或る街の群青

□悠久の調べ
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※14歳くらいの話

昔も今も、人の考える事は何も変わらない。人を思う気持ちも、悲しみも喜びも。それらは文字という形で書物になり、そして後世に残される。
 人は書物から学ぶ。しかしそれは同時に、大昔の人々から学ぶという矛盾でもあった。過去から学ぶということは、その時より人は進歩していないということなのだ。
 ここはクレイモラン地方、古代図書館。古の時代より存在する知の宝庫である。
 クレイモラン王国の学者に連れられて初めてこの場所を訪れた少年は、切れ長の目を大きく開き、そのバターを溶かしたような黄金色の瞳を輝かせた。
 古代図書館の戸を開けばそこに広がる壁を覆い尽くす書物たちに、彼が心を踊らせないはずがなかった。幼い頃より本を読むことが好きだった彼にとって、ここは宝の山でもあり、そして遥かなる叡智を求めるのに最適な場所なのだ。
 天井を見上げても数え切れないほどの本棚の圧巻な光景に、思わずその唇は感嘆の声を上げた。
「凄い……。本でしか知らなかった、こんな場所に来れるなんて……!」
 小走りで奥に進もうとする少年に、同行者である学者が穏やかな笑みを零しながら「こらこら、ホメロス。ここは魔物も出るから、私からあまりはぐれてはいけないよ」と声をかける。
 ホメロスと呼ばれた少年は、長い蜂蜜色に輝く髪をひらりと靡かせ、少し照れたように壮年の学者へと駆け寄った。
「申し訳ありません、エッケハルト先生。ずっとここへ来たかったから、つい、はしゃいでしまって」
「好奇心旺盛なのは良いが、君をデルカダール王国から預かる身としては、時々心臓に悪いよ?」
 言葉とは裏腹に感心したように笑うエッケハルトに、少年ははにかむように唇を緩める。この学者が自分の存在を疎ましく思っていない事は分かっていた。かつて彼も自分と同じく、この地で学ぶ事を夢見ていた同志であると知っていたからだ。
 ここ、大昔から存在する古代図書館は、この地を治めるクレイモラン王国が建国されるよりもはるか昔から存在する。ある日、旅の果てにここにたどり着いた者の手により発見された。その膨大な量の書物は、一冊一冊全てにとんでもない情報量と価値があることが証明されたことにより、探究心と知識欲を求める学者たちが集いクレイモラン王国が建国されたのだと言う。
 そんな場所に足を踏み入れる喜びを、エッケハルトに分からないはずがないのだ。彼の目にうつるホメロスは若き日の自分のようで、その若い芽を見守る温かさに充ちていた。
 まるで親と子のような二人が図書館内を散策していた時の事だ。エッケハルトが真新しい小さな足跡に気付いた。
 古代図書館は納められる莫大な知識の塊ではあるが、その中は魔物の住み着く危険な場所でもある。そんな中でまるで子供のように小さな足跡が点々と散らばっているのはとても不可解なことなのだ。彼のように学者の卵を連れてくる者がいることは確かだが、その足跡はその子供のものだけのようだ。
 一瞬、ホメロスの足跡かとも考えるが、ここまでの道のりでホメロスが自分よりも前を歩いたのは、入口から入って数メートルまでの場所までだった。
 眉を寄せながら、彼は中央の本棚の塔から東西南北に伸びる橋を見上げるが、不思議なことに人の姿どころか、魔物一匹ですら見当たらない。まるで神聖な存在で充ちているような、静謐さの中に落ちる木漏れ日のような、そんな優しい空気だった。
「エッケハルト先生?」
 ホメロスの呼び掛けにようやく一息ついて視線を戻したエッケハルトは、何でもないよと返して先へと進むことにした。
 




