明日への扉
□12話
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ヒロインは本当に変な女だった。
もう、大事なものはつくらない。持たないと思っていた俺の前に現れ、少し触れただけでいつの間にか俺の中にすとんと落ちてきて、当たり前のようにそこに居座る。
いつしか、彼女を失うことを考えただけで虚無感に苛まれるほど。
それほど彼女の傍は暖かくて、やさしくて。居心地がよかった。
彼女はいつだって笑っていた。
素性を明かさない俺をその笑顔で、何を聞かずとも全てを受け入れてくれるかのようだった。
俺は、
明美を忘れた訳ではない。
明美を失ったとき、敵を討つと誓ったのだ。
もう、明美以外に大切な存在を持つつもりもなかった。騙して傷つけて挙句守れなかった俺が、大切なものを再び持っていいはずがない。
そう、思っていたはずなのに。
ヒロインに関わった時点で既に遅かったのだ。
再び、守りたいと思えるものを持ってしまっていた。
初めは警戒した。無警戒に無邪気に笑い、自分の素性も気持ちも素直に打ち明ける彼女は、全てが演技で、何かを企んでいるのではないか。
俺の素性を探るような言動をしないのは、聞く必要がないまでに既に知っているからではないか。
しかし、ヒロインにあったのは、全てを受け入れる寛大さと、暖かさ、やさしさ、思いやり。
それは惜しみなく、誰にでも与えられ、それは初対面の俺にさえ与えられた。
ああ。彼女は人を疑うことを“しない”のだ。
それに気づいたとき、彼女のことを疑っている自分が馬鹿らしくなってくる。
疑うことをやめ、素直に甘えた。
素生を明かせない分、自分の気持ちを素直に体現する彼女に、今の俺の全てを信用してくれている彼女に、今の感情は素直に言葉にすることで応えた。
無条件に人を信じる。
今まで見たことない人間だ。
俺の生きる世界では、まず、あり得ない。
ヒロインのような存在はすぐに闇に取って食われる。
だから、彼女のような人間が珍しかったのかもしれない。
変わった女だ。
しかしそれに不快感は一切なく、彼女の傍は堪らなく、居心地がよかった。
隣に住む以上、彼女のことは大体の下調べはしていた。
そんな彼女には早いうちに接触するつもりだった。彼女の部屋に盗聴器やら仕掛けられていないか調べるために。その目的が彼女でも、それは俺にとっても都合が悪いものだからだ。
俺は遠巻きに彼女の様子を観察し接触の機会を伺っていた。
彼女は調べていた通り、ひとりでそこに暮らし、毎日大体決まった時間に出勤し、帰宅する。勤め先も調べていた通りだった。
今のところ特に変わったところは無い、ごく普通の女だった。
彼女は近隣住民にいつも笑顔で声をかけ、帰りがけには立ち話をしたり、何か貰い物をしたりと、近所付き合いをしっかりとしているようだった。
そろそろ接触を図ろうと思っていたとき、それは不意に向こうからやってきた。
それも、家に上がり込む口実も考えずとも、彼女に手を引かれ、いとも簡単に上がり込むことができた。
あまりに事が簡単に進んでいるため、俺は彼女に対する警戒を強めた。
しかし、始終挙動不審な彼女が何かを企む余裕があるようには見えなかった。
点いていたテレビを消すと、幾らか落ち着きを取り戻した彼女に夕飯を一緒に食べないかと誘われた。
これは、室内を調べるいい機会だと思い、その誘いに乗った。
一度帰宅し、小道具を懐に忍ばせ再びヒロインの家に戻った。
食事をしながら、彼女の口を突いて出るのは、自分の生い立ちや世間話、料理のことや大阪にいるという祖母の話しが主だった。
俺に対する質問と言ったら、食に関するものばかりだった。
それが余計に俺の訝る気持ちを強めた。
それを悟られぬように表には出さず、彼女の話しに僅かな情報も漏らさないよう、適当に相槌を打ちながら耳を傾ける。
しかし、いくら話しを聞いても彼女から感じたのは、やさしさとうれしいという感情だけだった。
彼女がキッチンに向かったとき、ざっと部屋を見てまわったが、怪しいものは特になかった。
これで目的の部屋の捜索は終えたが、気になるのはヒロインのこと。
なぜ、初対面の俺の素性を何も聞かない?
聞く必要がない、つまり俺のことを知っているからか。それとも、俺に興味が無いからか。
しかしそれは、目の前でただ誰かと食事できる今を楽しんでいるようにしか見えないヒロインの姿を見ていると、どれでもないような気がした。
と共に、そんな彼女に対して警戒していることさえ的外れな気さえしてくる。
そんな俺に当初会ったときから、今も変わらず向けられる無邪気で人懐っこい笑顔は、俺の警戒心をやわらげていった。
素性の知れない男に、明らかに警戒している様子のないヒロイン。
また共に食事をしたいというヒロインに、核心をつく。
「俺の素性は気にならないのか?」
『気になりますけど、自ら語らないという事は語りたくないか、語れない。誰にでも、話したくないことのひとつやふたつはあります。だから私は敢えて聞きません。例えずっと話してもらえなかったとしても、私は自分が見てきた「赤井さん」を信じます』
帰ってきた予想外の言葉は正直な気持ちとやさしさを含んでいた。
しかしそれは、その場凌ぎの生優しいものではなく。そう述べるヒロインの真剣な瞳は強い意志を持っていた。
さらに、俺との時間が心地いいのだと、ヒロインは言った。
彼女も俺に対して心地がいいと感じてくれていたことは素直にうれしかった。
ああ。やはり、彼女は疑う余地もなく、極端に人に甘い女なのだ。
ヒロインの隣が、俺にとっても居心地のいい場所になっていることに気付いたとき、ふと過ぎるのは明美の顔。
あぁ。このままヒロインに関わり続ければ、ヒロインも巻き込んでしまう可能性がある。
しかし、この笑顔を失うわけにはいかない。
ヒロインの存在を失うには、俺は、その暖かさを知り過ぎた。もう、知らなかった頃には戻れないだろう。
ならば、この命に替えてもヒロインを守ろう。
可能な限り、傍にいよう。
「明日も来ていいか?」
とヒロインに告げた。
そのとき俺は、“自分が傍にいたい”のだと悟った。
笑うことを忘れた俺は、よく笑うヒロインにつられるようにか、はたまた、心の安らぐ場所を見つけたからか、少しずつ、笑うことを取り戻しつつあった。