明日への扉
□14話
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「どうかしたのか?」
『赤井さん!
…わっ!』
突如後ろから声をかけられ、振り返ると目に飛び込んできたのは、ドアに凭れながら腕を組んでいる赤井さんの姿。
その赤井さんに「おかえりなさい」と思わず駆け寄ろうとした瞬間、踏み出した右足に走る痛みに、身体は反射的に動きを止めようとする。そうなれば必然的にバランスを失いよろめく体。
来る衝撃に備え、反射的に目を硬く閉じる。
でもそんな衝撃はやって来ず、はっとした時赤井さんの匂いに包まれていることに気づく。どうやら赤井さんが抱き留めてくれたようだ。
頭上から赤井さんの声が降ってくる。
「足をどうかしたのか?」
『あ、あはは…。ちょっと…。
それより助けていただいて、ありがとうございます』
赤井さんがすごいのか、私が分かりやすすぎるのか。
或いはその両方なのか。
赤井さんはいつだって私の些細な変化にも気がつくんだ。
そして、この人はいつだって私のピンチをさらりと助けてくれるんだ。
「見せてみろ」
ひょいと私を抱き上げ、赤井さんは私の家の扉へ向かおうとする。
『だ、大丈夫ですから下ろしてください!
鍵もまだ開けてないんです!』
焦る私を他所に涼しい顔をして、ひょいとあろうことか肩に担ぎ直される。
『わわっ!
お、下ろしてください!』
恥ずかしすぎる、誰か助けて!
完全にテンパっている私は気づけば自分の家の中に入っていて、ようやく下された私はベッドの上に腰掛けていた。
『あ、あれ?鍵はどうやって…?』
鍵は私のバックに入れていた。中を漁られた記憶も形跡もない。
「あぁ、先日お前が置いていた合鍵を持ったままだったからな」
とにやりと意地の悪い笑みを見せて、かわいらしいキーホルダーの付いた鍵をぷらぷらと掲げたまま続ける。
「まあ、お前のことだ。この合鍵のことも忘れていたんだろう」
『……ぅ…。はい…』
赤井さんが私の家で療養していたとき、自由に出入りできるようにと、この部屋のテーブルの上に合鍵を置いていたのだ。
実際、赤井さんは私の仕事中にそれを持って外出していたため、仕事から帰ってきたときにはテーブルから鍵が無くなっていることも確認したのだが。
合鍵を返してもらうことも、動けるようになった赤井さんを目の当たりにした瞬間に、安堵とうれしさからその存在すらもすっかり忘れていたのだ。
しかし、そうはっきりと言い当てられてしまえば、私は素直に小さく返事をするしかない。
『…でも、赤井さんが持っていてくれた方が安心するので、よかったら、そのまま持っていてください』
と笑って見せれば、赤井さんはそうかと呟きながらジャケットの内ポケットに鍵を仕舞った。
「足を見せてみろ」
私の前に跪き、その立てた左足に私の右足を乗せ、赤井さんの手はズボンの裾を少し上げると、露わになるのは綺麗に巻かれた包帯。
『あ、でも、もう手当てはしてもらっていて…』
この状況の恥ずかしさに小さな声で告げる。
「そのようだな。
実に丁寧に施してある」
私はなぜか、その赤井さんの声が、言葉が、少し寂しさを含んでるように感じた。
感じた違和感に、目線を傷から私の足を見るために俯いている赤井さんに目を移し、首を傾げていると、赤井さんの左膝からゆっくりと下される私の右足。
『赤井さん?』
思わず声をかければ、
「何か食べるか?買ってくる」
と立ち上がりながら問いかけられる。
『あ、ありがとうございます』
感じた違和感に疑問を抱きつつ、赤井さんの提案に素直に甘えさせてもらい、食べたいものを告げると赤井さんは、待っていろとくるりと踵を返し、家を出て行ってしまった。
きちんと、さっきの合鍵で鍵をかけてから。
