獄都事変
□朝顔
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地獄に迷い込んだ生者の名前は名前、と言うらしい。本当は苗字というものがあるらしいが、「名前が2つあるのか?どう使い分けているんだ?」と質問したら「もう名前で良い」と言われて答えは教えてもらえなかった。
「ところで名前、お前をこの世へ帰す前に手伝ってもらいたいことがあるんだが」
そう名前に伝えると、彼女は少し怪訝な顔をして応えた。
「私に手伝い、ですか?」
斬島は、不安気な彼女に千切れた注連縄を見せて言った。
「あぁ、難しいことではない。千切れた注連縄を結び直す為に、注連縄の端を持っておいてもらいたいんだが」
斬島はそう言うと、名前が地獄へ迷い込んだ原因はこの千切れた注連縄にある事、このままだと迷い込む生者は増える一方である事を説明した。
「へぇ、この注連縄が……」
そう言った彼女は注連縄の端を斬島から受け取った。
「あの、斬島さん」
既に作業に取り掛かっていた斬島は名前の声で顔を上げる。
「何だ?」
すると名前は申し訳なさそうに、大した事じゃないのでお手を止めずに聞いて下さい。と断りを入れて続けた。
「地獄って少し暗いですけど、この世とあまり変わらないんですね。社の側には普通に朝顔も咲いてるし」
彼女の視線を追うと、確かに社の近くに花が咲いている。
「あの花は朝顔と言うのか?」
作業の手を止めずに問うと
「はい。人間は子供の頃、殆どの子が朝顔を育てるんです。勉強の一環で朝顔の成長記録をつけるんですよ」
名前はそう言うと顔を綻ばせた。昔のことを思い返しているようだ。
「そうか。朝顔の世話は幼な子でも可能なのだな」
そう尋ねると名前は、育ててみますか?と笑った。
無邪気な笑顔にどう対応すれば良いのか戸惑う。
「朝顔は枯れた後に種が取れますから、それを乾燥させて来年の5月の終わり頃に種蒔きをしてみて下さい。6月頃には綺麗な花を咲かせますよ」
名前の笑顔を見ていると、何とか彼女の期待に添いたいという気持ちが湧いてくる。先程まで視界に映っても気にならなかった花が、自分の中で特別なものになっていくから不思議だ。
「そうだな、ならば育ててみよう」
そう応えると彼女は嬉しそうに言った。
「是非。なんか、鬼さんが朝顔を育てるって凄く和みますね」
どうしてだ、そう尋ねると名前は怒らないで下さいね、と言って理由を説明した。
「人間の世界では、鬼って角が生えてて大きい身体でとても暴力的な怖い生き物のイメージなんです。だから鬼の斬島さんが花を育てるって何だか意外で和むな、って。偏見ですね、ごめんなさい」
いつも亡者とばかり接しているせいか、素直に謝る名前には色々と驚かされる。泣いたり笑ったり、生者は様々な感情を持ち合わせている。きっと自分にはそんな感情、手に入れる事は出来ないのだろう。
「いや、謝ることじゃない。実際に角の生えた鬼はいるし、亡者や妖怪にも鬼を怖がる者もいる」
そう言うと名前は慌てて弁明した。
「斬島さん、私は斬島のことを怖いだなんて思っていませんよ。話していてとても誠実だし、斬島さんのことはとても好きです」
彼女の目は自分を真っ直ぐに見据えていて、嘘偽りの無い言葉なのだとよく分かる。
「……ありがとう」
帽子を深く被り直した斬島が礼を言うと、鬼さんも照れるんですね、と名前は言った。
解けた注連縄を漸く結び直した斬島は、社に注連縄を装飾し直す。
「応急措置としてはこれで十分だろう」
名前を見遣ると、彼女はほっとして呟いた。
「これで私も帰れるんですね」
名前とはこれでもう二度と会うこともなくなるのだと思うと、言い知れぬ喪失感が斬島を襲った。彼女の安堵感とは随分と対照的だ。
「怖い思いをさせた上に、社の修復まで手伝わせて悪かった」
そう伝えると
「いえ。私を助けてくれたのが斬島さんで本当に良かったです」
と名前は言った。確かにこの任務に赴いたのが平腹や谷裂であれば、名前の鬼のイメージはやはり怖い生き物となっていたかもしれない。
斬島は目の前にこの世と地獄を繋ぐ穴を空けると名前の手を取って先導する。
「斬島さん、手、冷たいんですね」
そんな彼女の言葉に、自分と名前は住む世界が違うのだと実感した。