導体

□もはや戻れないありふれた場所
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金曜日の夜の十時。残業も終わって、探偵社の戸締りをする。
明かりの消えた探偵社の窓に背を向けて、自宅があるのとは反対の方向へ。
ネオンの光がさすように今日も背中を押してくる。もはや行き慣れたホテルの四号室。高くもなく安くもなく、サービスも可だって不可だってない。ありふれたその部屋の妙に古臭いソファに鞄を投げ捨てて。ネクタイもシャツもスカァトもストッキングも適当に放って。髪飾りだけ、そっと備え付けの卓の上に置く。
棚から一枚タオルを取り出して狭いシャワー室の中へと入った。
ぬるい水と香りのきつい石鹸で体中を洗っていく。自分についた香り―探偵社の陽だまりの香りとか、彼の駄菓子の香りとか―を丁寧に落としていく。
悲しくなるほどにこのホテルのようなありふれた香りしかなくなった所でシャワー室から出た。詰まっていた息を吐き出しながらソファに近づくと、見慣れた影が、服をたたんでくれていた。
「金色夜叉かい。あぁ…、じゃあ鍵を開けてやらないとねぇ」
タオルを部屋の中央にあるダブルベッドに投げて、下着のままで部屋のかぎを開ける。
「晶子…。下着のままで出てくるなと、いつも言うておるじゃろう…。」
「久しぶりだね、紅葉さん。そう言うならとっとと扉を閉めておくれよ」
ありふれた部屋の中に、甘い紅が入りこむ。ネオンの光のように刺激的で、蜜のように優しく、たった一つ、この部屋に新しい色彩が加わったというだけで詰まった心が満たされていくようだ。
「いつも言うけど着物は着てこないんだね」
「着ている分には問題ないがな、中々脱ぎずらいのじゃ。そう言う晶子こそ、仕事着以外は着てくることがないじゃろう?」
「妾は金曜は毎週のように残業があるからねぇ。それから向かってるんだ、仕方ないのさ」
年相応の女性の洋装を、紅葉は妾と同じように放っていく。イメージとはどこか違う下着のままに、妾と同じようにタオルをとってあのシャワー室へと入っていった。
「金色夜叉、紅葉は怪我してないかい?」
「……。」
「ならいいんだ。危険な仕事だからね、綺麗な体なんだから傷でもついてたら嫌だろう?」
「!!…」
「そうだね、あんたが守ってるから安心だ」
「………?」
「妾かい?勿論さ。最も、妾の場合は直ぐに治っちまうけどね」
「楽しそうじゃな」
「…………紅葉さん…、あんた入ってから出てくるまでがちょっとばかし早くないかい?」
「こんなものじゃろう。晶子こそ、普段から時間をかけ過ぎではないか?」
「こんなもんさ」
「そんなものか」
「あぁ」
拍子のいい会話に自然と笑みがこぼれた。金色夜叉の姿がそっと消え、部屋の中に二人きりになる。
濡れて重くなったタオルを二枚、床の上に落として、二人でベッドに腰掛ける。水気を含んだ肌が密着するほどに近づいて、そっと指を絡め合う。
「寂しくなかったかえ?」
「そう言えば先週は会えてないねぇ…。けど、乱歩さんもいたし、寂しくはなかったよ」
「わっちも先週の今頃は中也と二人で任務じゃったのぉ。久々の逢瀬にしゃれこんだもんじゃ」
「中々楽しそうじゃないか。何人殺したんだい」
「それは言わぬよ。言えば、晶子が傷つくでな」
「傷つく、ねぇ。そう言えば乱歩さんが感づいてたよ」
「ほほう、流石名探偵。とでも言えばええか?」
「敵にまで言われるとは、あの人でも思ってないだろう」
会話が途切れ、絡めていた指をさらにきつく、彼女が握ってくる。負けじと握り返せば、幼子のようなそれでいて妖艶な美しい顔がゆっくりと距離を縮めてくる。そっと目を閉じれば、幾ばくもせずにふっくらとした唇が重ねられた。彼の少しかさついた唇とは全く違う感触に、心がゆっくりと壊されていく。しつこく吸いつかれ、甘噛みされ、呼吸をしたい、と開いてしまった隙間に熱い舌がねじ込まれる。歯列をなぞり、頬裏を舐められ、舌を引かれ、どろどろと二人分の唾液が喉の奥へ、体の中へと吸収されていく。入りきらなかった唾液が太股の上に堕ちれば、覚悟のなかった刺激に腰が跳ねて痙攣した。
流石に息苦しさに耐えきれず、どちらともなく唇を離す。深い呼吸を互いにしているのに、紅葉はもう片方の手を妾の腰にまわしてベッドへ向かって体重をかける。二人分の体重が倒れ込む衝撃に耐えきれなかったベッドが
嫌な悲鳴を上げた。
「今日は、ずいぶんと余裕がないね」
「晶子も、普段より抵抗してこないのぉ」
「……触れてくれるのは、紅葉さんだけじゃないか」
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