私はひとり、赤井さんが出て行ったドアを見つめた。
カチャッ
バタン
赤井さんが出て行ってからそう長く経っていない頃、鍵と扉を開ける物音に、眺めていたスマホから顔を上げる。
近づく足音とカサカサと袋の擦れる共に姿を現した赤井さん。
『おかえりなさい。
ありがとうございます』
私は笑みを向ければ、構わんと短い返事をくれる。
私たちは、赤井さんが買ってきてくれた食事を共にする。その最中、私は赤井さんから何があったのかと問い詰められ、誤魔化すことも、逆らうこともできず、素直に吐露すれば、呆れたため息を頂いてしまった。
食後、私たちは何を話す訳でもなく、赤井さんが食事と共に買ってきてくれたコーヒーを飲んでいた。
私はこの静かな時間も好きだった。
「また、暫くは帰れん」
おもむろに口を開いた赤井さんは、いつものようにそれだけを告げる。
『わかりました』
私もそれに、いつものように笑みを向ける。
深くは告げないし、深くも聞かない。それが私たちの暗黙の了解。
帰る赤井さんを見送る玄関で、赤井さんはいつものように口を開く。
戸締りをしっかりしろよ。
夜の来客は出るな。
いつもしばらく帰れないときには聞く台詞。
私は決まって笑ってわかりましたと返事をするのだ。すると赤井さんは頭をぽんと撫ぜてから自宅に戻る背中に、私は気をつけてと声を掛けながら、心の内で無事を祈るのだ。
…でも、今日はちょっと違ったんだ。
「…それと、あまり無茶をするな」
気のせいかもしれないが、そう言う赤井さんの表情が僅かに、ほんの僅かに辛そうに見えたのだ。
だから私は赤井さんを安心させたくて、私より頭ひとつ分くらい大きな体を抱きしめた。
『大丈夫です。ちゃんと…、ちゃんと、言いつけは守りますから。
赤井さんも気をつけて行ってきてください』
その体勢のまま、ふと赤井さんの顔を見上げる。
赤井さんの手が、私の背中に回ることはなかったけど、私を見下ろす表情はいつもの不敵な笑みを浮かべた赤井さんだった。
元々、そんな表情をしていたのかもしれない。でも、そんな風に見えたのは私の心の所為だったのかもしれない。
暫く帰らないと聞いた直後から、感じたことのないいい知れない不安。赤井さんがもうここに帰ってこないような、嫌な予感。
それが、赤井さんが放ったいつもとは違う台詞によって肯定されたような気がしたんだ。
安心したかったのは、私の方だったのかもしれない。
不敵な笑みを浮かべる赤井さんに、私はいつもの台詞を吐く。
無理はしないでください。
きちんと休んでください。
食事もきちんと食べてください。
コーヒーばかりではダメですよ。
その私の言葉に赤井さんは笑ってこう言ってのけた。
「まるで母親だな」
いつもなら、誰が母親ですかっ!と言い返し、共に笑い合える台詞。
だけど今日の私は、何故だか今にも泣き出してしまいそうな顔を堪えるように、必死に笑みを貼り付けた。
「俺の事は心配いらない。
だから、そんな顔をするな」
ゆっくりとした手つきで頭を撫ぜられれば、その暖かさにぽろりと落ちる涙。
その涙を隠すように俯き、ひたすらに溢れる涙を服の裾で拭う。
その感情のまま、私の口は勝手に、いつもは口にしたりしない、心内に留めていた祈りを言葉にしていた。
私はここに居ます。ここでずっと、赤井さんの帰りを待っています。
だから。だから、どうかご無事で。
告げた後、はっとして赤井さんの顔を見上げる。
「安心しろ。お前が待っていてくれているのなら、俺は必ずお前の元に帰って来よう」
そう言って、やさしい手つきで私の涙を指で掬い取り、やさしさを含んだ笑みを向けながら後ろ手にひらりと手を振り、自宅へと姿を消した。
呆然と立ち尽くす私の涙で濡れた頬を秋の冷たい風がさらりと撫ぜていった。