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□愛妻家の朝食【仙道】
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洗濯はとうに済ませた。掃除機も全部の部屋にかけ、床の拭き掃除も終わった。水回りも曇り一つなく丁寧に綺麗に磨いた。
窓ガラスの掃除に手をつけようとして、この歪んだ日常は何のためにあるの?と私の中の私が問いかける。

広いリビングに二人で選んだ革張りのソファー。その端っこに一人の私が腰かける。真新しい革の匂いが鼻につく。視点のボヤけた眼でテレビの電源を入れると、部屋の角に据えてあるスピーカーからワイドショーの音が流れてくる。それが部屋の静寂を破る。知らない芸能人の不倫のタイトルが画面の右上に浮いている。

『こんなことするなんて、奥さんがかわいそうでたまりません』
派手なメイク、派手なネイル、脱色された髪は傷んでいる。そんな女が喚き散らかしている。


ーー煩わしい


胸の内がコポコポと音を立てて煮え始めるのを、息を深く吸い込み内側へ無理矢理押し込む。テレビ画面を見据えた。


ーー例えばこんな女みたいなのとだったら…?


そこでパッと画面は切り替わり、体の内側の騒めきがその場凌ぎに引いていく。

『煙草の副流煙って、気になりますよね。でも大丈夫!最近果物がその気になる煙草の害に効果的だと話題なんです!』


ーー私しか触らない冷蔵庫、今、果物はない


リモコンの電源ボタンを押して、ショルダーバッグを持ち玄関へと向かう。ロングスカートの翻りが、暗く黙ったテレビ画面に映る。

つい先日、あの人のために深夜に買い物へ行ったコンビニへと向かう。お酒の匂いと、あの人は吸わない甘ったるい煙草の匂いを纏って、素知らぬ顔で帰ってくるあの人のために、私は今日も尽くす。あの人の身体の為に、果物を買いに行く。
おかしな日常はあの人の為だけに。



その夜更け。あの人が砂利を踏む音は家の中にいても気付く。音のない、色のない夜。私は音も無く静かに立ち上がり玄関へと向かう。そしてドアの鍵を開ける音をドアの内側で聞く。

「おかえりなさい」

「あー起きてたの」

先に寝ていたことなど一度もない。たった一度も。いつでもあなたの帰りを待っている。

「お疲れ様」

「すぐまた出るから。断れない付き合いでね」

この人の仕事柄、毎日毎日そんなに人付き合いが必要ではないのを知っている。知っているけれど、言葉になんてしない。あなたがそう言うから、私はその嘘を信じている素振りをする。

「果物を切ったの。何か少しでもお腹に入れた方が」

「食事は済ませてきた、この後もあるからいらないかな」

目線など交わるわけもなく、擦れ違い様に単純作業に髪を撫でられる。
毎日手入れを怠った事のない、黒く艶めく私の毛先を指先で撫でる。この人は、私自身ではなくて私の髪だけをいつも撫でる。


ーーその指で他に誰の髪を撫でているの


空間を睨めつけながら、そんな醜い言葉が頭に浮かんでしまう。他のどんな女よりも指通りがいい髪の毛を保っている。そんな醜いことを、惨めなことを考えてはいけない。


早々に着替えてほんの30分も経たない内に、この人はまた玄関で靴を履く。家ではシャワーすら浴びないのに、いつでも清潔な召し物。

「帰りは朝方になると思う」

そして振り向いて私を覗き込み、いつも通り言う。

「愛してるよ」

空っぽのその言葉を、何度聞いたか。
でもあなたがそう言うから、私は用意されていた言葉を吐く。

「ええ、私も」




あの人が出て行ってから、夜は色を取り戻していく。カーテンを開けると薄ぼんやりと青い空が目に飛び込んでくる。爽やかな朝なんてものとは程遠い。

喜んで朝食を用意して待つ妻なんて、この世の中にどれだけいるのだろう。

ついにこんな時間まであの人からは連絡もない。

おっかしい。

おかしくなってきた。乾いた笑いが込み上げる。おかしくておかしくてたまらない。笑いが止まらない。

毎日他の女といるであろう夫に献身的に尽くす妻。その妻が何をしたらワイドショーは騒ぐだろうか。
あの女は喚くだろうか。

明け方、歓楽街がやっと寝静まる頃。住宅地はまだ起きるには早い時間。
砂利の音が聞こえる。


ーーあぁ、煩わしい


食卓へ自分で並べたあの人の為の朝食をなぎ払い、キッチンのまな板の上に転がっている、あの人の為に果物を切った、あの人の為に使ったそれを手に取り玄関へと向かう。

私はいつでもあなたの帰りをこうして待つ。いつもと違うのは右手だけ。

鍵を開ける音。ドアノブが動く。


そのドアが開いた時、私を見た時、その時のあなたの表情だけが楽しみで、笑いが止まらない。




「愛してるわ、あなた」




私は久方ぶりに笑った。ニタリと。私はあなたへ笑いかけた。


もう、何もいりません。










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