明日への扉
□20話
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あれから沖矢さんとは意気投合し、毎晩夕飯を交代で作っては一緒に食事をするという生活をしていた。
名前も「下の名前でいいですよ。私もヒロインさんのことを下の名前で呼んでいますし」と言われて、“昴さん”と呼ぶようになっていた。
『昴さん、私明日明後日と仕事が休みで、前の職場や前住んでたところに記憶が戻った報告と、大阪のばあちゃんにも顔を見せに行って、ばあちゃんの家にそのまま一晩泊まってこようと思ってるんです』
「そうですか。気をつけて行ってきてください」
とやさしく微笑む昴さんに、私はありがとうございますと笑みを返した。
前の職場に菓子折りを持って記憶が戻ったこと、ご心配とご迷惑をお掛けしたことを謝罪に行った。
皆がよかったと声を掛けてくれ、よかったら戻ってきてくれないかとも言ってくれた。
その言葉は嬉しかったけど、記憶を失くしている間に就いた新たな仕事が軌道に乗りはじめていたから、その旨を伝えてやんわり断った。
次に向かったのは以前住んでいたアパート。
大家さんを訪ね、皆で食べてくださいと菓子折りの入った紙袋を手渡す。
大家さんは私の記憶が戻ったことを泣いて喜んでくれた。
「あの部屋、すぐに次の借り手が決まっちゃってね。
まだ空いていたら戻ってきてもらいたかったけど…。
ヒロインちゃんが引っ越して、みんな寂しがってるよ」
『ふふっ、そのお言葉だけでうれしいです。また遊びに来ますから。
そうだ、私の隣に引っ越してきた方はまだいらっしゃるんですか?』
そういえば、あれから赤井さんの部屋はどうなっているのだろう、誰かが引き払っているのだろうか、そう思って大家さんに尋ねてみた。
「ああ、あの部屋はヒロインちゃんが記憶を失くして、お友達のうちに行っている間に急に引っ越したよ」
『…え?引っ越し…??』
「ええ。あのガタイのいい外国人の男の人でしょ?
入居手続きをしてから退居手続きに来るまでは私、全然姿も見かけなかったけど、キャメルさん…ね、
ヒロインちゃんは会ったことあったんだ?」
『…ぇ?…いえ…』
ーー…どういうこと?
隣に住んでいたと私が認識していたのは“赤井”さんだった。すらりと長身ではあったが、ガタイがいいとは言えず、華奢な方だった。容姿も瞳の色だけが日本人離れしていたが、ぱっと見でも外国人という印象は受けなかった。
大家さんが言う契約者の“キャメル”さんという人には会ったことも、見かけたこともない。
私は疑問を抱えたまま大家さんにお礼とまた遊びに来ると伝え、大阪へ向かうため駅へと歩きだした。
大阪へ向かう道中、ずっと赤井さんとのことを考えていた。
出会ったあの日から何の違和感もなく普通にあの部屋に帰って行く赤井さんを何度も見送った。
赤井さんの部屋にお邪魔したことはないが、誰かと同居しているようには感じなかった。
契約者という“キャメル”さんとは一体誰で、赤井さんとはどんな関係だったのだろうか。
なぜ赤井さんは“キャメル”さんが契約した部屋を使っていたのだろうか。
いくつかの仮説は浮かぶが、それを確かめる術はない。
考えても答えの出ない、仕方のないことに脳内を支配されたままとぼとぼと大阪駅の改札を出た。
「おう!ヒロイン!」
『!
