導体

□終わる悪夢
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崖にいる。
写真でよく見かける、ここは自殺の名所だ。
そうだ、自殺をしにきたのだった。ここから飛び降りて、全てを終わらせなければならないという使命。
崖に、海に向かって一歩を踏み出す。いつも履いているヒールが高い音を立てて最後に存在を主張する唯一の音を鳴らす。
あともう一歩。そこは断崖絶壁、深い蒼が広がり、宙空に体は放り出され、妾は終わる。そのつもりだった。
「っ?!」
思わず息を詰める。
崖に指がかかっていた。あり得るわけがない。その指は這い上がろうと必死で力を込めている。今の妾にはない生への執着を見せているが、白く細い指は明らかに屍人のものである。
腰が引けて、足に力が入らなくなって座り込んだ。無理な力にヒールのかかとが折れた。
その屍人の指の先、手を引く他の腕。その腕にさらに腕を引き、こちらへとこちらへと向かってこようと他の腕を蹴落とそうと懸命にもがいている。見える範囲だけではない。きっと崖のその下まで続いている。確信を持って言える。
「は、はは…ははは……………」
その下にある先程まで蒼かったはずの海に白い波が立っている。波ではない。海の中に自分よりも少し前にいる腕を引きずり込んで、上へと上がろうともがく腕だ。全てそれだ。
怖い、怖いよ。
死にたいのに、死ねない。ここに飛び込んだら地獄にもきっといけない。
「まだ、死んじゃいけないのかぃ…」
この腕に引きずり込まれて死にたくないとは言えるけれど、これ以上生きていたくもないのに。
これはきっと妾が取りこぼした、生きたい命たちだ。
「もう、嫌だ……」

目覚まし時計が雷が轟くような音で妾の意識を引き戻す。バチンッ、と瞼が痛むほどに勢いで目を開けた。見慣れた天井と畳の上の布団の感触に、やけに現実味が強かった土の感触を思い出して、いつのまにか強張っていた体の力を抜いた。
怖くて怖くてしょうがなかった。今すぐ寝るのはなんとなく嫌だが、今日はもう家でこのまま天井の染みでも数えていたい。自堕落な思考に自虐的な笑みが溢れた。
そこでやっと、上がった口角が水に触れたような気がして手を伸ばす。
頬が濡れ、目元が腫れているのがわかった。
「泣くほど怖かったってのか…」
あの腕の多さに、寝起きで空っぽの胃が締まる。気持ち悪い。
生への執着に、それが取りこぼした命の残像だということに、頭痛がした。痛い。
死にたいと思った妾が、嫌になった。
目を閉じる。
視覚を封じたお陰で色んな音や振動が伝わってきた。
隣の部屋では谷崎が起き出して朝御飯を作り始めたらしい。賢治はまだ寝てるはずだ。起こす当番は誰だったか。敦が上の階でドタドタと走り回っている。また太宰が自殺でもしているのだろう。鏡花が包丁を壁に投げる音も聞こえる。幾ら白雪が制御できないといえどこれ以上壁に穴が開くのは注意しなければ。国木田は朝の鍛錬から帰ってきたところか。扉を開ける音がする。社長に今日は勝てたのかい?それともまた乱歩さんに笑われながら投げられた?どっちでもいい、日に日に社長の余裕がなくなってるのを妾は知ってるよ。

もう一度、今度はゆっくりと目を開ける。相変わらず見慣れた天井。脳裏にこびりついて離れない悪夢。

それでも、今日も1日が始まる。

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