獄都事変
□夕陽と君と私のしじま
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名前は今、窮地に立たされていた。暗闇に一人きり、向かう先には生きた人間なのかも怪しい男。
「ぅ、ぁ……」
もしかしたら変わった作業服の業者かもしれない。作業員の方ですかと、そう尋ねればいいだけなのに、恐怖で小さな呻き声だけが漏れる。
電気が落ちるのと同時に気温も下がったように感じて身震いする。どうすればこの状況を打破できるのだろうか、そう考えていると男が口を開いた。
「チッ……おい、何でこんなとこにいるんだ」
小さな舌打ちと共に苦々しげな顔で尋ねられる。幽霊……は舌打ちなどするのだろうか。否、そんな幽霊はいないだろう。緊張の糸が緩むのを感じた。
「……あの、私この会社の職員で、忘れ物を取りに来ただけなんです……作業員の方、ですよね?」
及び腰でやっと尋ねることの出来た私に、男は少し間を開けて答えた。
「……あぁ」
男は面倒そうに視線を反らせる。作業の邪魔なのだろう。もう帰ると伝えてこの場を立ち去ろう、そう思い口を開いた。
「あのーー」
「ぅおぉぉ、あっぶねぇー。田噛、なに突っ立ってんの?」
誰もいなかったはずの空間から同じ作業服を着た男が現れ、田噛と呼ばれた男を突き飛ばした。
田噛さんはむくりと起き上がり、怒りを隠すことなく男の襟首を掴む。
「……殺す」
突如始まった小競り合いに私は呆気に取られる。
(……何なんだ、この状況)
ポカンと見つめていると田噛さんが男に尋ねた。
「木舌は?」
「ほ?木舌ならまだ1階じゃね?電気落としたら上がってくるってーー」
田噛さんはそこまで聞くと、掴んでいた男の服を離して言った。
「平腹、先行ってろ。俺はこいつを下まで送る」
そう言い、私をチラリと一瞥する。恐らく、こいつとは私の事なのだろう。
「えー、田噛ばっかずりぃな。そう言ってサボんだろ」
後から現れた平腹という男は、頬を膨らませている。
「あの、私一人でも大丈夫ですよ?明かりありますし」
二人の話に割り込み、断りを入れる。一人で暗闇の中を歩くのは怖かったが、仕事の邪魔をするのは忍びない。
「……いや、駄目だ。怪我されたらこっちの責任になって面倒だからな」
田噛さんが来い、と一言告げて階段の方へ歩き出す。
お言葉に甘えて良いのだろうか。不満そうにしていた平腹さんが気になり、振り返って様子を伺うと、こちらの視線に気付いて手を大きく振ってくれた。
「じゃあなー」
慌ててお辞儀をする。
少し怖い田噛さんと正反対の、少し幼い印象を受ける人……
彼のお陰で場が和んだことに感謝しなければ。
名前は、明かりも持たずに先導する田噛を追った。