために、誰の足跡もなく、毎日庭師によってきれいに切りそろえられているために、たった一つの乱れもない。
 水面と草原。その青と緑のコントラストは、完璧とも言える調和を保ち、その空間そのものが、芸術の一部であるかのようであった。
 だが・・・。
 もし、天からその空間を愛でる瞳があったとするのならば、思わず手を振り上げて、それを払いたくなってしまうかもしれぬ。
 緑の中に一つ。インクを垂らしたかのような黒いシミが、落ちていた。
 全身に漆黒のローブをまとった独りの男が、そこを歩いていたのだ。
 男の乾いた唇から漏れる息は荒く、うつろな瞳は焦点が定まらず、どこを見ているのかわからない。
 何度もよろけながら、ほとんど夢遊病者のようにほとり近くにまでたどり着くと、膝から崩れるように倒れ込んだ。
 震える右手を、湖の中へと入れる。水をすくい上げる。
 水はその手から見る見るこぼれ落ちていくが、男はそのまましばらくそれを食い入るように見つめていた。
 ずいぶんと長い時間の後に・・・。
 不意に男は大きく目を見開いた! 
 その手を口に当てた。
 水は大半が流れ落ちており、残ったそれはほとんどなめる程度ではあったが、彼はそれを口の中に流し込み、ごくり、と自らのわずかなつばとともに、飲み込んだ。
 その瞬間、であった。
「ぶ!」
 男はすさまじい勢いで、つばを吐き出した。
「げ・・・げえええ・・・」
 ひどい形相に変わり、嗚咽した。今飲んだ水を腹の中から吐き出そうとした。
 だが、彼の体の中には何も入っていないようで、数滴の胃液がセ・ルルトの湖に落ちただけで、その後は嗚咽が繰り返されるだけだった。
「く・・・」
 少し落ち着くと、男はそのままうつぶせに脱力しそうになった。
 だが、ふと目をやった先に、気になるものを見つけた。
 一人の娘の姿。
 いつのまにそこに来たのだろうか。娘は湖のほとりに立っていた。
 表情もなく、風にたゆたう水面を見つめている。
「う・・・ううう・・・」
 男は言葉にならぬ声を発し、落ちくぼんだ目で、その娘をにらみつけた。
 そして、腕を持ち上げた。
 立ち上がる気力が出ないのか、その両手で地面をつかみ、両足を引きずり、娘に向かって這いずっていった。
 娘は、男がかなりそば近づくまで気がつかなかったが、それを見つけたとたん、
「きゃ!」
 と、大声を上げて、文字通り飛び上がった。
 勢い、逃げようとしたが、すぐに思いとどまり、おそるおそる男に向かって近づいた。
「ああ・・・う・・・・・・ま・・・」
 男は再び呻き、娘を捕まえようとするかのように、土で汚れたその腕を上げた。
 だが、それですべての力を使い果たした。
 男は死んだように、そのまま気を失った。
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