 エッケハルトとホメロスがこの場所へと来た目的は、かつて勇者と共に旅をしていたウラノスという魔導師の残した書物を探して、そこに記された魔法に関する記述を書き写しクレイモラン王国へ持ち帰る為だった。
 この場所に置かれた書物達はその値をつけることのできない価値故に、持ち出すことを許されていない。世界の財産として守る為、持ち出して分散させるわけにはいかないのだ。
 探しているウラノスの魔導書がどこに置かれているのかも分かっていないため、数日に渡り王国と古代図書館を往復して探す事になっている。
 ホメロスは、魔物が出ると聞いていたのに随分と静かな図書館内で、不思議に思いながらも隅から隅まで背表紙の文字を目で追った。
 こうして本に囲まれていると思い出すのは、幼馴染である少女の事だった。自分と同じ蜂蜜色に輝く金髪をした彼女は、本の虫であり、初めてあった時からその歳には似合わないような分厚い革張りの難関な書物を抱え、同年代の子供達と打ち解けられない所も自分とそっくりで、そんな事がきっかけで共に過ごすようになったのだ。
 デルカダール城の図書室で朝な夕な本に没頭した日々を思い出すと、つい三年ほど前のことだというのに、子供である彼にとっての月日の流れは、まるで永久のように感じられた。
 今彼女は何をしているのだろうか?寂しくて泣いていないか、辛い思いをしていないか、心配することは山ほどある。しかし、その心配する気持ちの強さと同じだけ、彼女の持つ心の強さを知っていた。
 強くなって今度は自分が手を差し伸ばせるようになりたいと語っていた彼女の、月の明かりのように柔らかな笑みを思い出す。柔らかそうな白い頬を、ほんのりと薔薇色に染めて少し恥ずかしそうに照れて笑う姿を。
 ホメロスはそんな彼女の笑顔が大好きだった。自分を守るといったその言葉が、いつか現実になるとも信じていた。のんびりしているように見えて、とても強かな女の子なのだ。
 彼女は強い魔力の制御を行えるようになるために、ドゥルダ郷のニマ大師の元と、神職としての知識を得るために聖地ラムダを定期的に往復しては修行に励んでいるとデルカダール王からの手紙から知っていた。
 ここクレイモラン地方のすぐ傍に聖地ラムダはある。運が良ければ、どこかで会えるかもしれない。もし、久しぶりに彼女に会う事が出来たら、話したいことが沢山ある。
 彼女が旅に出て一年後に、ホメロスと、そして同じく幼馴染であるグレイグはそれぞれの意思で修行の旅に出る事に決めたのだ。ホメロスはこのクレイモラン、グレイグはデルカダール王国の兵士数多く輩出した、ソルティコのジエーゴという剣の師の元へ、自分たちが国の為に何ができるか最良のも考えた結果の進路だった。自分たちの選んだ道の話は勿論、彼女をとても慕っている貴族の令嬢の話や、城に仕えているメイド達が帰りを心待ちにしていることなど、数えたらきりがない。
 しかし、きっと、彼女が目の前に現れたら、今考えたような話したい事は全部頭の中から消えてしまうのだろう。だた一言「会いたかったよ」というだけで精いっぱいになってしまうのかもしれない。
 くすりと笑みをこぼし、ホメロスはまた根気よく背表紙の並ぶ本棚へと視線を戻した。
 数時間後、入り口から時計回りに一周探し終えて、ホメロスは盛大な溜息をつく。本を読んでいるときならまだしも、ただ背表紙のタイトルと著者を延々と追うだけの作業ではなかなか集中力が続かない。普通の子供なら、とっくに本棚から意識をそらしているだろう。
 大きく深呼吸をして伸びをすると、塔の天窓から降り注ぐ陽の光に思わず目を細める。薄暗い図書館塔の中で輝くその一点の光は、とても眩しく感じられた。
 そんな時だった。環状に塔の内壁をぐるりと一周する本棚から中央に伸びる橋に、きらりと陽の光を浴びて輝くものを見つけた。まるで黄金色をしたビロードのターバンのようなそれは、いつか見た幼馴染の女の子の前髪のカーテンを思い出す。旅に出る前はすっかり愛らしい顔が見える様に整えられたが、後ろ髪は背中の真ん中まで伸びている頃だろう。
 彼女も自分と同じく本が好きな子供だった。そして頭によぎるのは、自分が最後に見た時よりも少し成長した彼女の姿。
 そう思ったら居てもたってもいられなくなり、ホメロスはエッケハルトの制止の声も聞かずに階段のある方向へ駈けだした。
心臓が大きな音を立てていた。階段を駆け上がり、仕掛けを解いて上へと上がる階段をさらに上がっていく。
 魔物は何処にもいなかった。神聖な空気が濃くなる中、その先に感じる人の気配に段々と確信を持ち始める。
 最上階へと至る階段を上り終え、中央部へと延びる橋へと足を進めた。重厚感のある扉の向こう。数センチだけ開いた戸の隙間から、机に本を積んで読みふける小さな姿がちらりと見えた。
 はやる気持ちを抑えながら、一つ、深呼吸をする。そっと扉に手をかけ、中を覗き込んだ。
「ベルナデッタ、なのか……?」
小さな頭が、ゆっくりと動き、顔を上げる。小さな顔に大きな色素の薄い水色の瞳が、驚いたように見開かれた。こんなところで声をかけられたことによる、一瞬浮かんだ戸惑いの表情が、少年の顔を見つめるうちに白い頬に赤みが差し始める。花が咲いたように綻ぶ彼女の表情に、ホメロスははにかむように笑った。
「驚いたよ……!だって、背がすごく伸びているから、声をかけられたときは誰なのかと!」
手にしていた本を閉じ、机に置いたベルナデッタと呼ばれた少女は、まさしくホメロスが先ほどまで思い出していた幼馴染だった。
 旅に出る前にある理由からすっかり短くなってしまった髪は、腰の辺りまで伸びていた。背はあまり伸びている様子はないが、顔立ちがすこし大人になった気がする。
 今はラムダで修行をしているのか、白と紫のワンピースとその上に白のローブを身にまとっていた。そっとこちらに歩み寄るベルナデッタは、ホメロスの前に立ちと彼の瞳を覗き込むように顔を寄せる。
 ふわりと、鼻孔を擽る薔薇の香りがした。確か、子の香りは彼女が髪の手入れに使っている香油だ。そう気付いたとき、ホメロスは無意識に彼女の頬に触れていた。
 三年、それはとても長い時間のように感じられた。互いにもう歳は十四を過ぎていた。
「話したいことが、たくさんあったんだ。それなのに、今、ベルを目の前にしたら急に何も浮かばなくなってしまったよ」
 きっとそうなると思っていたけれど、本当になるとは思わなかった、と言って懐かしむように目を細める。
 バラ色の頬に触れた指先は少し震えていた。それを落ち着かせるように、ベルナデッタは白い手袋越しに自分の頬に触れるホメロスの手に自分の手を重ねる。
「私も、君の顔を見たら急に真っ白になっちゃったよ」
 髪が伸びたね、魔法は上手く制御できるようになったか?修行先はたのしいか?聞きたいことは沢山あったというのに、ホメロスは自分の手に重ねられた手の温かさに、ほっとした様子でほほ笑んだ。





