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□八月の陽炎
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もう、一年が経つのか。




一年前の夏、彩ちゃんと別れた。何があったというわけでもなくて、分かりきっていた理由で、付き合うことを続けられないと告げられた。


『夢莉のこと好きやけど』
『私ももう27やし』
『一人の芸能人として、女として、いろいろ考えたら、もう恋人でいることはできんなって』
『ほんまにごめん』

そう畳み掛けられた。


彼女に見合う人間になりたくて、半ば後を追うように上京した半年後のことだった。ねえ、もう少し時間をくれても良いじゃん。もっと頑張って、誰にも何も言わせないくらい大きな存在になって、絶対に幸せにするから。そのためなら私は何だって耐えれるし頑張れるから、もう少し一緒にいてよ。



そんな言葉はすべて飲み込んで、頷くしかなかった。自分の性別や年齢や立場、すべてのアイデンティティを呪いたくなった。



真夏の熱い熱い昼間に彼女の家に呼ばれ、そんな話をした。





「じゃあ、今までありがとう」
「これからも、私は彩ちゃんを応援してる」
夕まぐれ、私はそう言葉を振り絞って彼女の家の玄関をパタリと閉めた。絶対に泣くもんか。泣いたら、彩ちゃんが悪いみたいになってしまう。悪いのは彩ちゃんじゃない。悪いのは、何もかも気にさせないくらい、一緒にいたいと思わせ続けることが出来なかった自分と、私にとっては余計なことを彩ちゃんに思わせてしまう世間や他の人間だ。



自分の家に帰って、鞄を床に投げつけた。明日から自分の日常に彩ちゃんがいないことを想像すると、吐き気がしてくる。夜になっていた。電気もつけたくない。目の前が真っ暗ってこういうことか。
一生懸命に生きること、誰かを愛するということ、その為には自分も大切にしないといけないこと、何もかも正しいことは彩ちゃんに教えてもらった。運命なんて信じていなかった思春期の私に、もしかしたらそれも存在するのかもって思わせてくれた彼女。人としても、女の子としても、芸能人としても、大好きだった。私の全てだった。


声を殺して泣いた。その日は泣き疲れて眠っていた。



次の日はお昼頃に目を覚ました。目が覚めてもどうしても地獄だった。何をするにも彩ちゃんを思ってしまって、何もしたくなくて。眠っている間は彩ちゃんのことを思い出さずに済むからと、ひたすらに目を閉じた。そんな馬鹿みたいなことをしてもずっと眠り続けるなんて無理で、エアコンもつけず、この暑い暑い一部屋の窓からぼーっと外を見つめて、彩ちゃんも同じ空を見てるかなぁなんて考えることが唯一の出来ることだった。



彩ちゃんは、一度選択を決めたら、それに違う行動はしない人だ。というより、そうしないように自分を律する人だ。だから、きっと彩ちゃんも私のことを心配したり、思ったりする瞬間がまだ少しはあると思うけれど、そう信じたいけれど、もう私のスマートフォンに大好きな彼女の名前がぽこんと浮かぶことはないだろう。



彼女の選択と意志を、愛しているからこそ尊重しなければいけない。私はあなたへの想いを無理にでも冷まさなければ。心の中でそんなことを呟きながら、やっと汗だくになったシャツを着替えようと腰を上げた。



それから数日、いやもしかしたら数週間や数ヶ月だったかな、こんな抜け殻のような日々を続けた。
夏も終わり秋に差し掛かった頃、支える「誰か」がほしくて、自分の生きる理由を増やしたくて、新しい家族を迎え入れた。自分が生き物を育てるなんて、とも思ったけれど、それ以上に何かに縋りたかったのかもしれない。
その家族に名前を贈るとき、大切な存在として浮かんでくるのはやっぱり彩ちゃんの存在しかなくて、半ば無意識に彼女の名前をスマートフォンに打ち込んでみたら見つけた綺麗な並びの漢字。私の好きな夜という感じが入った二文字。読み方は違うけど、少しだけ彼女を感じさせて。



そうして新しい家族と生活をスタートさせた矢先に、彼女が「愛なんていらない」なんていう曲を世の中に発表していて、少し笑ったけれど何だか愛おしかった。





季節は巡りまた夏がやってきた。

私はやっと、彩ちゃんのいない日常や自分の人生を受け入れられるようになった気がしている。彼女は私にとって確かに必要で、大切で、絶対的な存在であったけれど、彼女がいなくても、誰かと笑ったり、お仕事を頑張ったり、何かを楽しむ自分を見つけることができた。そんな自分を少し寂しく思いながらも、誇らしかった。やっと一人の人間になれた気もした。
ねぇ、私彩ちゃんがいなくてもちゃんと頑張れているし、自分を大切にしながら生きていけてるよ。って、彩ちゃんに話したい。そんなことを考えてしまうからきっと忘れることは出来ていないのだろうけど。でもそれはこれからも変わらないのかな。きっとずっと、ふとした時に彩ちゃんのことを考えて、少し寂しくなったり勇気づけられたりするんだろう。




彩ちゃんも、そうだったらいいな。
私のこと、たまには心に浮かべてくれてたら嬉しいな。
夏くらい、私のことを少しは思い出して。
「こんなあっつい日に別れたなぁ」なんて。



今年も夏が終わる。夜風に当たると心地良くて心が澄む季節がやってきた。一年が巡っても、夜のまどろみの中ぼんやりと、もう一度一緒に笑い合える日がいつか来ることを、未だ少し願ってしまうことだけは許してね。


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