或る街の群青

□紺碧の空、成長の印
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遠征当日の朝にはもってこいの晴れ空の下。デルカダールの兵たちは、各自馬具の調節や遠征の旅支度の最終確認をしているのか、デルカダール領地と城下町を仕切る門の前は、がやがやと人の声や馬の蹄の音で賑わっているようだった。
春の早朝とはいえ、今日の遠征の見送りの為に、町は既に人の通りが多かった。遠征の準備に不備があった兵の為に、よろず屋たちが声を上げて自らの存在を主張するように声を上げている。
最終確認の最中に備品が足りない者は声を上げて彼らを呼び止め、今日から始まる遠征に支障をきたす事の無いよう、支度を整えるのだった。
そんな男所帯の中、ある男の声がスッとホメロスの耳に届いた。
普段ならば何の気にも止めることなく自分の旅支度を整える所だが、聞きなれた名前が彼の口から出てきたが為に、自分でも笑ってしまう程分かりやすく反応を示してしまったのだ。
「おい、聞いたか。あの鼻たれベルナデッタが今日の遠征に参加するらしい」
と、鼻先から息をふっと吐き出すように、とある兵士がそう言った。
「神官就任式の時の、あのぽわーっとした何処か抜けたような顔を見ただろ?あいつ、絶対馬にリボン結んでくるぜ?」
喉の奥からくつくつと湧き上がる嘲笑を、もうこれ以上は堪えきれないとでも言うように、大袈裟に額に手を当てながら声を上げて笑う彼の台詞は、まるで話の中心人物であるベルナデッタを侮辱する仕草のようで、その声を耳にしたホメロスとグレイグはお互い顔を見合わせると、むぅっと顔を顰めた。

今回の遠征は魔物の討伐ではなく、サマディー王国軍との軍事演習を目的に取り決められた。
道中の中間地点で一度キャンプをしてからサマディー王国へ入国をし、かの国の軍と友好交流を兼ねてお互いの技術を切磋琢磨する。
国交流であるため、同盟国であればサマディーに限らず、他国との軍事遠征と言う名の交流もこれまで幾度も行われていた。謂わば恒例行事である。
そんな行事にベルナデッタが参加するということに不満があるらしいその兵士……、彼が得意になって話しているのを聞いていると、彼はどうやらベルナデッタが城に移り住む前に城下町で顔見知りだったらしい。
人見知りで臆病な性格だった幼い彼女は、長く伸ばした前髪で顔を半分隠して生活していたことから、城下町の少年にからかわれていたのだと、その昔話してくれたのを記憶している。
こいつがベルを虐めていたのか。と心の中で吐き捨てる様に呟くと、眉間の皺が一つ増えたような気がして、自分の気を落ち着ける序に、兵士の口が吐き出す彼女への毒舌を止ませようと大きく一つだけ咳払いをして視線を向ける。
目が合うと男は一瞬だけ身を怯ませたが、直ぐにホメロスと向き合うと片方だけ口角を上げてニィっと笑った。
「アンタ、あの鼻たれベルナデッタと仲良いんだってな。気を悪くしたなら謝るぜ?」
城に来る前のベルナデッタのことは、ベルからかいつまんだ程度でしか聞いた事がないホメロスにとって、その兵士が口にした「鼻たれベルナデッタ」という言葉は、まるで自分が知らない彼女を俺は知っていると自慢げに話されているような気がしてならなかった。癪に障る、と感じたのは嫉妬からくるものでもあり、同時に親しい彼女への暴言ととれる内容への腹立たしさだろう。
それは、心の奥からふつふつと湧いてくるものだった。
冷静に物事を判断するのを得意とする彼だったが、その兵士に悪意があるのかは、この数秒の会話では明確に判断するのは難しい。
遠征出発前のこの時間に問題を起こすわけにはいかず、ことを荒げない為にも、この場では穏便に済ませるべきだと考え、ホメロスは口早に「謝罪は結構だ」と答えると傍にいたグレイグへと向き直った。
何故か突っかかてくるような気がしてならないと思ったのはグレイグも同じのようで、眉間に皺を寄せて、既にこちらには見向きもしないで馬具を整えるその兵士の顔を見ていた。
手綱を引いて興奮した馬をなだめる彼は、何事もなかったように通りがかった万屋を呼び止め支度を整えている。上薬草と毒消し草をいくつか購入し、麻袋に入れながら、二人と目を合わせることなく、随分と大げさな口ぶりで言った。
