獄都事変
□恋したのはピアノの音
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「さっきは大丈夫だった?怪我してない?」
私の少し前を歩く佐疫さんが声を掛けてくる。
「谷裂の声がしたと思ったら、鈍い音が聞こえたからね。驚いて扉を開けたんだけど、君が見えたから。あぁきっと怪我をしたとするなら谷裂より君の方だろうなって思ったんだけど。違ったかな?」
天使だ。今日、館で会ったどの獄卒よりも紳士な対応に、この者が鬼であることを疑いたくなる。
「頭と背中を少し打ったんですけど、大丈夫です。演奏の邪魔をしてしまいすみませんでした」
「本当?腫れてるんじゃない?」
そう言い、彼は私の後頭部にそっと触れる。患部が急に熱を帯びた様な気がした。
「だ、大丈夫です。それより、私お二人の会話の邪魔をしてしまって……」
そう、私は谷裂という厳つい男が「鍛錬を〜」と佐疫さんに強要しているところを邪魔してしまったのだ。
「あぁ、いや君のお陰で助かったよ。昨日も勝負したばかりなんだ」
眉を少し下げて話す佐疫さんに同情する。あんなに強そうな獄卒に毎日鍛錬という名で虐められているのではないか、そう思うと切なくなってくる。
「谷裂は負けず嫌いでね、早く俺に勝ち越したいみたいだから」
……どうやら佐疫さんは、お強いらしい。ただの優男ではないことを知り、男を感じてドキドキしてしまう。
「そ、そういえば、ピアノお上手なんですね!私、災藤さんがピアノを弾いているのかと思ってしまいました」
私がそう言うと、彼は少し目を丸くして、頬を染めた。
「ありがとう。実は災藤さんにピアノを習ってるんだ」
純粋な笑顔が可愛い……
「私、ピアノを聴くのが好きで……良かったらまた聴かせてください」
勿論、ピアノになんか興味はない。「佐疫さん」のピアノが好きなのだ。いや、「佐疫さん」が好きなのか?
「じゃあ君が次に館へ来る時までに、もっと上手く弾けるよう練習しておくよ」
可笑しそうにふふっと笑う佐疫さんの表情で、雷に打たれたような衝撃が私の身体に走る。
初めての感覚だった。
その時、階段の下から声がかかる。
「あれ、苗字じゃないか」
災藤さんの声が聞こえてはっとする。視線を移すと、そこには災藤さんと田噛さんがいた。
「災藤さん、そちらの方が閻魔庁からのお客さんです」
「そうだったのか。よく来たね、苗字」
階段を下りると、災藤さんが微笑みながら私の頭に手を置いた。
やはり佐疫さんの優しい手や穏やかな雰囲気は、災藤さんにとてもよく似ている。
違うのは、佐疫さんが触れた後頭部は未だに熱を持っているというところ。
「書類預かるよ」
災藤さんがすっと書類を取り上げ、綺麗な字で受領書にサインした。
「佐疫、お土産買って来てるから皆で食べて。私は苗字を見送ってくるから」
そう言い災藤さんは私の背中に手を添えエスコートしてくれる。
もう少し佐疫さんと話したかった。そう言わんばかりに佐疫さんへ視線を向けると、それに気づいた佐疫さんが片手を上げて応えてくれた。
館の門をくぐる時、災藤さんに聞いてみた。
「災藤さんがピアノを教えている彼、どんな人なんですか?」
災藤さんが、おや、という顔をした。
「佐疫のこと?そうだね、教えてあげてもいいけど」
佐疫のことが好きなのかい?
その言葉にギョッとして、災藤さんを見上げる。災藤さんはにこやかだが、何を考えているのか分かったものじゃない。白を切るべきだと私のちっぽけな脳味噌が警鐘を鳴らす。
「ち、違います。ピアノの音が好きなだけです」
そう言うと、災藤さんはクスリと笑い、私に囁く。
「……そんなにピアノが好きなら、特務室へ異動してくるといい。私もその方が楽しいしね」
顔を真っ赤にした私が災藤さんを睨んでも、きっと大した効果は無かったのだろう。
私は逃げるようにその場を後にした。
あれから私の頭の中では、いつも災藤さんの言葉が堂々巡りをしていた。
「おい」
先輩の声で、今が仕事中だったことを思い出す。
「書くのか、異動願」
先輩の手には異動願が1枚。私の為に貰ってきてくれたのだろうか。
「何か知らんが、お前宛てに届いてたよ」
異動したい想いを打ち明けたのは先輩が初めてなのに、一体誰が……驚きながらもお礼を言うと、先輩は手をヒラヒラと振って持ち場へ戻って行った。
手にした異動願に視線を落とすと、勤務希望先に特務室と綺麗な字で記載があった。
この字、どこかで見た覚えがあるような……
不思議に思いながらも、書類をポケットへ突っ込んだ。
「私のピアノには興味を示さなかったのにね。全く、妬けてしまうよ」
「何の話ですか、災藤さん」
「いや、何でもないよ」