平次!どうして!?』
今日は平日のまだ昼過ぎ。まだ学校の時間のはずだ。
それに、記憶を失くしたことを知らせていない平次にも和葉にも、今日大阪に来ることは告げていない。
「ばあちゃんから偶然聞いてな、俺が迎えを買って出たんや」
学校はサボりや!といたずらっぽくニッと笑う平次。
『…そうだったんだ。ありがとう。平次』
私も平次にお礼の言葉と笑みを返した。
平次のバイクに跨り、平次の背中にしがみつく。
ばあちゃんの家に着くまでの間も私の頭の中は赤井さんのことでいっぱいだったが、赤井さんのことだから何か事情があったのだろうと結論付けた。
「着いたで」
平次のその言葉にはっとして顔を上げる。
家の方へと目を向けると、ばあちゃんが庭先に立って待っていてくれた。
『ばあちゃん!』
ひらりとバイクを飛び降り、ばあちゃんの元へ駆け出す。目の前まで来た時、その足を一度止めてからばあちゃんに抱きついた。
「ヒロイン!よかったなぁ、ほんまによかった」
抱きついた私の背中に手を回し、あやすようにやさしくぽんぽんと叩いてくれるおばあちゃんのその声は泣いているように震えていた。
『心配かけて、ごめんなさい。
私、もう大丈夫だよ。全部思い出したから』
「うん、うん。
辛かったねぇ、ヒロイン」
私はその言葉に堪えきれなくなった想いが溢れて、声をあげて泣いた。
ーーコトッ…
目の前にそっと置かれたお茶の入った湯飲み。
室内は私が鼻を啜る音だけが響いていた。
「落ち着いたかい?」
ばあちゃんのやさしい声にコクリと頷く。
気持ちを鎮めるように目の前のお茶をふーふーと冷ましてからゆっくり口をつけた。
そしてゆっくり口を開いた。
『ばあちゃん、あのね…』
「ええよ。もう、何も語らんでええよ。
語るのも辛いやろ?ばあちゃんはヒロインが元気でおってくれたら、それでええんやから。
せやから、無理して話さんでええ。
もう、こうして元気な姿が見れただけで十分やねんから」
私の向かいに座っていたおばあちゃんは、私が口を開くと隣に座り直し、そっと包み込むように私の肩に腕を回し、やさしくさすってくれる。
私はそのやさしさと温もりに身を委ねた。
『ありがとう、ばあちゃん。
じゃあ、これだけはどうしても話しておきたかったの』
「うん」
『私ね、特別に想える人ができたよ』
もう、叶わないんだけどねと極力軽めの口調で付け足した。
でもばあちゃんは私の本音はお見通しのようで、そうかいと一層私を抱きしめる腕に力を込めた。
私からはばあちゃんの顔は見えなかったが、ばあちゃんが今、苦しそうな顔をしていることが容易に想像できた私は心内でばあちゃんにごめんなさいと呟いた。
ずっと静かに私たちの様子を見ていた平次が歩み寄ってきて、私の頭にぽんと手を置いた。
目線だけで平次を見上げると、苦しそうな、なんとも言えない表情をしていた平次の頭に手を伸ばし、そっとその黒い髪をさらりと撫でて笑みを見せた。
平次は驚いたように目を見開いたけどそれは一瞬で、すぐに照れ臭そうな笑みに変わった。
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『平次、知ってたんだ?』
あれから一晩経った翌昼過ぎ、ばあちゃんにまた遊びに来ると別れを告げ、迎えに来てくれた平次のバイクの後ろに跨る。東京に帰るために大阪駅まで送ってくれた平次に問いかける。
「ああ。工藤から電話があったんや。お前が記憶を失くしたってな」
『…やっぱ、新一か。
和葉は?』
「お前が嫌やろぉ思て和葉にはゆうてへん」
『うん、和葉にまで余計な心配かけたくなかったから、黙っててくれてありがとう』
「お前がそこまで入れ込むて、そんなにええ男やったんか?」
『うん。とても素敵な人だったよ』
顔に熱が集まるのを感じた。自然と笑みが溢れた。
『そろそろ時間だ!じゃあ、またね。平次!
ありがとう』
「ああ。またなヒロイン。気ぃつけてな」
『ありがとう。平次もね!』
笑みを浮かべ、踵を返して駅に向かって歩き出すヒロインの背中を見送る。
途中、一度はヒロインが振り返ることを知っていた平次は、辛そうに歪められた表情を隠すように早急にヘルメットを被った。
やはりヒロインは振り返った。
満面の笑みで平次に向かって大きく左手を振るのに、平次は軽く右手を上げることで返した。