 ベルナデッタは今は聖地ラムダで神官としての修業をしているらしい。命の大樹に芽吹き散るまでの人の命の尊さを学び、神の声を聞くための泉での修行、そして魔導士として高い魔力を持つ彼女が上手く其れを制御する修行を行っているのだという。
 ホメロスは、椅子に腰かれたベルナデッタの話に耳を傾けていた。机に軽く腰掛ける様にして、紫色のヘアバンドを付けて本を開く小さな頭を見つめていた。彼の思っていた通り彼女は随分と強かなようだ。ラムダからこの古代図書館までの道のりを一人で訪れたらしい。今この古代図書館に魔物が一匹もいないのは、どうやら彼女のもつ神の加護が働いているお陰らしい。神に仕える為の修業よりも前から備わっていた能力らしく、敵意を持たない魔物以外は近寄れないのだという。
「下に人の気配を感じたけれど、まさかホメロスだとは思わなかったよ。君はどうしてこんなところまで?」
「僕はクレイモランの学者であるエッケハルト先生と共に、ウラノス様の残した魔導書を探しに……。だが、何処に置いてあるのかわからなくてね、一階から順番に見て回っていた所で、ベルを見つけたんだ」
 ホメロスのその言葉に、ベルナデッタは突然あっ!と大きな声を上げて椅子から立ち上がる。そして一体何時から此処に巣籠りしていたのかと疑ってしまうような、床の端っこの山積みの本の中へと飛び込むと、この山の中から迷うことなく鳶色をした布表紙の古書を取り出した。目を輝かせながらホメロスに駆けより「これ、ウラノス様の魔導書!私はもう読み終えているから、はい」と差し出す。
 本の中に飛び込んだせいか、鼻の頭に黒い煤を付けながらニコッと笑った彼女から本を受け取り、自分の袖で彼女の鼻の頭をそっと拭った。布で擦れてほんのり赤くなってしまった。
 ホメロスが受け取った本の表紙を確認すると、文字は擦れ、ベルナデッタに言われなければこの本が魔導士ウラノスによって書かれた物だとはわからなかっただろう。それどころか、下から順に探していた分、見つけるのに何日もかかったかもしれない。
 助かったと改めて礼を言うと、彼女は笑った。
「君の役に立てたのなら、此処に引き籠って本の虫をしていた甲斐があったよ。でも、もうそろそろ聖地ラムダに戻らなきゃ……」
今日はホメロスの顔が見れてよかった。そう言ってベルナデッタは少しだけ名残惜しそうに眉を下げると、白い布鞄を肩に掛けてホメロスへ手を振った。蜂蜜色に輝く絹糸のような髪が、さらりと尾を引くように靡いて、吸い込まれるように扉の向こうへ消えていく。
 まるで夢を見ているかのようだった。ホメロスはまだ手に残る柔らかな頬の感覚や、鼻孔に残る薔薇の香油の匂いを胸に刻むように数分だけ瞼を閉じた。




 その後、ホメロスは本を小脇に抱えて一階のエッケハルトの元へと戻った。彼からは「まったく!急に走り出したかと思ったら戻って来なくて心配したよ!」と小言を言われてしまったが、ホメロスの手に握られた魔導書を見て喜びに打ち震えるのだった。
 その魔導書は古の時代、勇者が邪神を倒したという伝説が受け継がれているほど、遠い昔に書かれた書物だ。何百何千と時の経った今の世界でさえ、そんな大昔の産物に頼らなければ学べない程、人間は進歩していないらしい。
 魔導書も、冒険譚も、神話も、こうして受け継がれて今に至る。人を思う気持ち、それが愛でも憎しみでも妬みでも、悠久の時の中で形を変える事無く誰の心にでもあるのだ。
 人は愛によって救われる。確か、ベルナデッタが良く手にしていた聖書に書かれている一文であるそれを、ホメロスは思い出す。そして、陽の光を浴びて白銀の世界を眩しく輝かせる氷の大地を進むのだった。



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