ヘタリア短編 展示水槽

□日日礼讃
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私たちの身近に有る紙は中國さんの発明であると聞き及びます。近年入ってきた西洋紙に対して、只の実用品と云う以外に何の感興も起こりはしませんが、
唐紙や和紙の肌理を見ると、そこに一種の温かみを感じて心が落ち着く感じがするのです。
西洋紙の肌は光線を撥ね返すような趣がありますが、奉書や唐紙の肌は柔らかい初雪の面のようにふっくらと光線を中へ吸い取ります。手触りはしなやかで折っても畳んでも音を立てません。
それはまるで木の葉に触れているのと同じように物静かで、しっとりしているのです。
全体私たちはピカピカ光るものを見ると心が落ち着かないのです。西洋の皆さんは食器などに銀や銅鉄やニッケル製のものを用いてピカピカに研ぎ立てますが、私たちはあのように光るものを嫌います。
私たちの方でも、湯沸しや杯や銚子等に銀製のものを用いたり致しますが、研ぎ立てたりはしません。
却って表面の光りが消えて、時代がつき、黒く焼けて来るのを喜ぶのであって、心得のない女中さんたちが折角錆の乗って来た銀の器をピカピカに研いだりして、主人に叱られるというのはよく耳にする事件です。
近来中國さんは食器に錫製のものを使っているそうですが、恐らく中國さんはあれが古色を帯びて来るのを愛するのでしょう。
新しい時はアルミニュームに似た、あまり感じの良い物ではありませんが、中國さんが使うとああ云う風に時代をつけ、雅味のある物にしてしまわなければ承知しません。
またあの表面に詩の文句などが彫ってあるのも、肌が黒ずんでくるに従ってしっくりと似合うようになるのです。
つまり中國さんの手にかかれば、薄ッぺらでピカピカする錫という軽金属が、朱泥のように深みのある、沈んだ、重々しいものになるのです。

また中國さんは玉と云う石を愛していますが、幾百年もの古い空気が一つに凝結したような、奥の奥の方までどろんとした鈍い光りを含む石の塊に魅力を感ずるのは、私たち東洋人だけではないのでしょうか。
ルビーやエメラルドのような色彩があるのでもなければ、金剛石のような輝きがあるのでもないああ云う石の何処にそんな愛着を覚えるのか、私たちにもよく分かりませんが、あのどんよりした肌を見ると、
いかにも中國さんの石らしい気がしてきて、長い過去を持つ中國さんの滓があの厚みのある濁りの中に堆積しているように思われて、中國さんがああ云う色沢や物質を志向するのに不思議がないと云うことだけは頷けます。
水晶などにしても、近頃は智利から沢山輸入されますが、日本の水晶に比べると、智利のはあまり綺麗に透き通りすぎています。
昔からあります甲州産の水晶と云うものは、透明の中にも全体にほんのりとした曇りがあり、もっと重々しい感じがし、草入り水晶などと云って奥の方に不透明な固形物の混入しているのを、寧ろ私たちは喜ぶのです。
硝子でさえ、中國さんの手に成った乾隆グラスなどと云うものは、硝子と云うよりも玉か瑠璃に近いのではないでしょうか。
瑠璃を製造する術は早くから東洋にも知られていましたが、それが西洋のように発達せずに終り、陶器の方が進歩したのは、余程私たちの国民性に関係するところがあるに違いありません。
一概に光るものが嫌いではありませんが、浅く冴えた物よりも沈んだ翳りのある物を好みます。それは天然の石であっても人工の器物であっても必ず時代の艶を連想させるような濁りを帯びた光りです。
尤も時代の艶などと云うとよく聞こえますが、実を言えばそれは手垢の光りです。中國さんのお家には手沢という言葉があり、私の家になれと云う言葉があるのは、長い年月の間に人の手が触って一つ所をつるつる撫でているうちに、自然と脂が沁み込んでくるようになります。


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