明日への扉
□11話
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常備していた包帯、脱脂綿、消毒液、湿布、ガーゼは入っている分で足りたからよかったものの、救急箱の中身はほとんど空になってしまった。
手当てを終え、片付けを終えた頃、赤井さんに目線を移すと、彼はもう眠っていた。
血が付いてしまった掛け布団は赤井さんが下に敷いたままだったが、それを取り去るのは難しいだろうと判断し、血が付いてしまったところにタオルを敷き、赤井さんに再び付いてしまわないようにする。
押し入れから別の掛け布団を持ってきて、それをそっと掛けた。
私は部屋の明かりを消し、ベッドの傍らにしゃがみ込み、赤井さんの寝顔を見つめた。
赤井さんの顔を見ていると、自然と次々に浮かんでくるいくつもの疑問。
なぜこんな怪我を負ったのか。なぜ病院ではなく私の家に来たのか。この一ヶ月、どこに行っていて何をしていたのか。
何があったのか。どこに行っていたのかは見当がつかない。
でもきっと。病院に行かず、わざわざ私と赤井さんの家がある二階まで、この状態で階段を上って来たのだから、病院に行けない理由があるのだろう。
どんな都合なのかわからないけど。
わからないけど、“病院に行けない理由”は赤井さんが何か危険なことに関わっている可能性を私の足りない頭に浮上させた。
ふと頭を過ぎる出血のこと。
赤井さんの血がどこかに落ちていたらまずいのではないか。なんとなくそう思った私は下ろしていた腰を上げ、そっと外へ出た。
月明かりを頼りに廊下の床に目を凝らす。階下まで隈なく見て回ったが、滴る程の出血ではなかったのだろう。血が垂れた痕跡はなかった。
安堵し、部屋に戻る。
再び赤井さんの眠る、ベッドの傍らにしゃがみ込んだ。
あなたに対して、浮かぶ疑問は限りないけれど。私は全ての疑問から目を背けるから。私を傍に居させてください。
と祈るようにその寝顔を見つめた。
そして、浮かぶ全ての疑問を飲み込んで、今は赤井さんが帰って来てくれたことに、ただ、感謝した。
『赤井さん、お疲れ様。おかえりなさい』
その寝顔に小さく呟いた。
ーーーーー
赤井さんはそのまま二日間眠り続けた。
私はその間も毎朝、傷の消毒をし、ガーゼ、包帯や湿布の交換をした。
肩口が破れ、血が染み付いたシャツは手当てが終わった後、24時間営業のドラッグストアに底を尽きたガーゼやら包帯やらを買いに行った時に買った、シャツに取り替えた。
熱が出たり、傷の状態が悪化することもなく、幸い状態は安定していた。
いつもどおりに仕事に出て、昼休憩には、赤井さんの様子を見に帰宅し家で過ごした。
今日も休憩に帰ると、赤井さんは変わらず眠っており、休憩時間内には目覚めなかった。
仕事が終わり帰宅する。
帰宅するとまず、赤井さんの様子を見にベッドへ向かう。
『あれ?』
空になったベッド。捲る間もなく赤井さんが倒れ込んだ掛け布団には、痛々しい血痕だけが残されていた。
リビングに戻って、テーブルに目を落とす。
赤井さんがいつ目覚めても、気兼ねなく外出できるように、メモとともに合鍵を置いていたのだ。
『外出するときは、この鍵を使ってください』
これで、私の帰りを待たずとも、自由に外出できるだろう。そう思って、用意したメモだけが残され、鍵が姿を消していた。
起きて、早速どこかへ出掛けたんだろう。
そう思った矢先、玄関でがちゃっと鍵を操作する音がした。
その音に弾かれたように玄関へ駆ける。
「ヒロイン、帰っていたのか」
『はい!今帰ってきたところです。赤井さんもおかえりなさい!』
と笑みを向ける。
それに、ああ。ただいまと返事をくれる。
ふたりでリビングに向かいながら、後ろを歩く赤井さんを振り返り、声を掛ける。
『赤井さん、傷の具合はどうですか?』
「お前のおかげで随分と良くなっている。まだ塞がりこそしていないが」
そんな会話をしながらリビングに入り、テーブルを挟んで座る。
『よかった!私の至らない手当てで悪化しちゃったらって心配だったんです』
「いや、丁寧で適切な手当てだった。素人にしては十分だ」
『ふふっ。思ったより早く、動けるまでに回復してよかった』
「それにしても、随分と手際がよかったが、手当ては慣れているのか?」
『あぁ、それは…。
事件や困っている人を見ると、危険を顧みず駆け出して行く幼なじみがいて…、傷を負って帰ってくるたびに手当てをしたので、きっとそれでですね』
「そうか」
『でも、その経験が今回役立ったので、彼にも感謝しなきゃですね』
と僅かに顔を俯け、呟く。
その幼なじみの顔が頭に浮かんだ。
「…俺はここで二日間も眠っていたようだな。すまない。
お前のおかげで本当に助かった。礼を言う」
と言って、頭を軽く下げる赤井さんに、私は顔の前で両手を振る。
『やめてください!私はただ、私にできることをしただけです。それに、今まで赤井さんには助けてもらってばかりでしたので、今回、お力になれたようで、よかったです』
と言いつつ、赤井さんの力になれたことに、素直にうれしく、顔を綻ばせながら言葉を紡ぐ。
「…お前は、とんだお人よしだな」
と赤井さんが笑む。
その笑顔は、はじめて見せるやさしい笑顔で。
「俺のような男に利用されないように気を付けろよ」
と続ける顔は不敵な笑みに変わっていた。
『ふふっ。赤井さんはそんな人じゃないでしょう?
それに、私は大丈夫ですよ。私が誰かの役に立つなら、それが例え悪意を持っていようと、私は私がしたいようにするだけです』
「…まぁ、お前は相手の悪意を見抜けんだろうがな」
『……。ごもっともです』
呟く私に向けている赤井さんの顔は、今度は意地の悪い笑みを浮かべていた。
赤井さんの笑顔がやさしくても、意地悪でも、どきりと跳ねる心臓は、赤井さんの笑顔があまりにも綺麗だから。滅多に表情を崩さない彼が笑ってくれていることがうれしいから。このときはまだ、そんなふうに思っていた。
『でも、これだけは言えます。赤井さんは人を利用したりするような人間じゃない。
私の相手をしてくれる赤井さんも、十分お人よしだと思いますよ?』
私の言葉に一瞬驚いたように目を見開いたが、赤井さんはその後すぐに顔を俯けてしまった。
「…ふっ。俺は、お前が言う程いい人間ではないよ」
その表情を窺うことはできなかったが、なぜかその言葉は私に向けられた言葉ではないような気がした。
『そうなんですか?
でも私には赤井さんが悪い人には思えません』
「……」
黙ったまま私を見つめるその顔は、どこか呆れを含んでるように見えたけど、気にしない。
『私は赤井さんの全ては知りません。過去も、背負っているものも。
だから私は、私が見て、感じた赤井さんをそのまま信じます』
と笑みを向ければ、
「…君は、変わっているな」
とやさしい笑みを返してくれた。
その笑みに、思ったことを口にした。
『そういえば赤井さん、帰ってきてから笑ってくれることが増えましたね』
とうれしさに綻ぶ顔を堪えることもせずに告げる。
「お前には気を張る必要がないからな」
と言う顔は意地悪な笑みを浮かべていて。
『?
それは褒められているのでしょうか?
でも、嫌な気はしないので、ありがとうございます』
と笑って見せた。
私がこの感情の正体に気づくのは、もう、取り返しのつかなくなってしまった後だった。