「なあ。あの女がこの国に帰ってきて早々、神官の最高位についたのっていくら何でも突然すぎだって思わねぇの?」
実は枕でもやって貰った仕事なんじゃねぇの?とせせら笑うその声に思わず二人が睨みつけた時だった。
その兵士の背後で濡れたように輝く蜂蜜色が、ふわり、と風に靡くのが目に入った。穏やかな春風を身に纏うその眩しく輝く存在はあっと人目を引くものがあった。
ようやく見慣れた、あの白い祭服の装いではない。この遠征のために動きやすい服を選んだのだろう。
くるぶし丈まであったあの風に揺れる白いスカート姿ではなかった。
服装の違いはそれだけではない。ホメロスは切れ長の目を見開き、随分と主張の激しい乳を見つめた。
大きな胸部のど真ん中は、何故か露出していて、肌色がこれでもかと言うほど、存在感を前面に押し出しているではないか。
いったい何がどうしてこうなったのか。
ホメロスは頭を抱えたい衝動にかられた。
此処では「谷間オープン服」と名をつけて呼ぶとするが、その空いた谷間は手を突っ込めばずっぽりと胸と胸の間に埋まりそうだと思った。
彼女が一歩、また一歩と歩みを進めるたびに、上下に揺れ動く。誰もが其の一点に視線を注いでいた。しかし彼女は周囲の視線など気にすることなく、早々とした態度でこちらへと近づいてくる。
そして、多くの兵士で埋め尽くされていた城門の前は、その小柄な少女の通り道を作るように、人々が両端に寄るのだった。まるで聖人が海を割り歩いたという話にあるような光景である。
谷間オープン服は、おそらく、だが、彼女なりに遠征への気合を込めて選んだ、彼女なりの「動きやすい服装」なのだろう。選ぶときはメイドや聖職関連の誰頭がいたはずだが、なぜ誰もこの谷間の露出へ突っ込みを入れなかったのかが不思議である。
「ハミッシュ、昔から貴方を知っていますが、失礼な物言いは控えていただきたい。私がこの役職へ就いた事に不満があるのなら、手合わせをしてもかまいません。ですが……」
ベルナデッタは口角をゆっくり上げてほほ笑む。絶対の自信があると、そう示すかのように、彼女の笑みには隙も無ければ、後ろめたさも羞恥もなかった。
ベルナデッタが聖地ラムダとドゥルダ郷でどれだけの修業を積んだのか、その笑みを見てどれ程の自信をつけてきたのかがわかった気がした。そして、淡い色をした桜色の唇が一息吐いた後「恥をかくのは貴方の方ですよ」と。
そこにいた誰もが過去の彼女から想像できないその自信に、驚きを隠せない様子だった。
ホメロスですら、彼の知っているベルナデッタという少女像は、多少は人見知りしなくなったとはいえ何処にでもいる小さな少女のままだったのだ。
確かに見た目の成長は、その大きな胸部から随分と伺えるものではあるが、帰国早々で自分が得た彼女の印象からは全く違ったものだった。
誰がどう見ようとも、今ここにいる人物がこの国、デルカダールの最高神官であり、幼く若い見た目ではあるが自分よりも遥かに地位の高い場所へと出世を成したエリートなのだと改めて理解した。
ベルナデッタはそっとその男へ近づいた。
「ところで、枕とはどういう意味ですか?」
その場にいた誰もが沈黙した。お互い顔を見合わせて、誰が彼女にその言葉の意味を伝えるのかと、その「誰か」を探している様子だ。
枕というものがどんな意味なのかを知らない彼女がそれを雰囲気で「悪意ある言葉」だと判断できたもの奇跡に等しいというのに、此処でその意味を伝えるとなればハミッシュと呼ばれた兵士の命は保証されないだろう。
皆が迷い、そして最終的に視線を一点に集中させる。
それはこの場の誰よりも、ベルナデッタという人物を刺激することなく真実を伝えるにふさわしい者……そう、彼女の良き理解者であり交流の深いその男こそ、ホメロスだった。
兵士たちはじぃっと、黙って彼を見た。
頼む、この場の雰囲気を成るべく穏便な方向で保守する為の犠牲となってくれ、と言わんばかりに。
視線を粛々と注がれたが、彼自身、自分でも心のどこかでそうではないかと思っていた。
しかし、自らの口でそれを伝えるのは、と思い頑なに唇を開こうとしない。言ってしまうのは簡単なことだ。「性的快楽を代価に富や名声を得る事だ」と、口に出してしまえば五秒で告げることのできる内容だ。
