明日への扉
□23話
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結局、それらしい人を見つけることはできなかった。
とぼとぼと工藤邸を目指して歩く。
ふと、肌身離さず、いつもポケットに入れているライターに触れる。
ずっと、考えてはいた。
でも…事実を知ることが怖くて、自分の中でさまざまな言い訳をして、ずっと迷い、決断を避け続けてきたこと。
私の足は自然とそのまま、自分の車を停めている駐車場へと向かった。
ーーーーー
来葉峠のあの場所。
気がついたらそこに来ていた。
私は路肩に車を寄せて止まり、車から降り立つ。
煤の付いたガードレールに歩み寄り、まずは手を合わせた。
ゆっくりと顔を上げ、その煤を眺める。
ずっと、迷っていた。
あのご遺体が本当に赤井さんだったのかを確認するために、確実な方法がひとつだけある。
それはーー
このライターに付いている指紋の照合をしてもらうこと。
このライターには赤井さんの指紋が付いている。
だけど、警察にこれを依頼することで、何かしら赤井さんや、その周囲の人に迷惑がかかるのではないか。
ライターはずっと持っていたいが、警察に渡せばきっとすぐには返してもらえないだろう。
或いは、ずっと返してもらえないのではないか。
それに、何より…、もし、指紋が一致したとき、私はその事実を受け止められるのだろうか…。
不安に俯けていた顔をほとんど日が暮れかけた夜の風が撫でる。
こわい…
僅かに湧いた恐怖の感情。頭の中を同じ考えがぐるぐる回る。恐怖からか、混乱してか、涙が滲んでくる。
事実を知りたいのなら、覚悟を決めなくてはならないのに…。
ブーッ…ブーッ…
静かな、風が草木を揺らす音しかしないこの場所に、車の中からマナーモードにしているスマホが震える音がする。
車に戻ると、スマホの画面は昴さんからの着信を告げていた。
通話をタップして、スマホを耳に当てる。
『もしもし…?』
抑えたつもりだったが、僅かに震えた声が出てしまった。
気づかれていないことを祈りながら、昴さんの言葉を待つ。
「…ヒロインさん?
今、どこですか?」
『…あ、ちょっと友達から急な誘いがあって…、帰りはもう少し遅くなります。
ご飯は、待たずに先に食べててくださいね』
ひとつ息を吸い、努めて明るい声で一息に喋る。
今すぐ新一の家に向かっても、帰り着くのは遅くなってしまう。夕飯を食べずに待っててもらうのは忍びなかった。
「…そうですか、気をつけて帰ってきてくださいね」
昴さんの落ち着いた声は、僅かに心配の色を含んでいた気がした。
何も感じ取られていないこと、私の思い過ごしであることを祈りつつ、ありがとうございますと答えて電話を切った。
今は気持ちの整理も出来ず、決断を出すのは難しい。
あまり遅くなると昴さんにも心配をかけてしまうだろうし、今日はもう帰ろう…。
私は車のエンジンをかけ、車を工藤邸へと発進させた。
ーーーーー
『ただいま』
「おかえりなさい」
夜も更け、いつもならとっくに私たちはそれぞれ自室で過ごしている時間。
俯きがちに玄関扉を開けて中に入る。既に休んでいるかもしれない昴さんを起こしてしまわないようにと、控えめに帰宅の挨拶をすると、間髪入れずに返事が返ってきたことに驚き、俯けていた顔をがばりと上げ、声の方を見つめる。
目の前には昴さんが立っていた。
リビング、昴さんの部屋、いずれも私が鍵を開けた音を、例え聞きつけたとしても、私が家に入ってくるまでに、既にここに立っていることは不可能だ。
その表情は心配の色が滲んでいる。
やはり電話の声が心配の色を含んでいたのは、気の所為ではなかったようだ…。
きっと、ずっとここで待っていてくれたのだろう…。
『昴さん…』
申し訳なさで、胸がぎゅっと痛くなる。
「何ですか?」
私の呟くような呼びかけにふわりと笑んで応えてくれる。
私はその笑顔を見て、少し安堵した。
『話しを、聞いてもらえますか?』
「ええ。もちろんです」
昴さんに事実を伝えよう。そう思った。
私たちはふたりでキッチンへ向かう。
ふたりでコーヒーを淹れて、リビングへ向かった。
一息吐いた後、私は口を開いた。
『私が出かける前にかかってきた電話は、昴さんと知り合う前に住んでいたところの大家さんでした。
私は家の合鍵を、以前昴さんに話した、お隣さんに渡していたのですが…、それを今日、預かったという内容の電話でした。
鍵を持ってきたのは、そのお隣さんではなくて、その方の知人とのことだったのですが、その人ならお隣さんについて、何か知っていると思って話しを伺いたかったのですが…』
「それで、慌てた様子で飛び出して行ったんですね」
『はい…。
一通り探しても、それらしい人物を見つけられなくて…、諦めて帰ってきていたのですが、やっぱり、このライターの指紋を警察に持っていって、照合してもらおうかと思って…、覚悟を決めるために、あの事件があった来葉峠に行ってきたんです…』
ポケットからライターを取り出し、それを見つめながら昴さんに説明を続ける。
「そのライターには確実にその方の指紋が付いているので、照合してもらえば、確かな情報が得られるとは思いますが…」
『はい…。でもそのためには、私もそれなりの覚悟を決めておかないといけない。
どんな結果であれ、受け止める覚悟を…。
結局、覚悟も決めきれずに帰ってきてしまったんですが…』
と、自嘲気味に笑う。
少し俯けていた頭に温かい手の温もりを感じる。その手からは、ふわりと赤井さんと同じたばこの匂いがした。私はその心地よさに、そのままゆっくり目を閉じた。
「大丈夫ですよ」
頭上から降ってきた、昴さんの思いもよらない言葉に驚いて、向かいに座っている昴さんの顔を見上げた。
僅かな情報も逃さないように昴さんの瞳を見つめる。
私の揺れる瞳を見て、昴さんはふわりと柔らかく笑う。
「焦らなくても、大丈夫ですよ」
…確かに昴さんの言う通りだ。
事実を知りたい気持ちは強いが、心が決まらないまま、もし最悪の結果を聞かされたとき、私は恐らく立ち直れないだろう。
ちゃんと下調べをして、何か、僅かでも情報を得てからでも遅くはない筈だ。
昴さんの“大丈夫”は、不思議と、私のそわそわと落ち着かない気持ちを落ち着かせてくれた。
私はひとつ息を吐いてから口を開いた。
『そうですね…。
これは最終手段にでも、とっておきます』
昴さんにつられるように、自然と笑みが溢れた。
それは少し、心が軽くなった気がしたからかもしれない。
私はそっと、またポケットにライターを仕舞った。
「ヒロインさん。
今のあなたも、ひとりではないということを忘れないでください。
…今のあなたには…私が、側にいます」
『!
そうですね。ありがとうございます』
柔らかく笑んで、優しい言葉をくれる昴さんに、私もそう笑みを返した。
昴さんの言葉は、とてもありがたく、私の心に勇気をくれた。