明日への扉
□15話
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『おはよー!
朝ごはん、出来てるよ!
いっぱい食べて行ってね』
赤井さんが暫く帰らないと聞いた私は久しぶりに蘭の所へ泊まっていた。
平日の朝はいつも朝食を準備し、蘭とコナン君を見送る。
今日の休みは何をしようか。事務所を掃除して、それから買い物にでもでかけようか。
事務所の下の歩道まで降りていってらっしゃいと手を振り、ふたりの背中が見えなくなるまで見送った後、事務所に戻る階段を上がりながらそんなことを考えていた。
「昨夜、来葉峠で炎上した車内から、男性の遺体が発見されました。
炎上したのは黒のシボレー。乗っていたのは、20代から30代の男性で、遺体に拳銃で撃たれた跡があることから、警察はー…」
事務所に戻ると点いていたテレビからの声が耳に入る。
なぜだかわからないけど、そのニュースの内容に私は釘付けになった。
そして、なぜだか脳裏を赤井さんの顔が過り、ざわめく胸。
居ても立ってもいられず、私は無意識に事務所を駆け出していた。おじさんが駆け出す私を引き留めようと名前を呼んだけれど、私の耳には届かなかった。
家に駆け戻り、普段はあまり使っていない車に飛び乗る。
気がつけば、来葉峠のあのニュースで見た辺りに降り立っていた。
既に遺留品は警察にきれいに押収されていて、もう何も残されてはいなかったけれど、ガードレールに僅かに付いていた煤から、この場所であることは間違いない。
なぜあのニュースを見た時、赤井さんが脳裏を過ぎったのか。なぜ今もこんなに胸が騒めくのか。
以前、赤井さんが帰ってくるところを偶然見かけたことがある。その車はあの、ニュースで見た車と同じだった。
でも、ニュースのそれが、赤井さんだという証拠はない。
黒のシボレー、同じ車種に乗っている20代から30代の男性はきっと少なくはないだろう。
なのに、なぜ…?なぜ、赤井さんが浮かんだのだろう…
私は、それを確かめたかったのかもしれない。だからこの地に駆け出したのかもしれない。
だから、この、何も残されていない状況に絶望しているのかもしれない。よく考えればそんなこと、当たり前なのに。
私は立ち尽くしていた足を動かし、そのガードレールの煤に近づく。
その被害者が、赤井さんかどうかは分からない。でも、ここでひとりの男性が亡くなったという事実は変わらない。
私はその場に屈み込み、手を合わせた。その男性のご冥福を祈りながら。
ゆっくりと目を開け、僅かに顔を上げる。
目の先で、ガードレールの先の崖の途中、生茂る草の中で何かが陽の光を受けて光っているのをとらえた。
私はガードレールを乗り越え、捕まりながらそれに目一杯手を伸ばす。
パーッ!
それを握りしめた時、車のクラクションがけたたましく鳴り響いた。
私は手の中を確認する間もなく、急いで崖を上がる。
後続車の男性に、すみませんと声を掛け、ぺこりと頭を下げる。
「大丈夫か?姉ちゃん!」
後続車の男性はそう心配の声を掛けてくれる。
『はい!大丈夫です!すぐに動かしますね、すみませんでした』
と再び頭を下げ、車に乗り込む。
手の中身は確認することなく、羽織っていた上着のポケットに突っ込み、車を走らせた。
そのまま自宅に着き、車を停めた。
信号待ちで、何度も気になるポケットの中を確認しようとした。
でも、できなかった。
結局、ひとりで確認する勇気のなかった私は、その後歩いて毛利探偵事務所に戻ってきていた。
「ヒロイン!急に飛び出して、何かあったのか?」
『うん。ちょっと、急用を思い出して…。
すぐ、お昼にするね』
「それはいいが…。大丈夫なのか?」
『うん、大丈夫。ちょっと待っててね』
おじさんに笑みを向け、キッチンに向かう。
昼食を作り、おじさんと食事をする。
食後、食器の片付けも終わり、朝にしそびれた掃除を終え、一息ついた頃、事務所のソファに掛けておいた上着のポケットに手を伸ばす。
重厚感があり、硬く、ひやりとしたものが手に触れる。
私は、この感触を知っている。
それを確かめるのが、怖かった。
だから、それを握りしめ、ゆっくりとポケットから引き抜く。
拳の中を確かめるため、僅かに震える拳をゆっくりと開く。
掌に乗っていたそれは、少し焦げ付いてはいたけれど、見覚えのある何もデザインの施されていない無地のジッポライターだった。
ひやりと背中を冷たい汗が伝うのを感じる。
ドキドキと耳を叩く鼓動が煩い。
僅かに震える手でそのジッポライターの底面を見る。
そこには不器用に刻まれたS.Aの文字。
それを見つけた瞬間、目の前を黒がチカチカとチラつく。
無意識に落とさないようにと、きつく握りしめたジッポライターの角が掌に食い込む。
激しい頭痛に襲われ、ふわふわとする足。
鼓動に支配されていた耳は、今は激しい耳鳴りに侵され、急に催した激しい吐き気も加わり、頭を抱えたまま蹲る。
耳鳴りの遠くでおじさんが私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、私は何も返事をすることもできず、一層強まっていく耳鳴りによって、遠く、遂には聞こえなくなった。
目の前が真っ暗になり、襲われていた全ての感覚がなくなっていく。
私の意識は深い闇に落ちていった。
目を開けると薬品の匂いに包まれた、真っ白い世界。
視界の端に映った点滴から、ここが病院であることを容易に理解した。
ただ、靄がかかったようにすっきりしない頭。
なぜ私がここにいるのか、点滴に繋がれているのか、全く理解できない。
そもそも、ここに至るまでの経緯が全く思い出せないのだ。
そんな違和感に顔を顰めていると、私の顔を覗き込むように顔を見せるみっつの顔。
「ヒロイン!気がついた!
私、先生を呼んでくる!」
と部屋を駆け出す女性。
「ヒロイン!大丈夫か?」
と安堵したような表情を見せる口髭を生やした男性。
「ヒロイン姉ちゃん、大丈夫?」
と低い位置から顔を覗かせる、メガネの男の子。
皆、口々に私の名前を呼び、親しげに話しかけてくれる。
けれど、私は…
「ごめんなさい。あなた達は…誰?」
私は、この人達を……知らない。