明日への扉

□17話
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「そんな顔をするな。ヒロインが心配するようなことは何もない」

目元に霞みがかかった人はそう言って、口元に不敵な笑みを浮かべると、私の頭をぽんと撫ぜ、踵を返して歩いて行ってしまう。

『待って!』

私はその人の後を追いかけた。
でも、追いかけても追いかけても必死に走っている私は何故か、歩いているはずのその人に追いつくことができない。それどころか、私達の距離はどんどん離れていく。

『…ま、待って…っ…!』

ふと、その人の名前を呼ばなければ止められないような気がした。
けれど、肝心な名前が分からない。

遂に私は足を止めて、必死に考えるけれど、分からない。知っている気はするのに、思い出せない。
早くしなければ、すぐにでも声も届かなくなってしまう。
焦りと、その人を失ってしまうような恐怖で余計に頭は回らず、ますます答えは出てこない。
ふと顔を上げるとその人の姿は見えなくなっていた。

『待って!!
ーーーーー!!』

かばっ!

ーー夢…

飛び起き、どきどきしている胸を押さえながらさっきの夢を振り返る。
私は夢の中で誰の名前を呼ぼうとしたのだろう。或いは、誰の名前を呼んだのだろう…。声は音にはならず、自身で動かしたはずの口の動きは何と形取ったのか分からなかった。

はぁ…
ひとつ溜め息を吐き、少しずつ暗闇に慣れてきた目で辺りを見回すと、最近見慣れてきたシンプルで女の子らしい部屋と、ベットに眠る女の子をとらえた。

私は気怠い身体をうんと伸ばして、そっと静かに布団を畳み、同室で眠る彼女を起こしてしまわぬようにそっと部屋を抜け出した。

着替えて、顔を洗う。化粧を済ませて、キッチンで朝食の支度をする。
次々に用意を済ませて起きてきたみんなで、出来上がった朝食を摂る。
後片付けをして、出勤の準備をする。
これが、退院してからの私の日課だ。

結局、以前の仕事は記憶がないことが大きく業務に支障をきたし、退職せざるを得なかった私は今、数日前に見つけた仕事にパートとして勤務している。

こんな生活ももう二週間が経った。

あれから二日後に病院を退院し、大阪にいるという私のおばあさんと毛利さんの話し合いの結果、私は毛利探偵事務所にお世話になることになった。

記憶は戻らないままだけど、日常生活に必要な知識は残っていたようで、料理や掃除、洗濯などはそつなくこなせた。
それだけ習慣が身に付いているんだろうと毛利さんは言っていた。

私がここにお世話になることになったのは、記憶を失った私に、以前のようにひとりで暮らせる力があるかどうかが心配だということで、毛利さんが面倒を見てくれると、大阪のおばあさんに申し出てくれたことがきっかけだったが、問題はもうひとつあった。

それが、日常生活は問題なくこなせるにも関わらず、私が未だに以前の住居に帰れず、二週間が経った今でもここにお世話になっている理由だ。


あれは、退院の日ーー
蘭ちゃんの提案で、毛利探偵事務所に向かう前に、私が以前住んでいたという家に着替えなど必要なものを取りに行くことになった。

私達はまず大家さんを訪ねて、毛利さんが事情を説明してくれ、暫く家を空けることを報告した。それから私が住んでいたという家に向かった。
私は持っていた手荷物から鍵を取り出し、蘭ちゃんに渡す。自分で開ける勇気がなかったからだ。

何故だかどきどきする胸。
それを抑えるように胸元で右手を左手で包むように握りしめた。

「ヒロイン、開けるよ?」

私はゆっくり頷くことで、蘭ちゃんに返事をした。
それを合図にゆっくりと開かれる扉。

『…ぃ…いや!!』

扉が開いた瞬間、激しい耳鳴りと頭痛に襲われ、私はその場に蹲り、意識を手放した。


そんなことがあってから、あの場所には近づいていない。
過去の記憶を取り戻したい気持ちと、過去に触れようとすると拒否反応を起こす身体。でもそれも、全てじゃない。一部の過去のような気がする。

触ることができる記憶から少しずつ取り戻していきたいな。

ーーそうと決まれば。




「何ぃ!?一人暮らしをする!?」

『はい。新しい職場の近くに空きのあるアパートを見つけて。
それに、大阪のおばあさんとも話しをしたんですけど、少しずつでも前の生活に戻していけば、記憶回復にもいいんじゃないかって』

「そうか…。
だが、何かあったらすぐに俺に言うんだぞ。お前は俺の娘みたいなもんなんだからな」

『うん!ありがとう、毛利さん!』

毛利さんの言葉がうれしくて顔が綻ぶ。

「ヒロイン、本当に無理しないでね」

『うん。蘭ちゃん、ありがとう』

「ボク、今度新しいお家に遊びに行ってもいい?」

『うん、いつでもおいで』

こういうやりとりをすると、“ヒロイン”は幸せ者だなと思う。こんなにやさしくて、暖かい人達に囲まれて。
記憶を失くした私にも、以前のヒロインとして接してくれる。忘れられることは悲しいことのはずなのに。

こんなにやさしい人達のことを、早くちゃんと思い出したいな。このまま忘れたままなんて嫌だ。



私の新たな生活が始まった。
以前住んでいたところからの荷物の運び出しは全て業者の方にやってもらった。こうして、過去に使っていた物やアルバムを見ても、身体に異変は起こらなかった。

ーーやっぱり、あの家に何かあったのかな…?


そんなことを考えながらやっていた荷物の整理も落ち着き、私は引っ越しの挨拶に行くことにした。

まずはお隣さんの家の呼び鈴を鳴らした。
少しして、カチャッと開いた扉の後に姿を見せたのは、長身の眼鏡を掛けた亜麻色の髪の男性だった。

『こんにちは!
私、隣に引っ越してきた〇〇ヒロインといいます。
こちら、心ばかりですが…』

「僕は沖矢昴といいます。
これは、ご丁寧にありがとうございます」

差し出した品物を受け取ろうと沖矢さんが手を伸ばす。すると、私の背中を押すように吹いていた風が、途端に向きを変え、私達の間を通り抜けた。
風に乗り、ふわりとにおうたばこのにおい。

『あ…れ?このにおい…っ!?』

知ってる気がすると続けようとした言葉は、急に襲ってきた激しい耳鳴りと頭痛によってかき消された。
目眩がして立っていられない。

「ヒロインさん!?大丈夫ですか!?」

沖矢さんの声は私の耳には届いていなかった。
私はけたたましく鳴り響く耳鳴りの奥で聞こえる、沖矢さんのものではない、男性の声のような低い音を必死に聞き取ろうとしていた。

ーーあなたは…誰…?
何を…言っているの…?

いずれその声も耳鳴りも遠くなり、目の前は真っ黒になった。




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