しかしそれを告げれば、ハミッシュと呼ばれた兵への嫌悪感を抱く事になるのは勿論、ホメロス自身へも「こんな下品な言葉を知っていたんだね」とマヒャド級な極寒の視線を送られかねない。
彼はベルナデッタに嫌われるのを恐れていた。
折角彼女が自分へ好意を持っているという確信を得たというのに、之からゆっくり育むはずだった二人の時間を失いたくない。
口を一文字に結び目をそらす、が、そんな彼の気持ちを知らないグレイグが「お前しかいない。教えてやってくれ」と彼の肩に手を置き頷いたが為に、黙秘を貫くことは許されなかった。
「ホメロス、君は枕の意味を知っているの?」
大きな水色の瞳が輝いて彼を見つめた。
流石ホメロス、私の知らないことを君は何でも知っているんだね!と感嘆の声が聞こえてきそうな彼女の表情に、思わず唇がゆるゆると緩んでしまいそうになる。
昔から、ベルナデッタはホメロスという人物を尊敬していた。
幼いころから知る仲であり、彼が努力家だということを知っていたからだ。
お互い読書家であり、読んだ本を薦め合っては、自分たちの趣味嗜好を理解し合い、そして尊敬しあった。
それは修行で離れている間も変わることなく、ベルナデッタは彼を尊敬し続けていた。
いつか隣で、ずっと一緒に居られる日が来ることを夢見て、それを糧に自らも修行に励み続けた。
幼い頃の「君を守りたいんだ」といった約束を果たすために……。 
ホメロスは、夏の夜空に浮かぶ天の川を閉じ込めたようなその瞳をのぞき込む。
期待に輝くその瞳は無垢に彼を見つめ返した。そして彼は意を決してその華奢な肩に両手を置き、子供に教え込むようにゆっくり唇を開いた。
「体を使って仕事を得る、ということだ」
「体を使う?それがどうして枕になるんだい?」
言い切った、と思われたが彼女にはうまく伝わらなかったらしい。
ベルナデッタは不思議だというようにきょとんとした目で首をかしげる。
金色絹糸の束のような指通りの気持ちよさそうな彼女の長い髪が、肩に落ちてさらりと風に揺れた。
「……まさか、お前、その歳でわからんとは言わせんぞ?」
「子供の作り方はわかるか?」と、ひときわ声を小さくしてそう恐る恐る伝える。
彼女の肩に置いたホメロスの手は震えていた。
膨大な魔法学に関する知識を得ておきながら、普通なら知りえるはずの一般的な知識を持っていないというのだろうか。
そういえば先日口づけた朝、不慣れなだけだと思っていたが、まさか舌を絡める口づけを全く知らなかったというのだろうか。
ホメロスは震えた。
自分がこれから彼女と付き合っていくにあたり、もしかするととんでもなく高い壁がいくつも行く手を阻んでいるのではないかと恐ろしくなった。
その度に自分が一からすべて教えなければならないのかと。
わなわなと震えているホメロスに、ベルナデッタはふふっとわらった。
すべてを包み込むような柔らかな笑みで彼女が笑う。
「作り方なんて言い方はよくないよ。子供は授かりものだよ」
「そう、だったな。じゃあ、授かり方はわかるんだな?」
「そんなの、朝露きらめくキャベツ畑で産まれた小さな赤ちゃんを、コウノトリさんが子供を欲しい夫婦のもとへ連れてきてくれるに決まっているじゃないか」
そう、はっきりとした口調で言い切った。
まさかだった。ホメロスはベルナデッタの肩に手を置いたままその無垢なる笑みを見つめていた。
誰が何を思ったのかは定かではないが、ベルナデッタに対して思った感想はみな同じものだろう。
彼女はここへ現れたときと同じく堂々とした態度で胸を張りそういった、
後悔はしていない様子ではあるが、これから先に彼女とともに過ごす未来予想図を描いていたホメロスからすれば、恐ろしい以外の感想はないだろ。
その場にいた誰もが二人へ暖かな、ほっこりとした視線を送っていた。
小さな子供を見守るような空気の中で、ホメロスはぐっと奥歯をかみしめ、その細い肩からやっとの思いで手を放す。
そして「そう、か」とだけ言うと、すべてを自分へ押し付けた周りの兵士やグレイグへの恨みを覆い隠すような張り付けた笑みを浮かべた。


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