獄都事変
□谷裂の責任
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「ねぇ谷裂」
何だ、と返せば苗字は横になったまま顔だけをこちらに向けた。
「私の頬の傷、どうしてくれんの?」
それは蝉がうるさく鳴く、夏の昼下がりだった。
日頃積極的に鍛錬を行わない苗字を引きずるようにして鍛錬場へ連れて来たのは谷裂だった。暑さでへばった苗字の首根っこを捕まえて、戦闘訓練に持ち込んだのだがーー
「そんな傷直ぐに治るだろう」
今は勝負がついたその直後。敗れた苗字は地に伏せて、胸の上下で荒い呼吸を繰り返しているのが見てとれる。
「そうじゃなくて」
上体を起こした苗字は、傷ついた頬を指で指し示しながら言った。
「女の顔に傷を付けたら男が言うべきことは只一つでしょう?」
自分達は獄卒、骨折をしても暫くすれば綺麗に治る。浅い切り傷なら尚更だった。
「何が言いたい。貴様が弱いから傷を負っただけだろう。俺は謝まらんぞ」
眉を顰めて言うと、苗字は抗議の視線を向ける。
「もう、謝れだなんて言ってないでしょ。私はただ女の顔に傷をつけた時、男なら言わなきゃいけない一言があるって言っただけよ。男、ならね」
苗字のその言い方は挑発しているかのよう。
「む……はっきりと言え」
少し悔しいが、男失格のレッテルを貼られるのは何よりも許せない。今は苗字に教えを乞うしかないだろう。
よしよし、そう言う苗字の顔は少し悪どい。
「でも悪いんだけど、答えは田噛に聞いてくれる?」
苗字から発されたのは耳を疑う言葉だった。
「何っ⁉」
こちらを見る苗字は少しニヤついている。
「こういうのはさ、女に言わせるものじゃないの。田噛なら知ってるからさ」
ね、そう言うと苗字は谷裂の背をグイグイと押し、鍛錬場の入口へと押し出す。
「さぁ、行ってらっしゃい」
頬の傷が消えかかっている苗字はニコニコしながら手を振って見送った。
「苗字がそう言ったのか?」
あの後、苗字の言う通りにするのは悔しかったが、何よりも男としての誇りを傷付けられる事が許せない谷裂は、団欒室で読書をする田噛を見つけて声を掛けた。
「あぁ、そうだ。貴様がまた苗字に何か要らぬことを吹き込んだんじゃないのか?」
「知るかよ。俺は苗字が人間の恋愛観を知りたいっていうから本を勧めただけだ」
田噛はそう言って机の上に置かれた本を顎で指す。
「さっき苗字がそこに置いてった」
本を手に取ると、とある頁に「たにざき」と書かれた付箋が貼られていた。
「フンッ。ご丁寧に付箋までつけおって」
付箋を頼りに頁を開く谷裂を横目に田噛は言う。
「早く戻ってやれよ。男、ならな」
その頃、鍛錬場では苗字が汗に濡れた顔を洗面台で洗っていた。
鏡を見ればもうすっかり傷痕は消え去っている。
(谷裂、戻ってきてくれるかな)
分かるように田噛の前へ付箋を貼った本を置いてきたが、頭の固い谷裂に理解が出来るかは自信がなかった。
まあ田噛が面白がってフォローしてくれるだろう、そう思ってタオルに顔を埋めた時、鍛錬場の扉が開閉する音が聞こえた。
「おい貴様、田噛と組んで俺を謀りおったな」
入口を振り返ると谷裂が仁王立ちしている。
「谷裂、答えが分かったの?」
苗字は少し驚いた後静かに笑顔を浮かべ、それはまるで聖女の微笑みのようだった。
「当たり前だろう。男の名を傷付ける訳にはいかんからな。だが、一度しか言わんぞ」
「一回で十分だよ」
苗字はそう笑って、さぁどうぞと谷裂の言葉を促す。
谷裂の責任
「その傷で嫁の貰い手が無くなったら」
俺が貴様を貰ってやる
その言葉を聞いた苗字は嬉しそうに笑った。