或る街の群青

□金色の青年兵は妖精を追う
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彼女に大切に思われているという事は良く分かっている筈なのに、自分と同じ感情を抱いて欲しいと思う反面、それがいつか拒絶に変わってしまうのを恐れた。
深い溜息を吐き、背を柱に付けたまま、また一つ、大きな溜息を吐く。
すると、視界の端に見知った人物がするりと手を伸ばし、悩めるホメロスの長い前髪に触れた。
ホメロスはその人物の顔を見るや否や、露骨に怪訝そうな表情をし、眉を寄せる。
前髪に触れた白い華奢な手を叩くように払って、
「何の用だ」
と、まるで夢見心地だった気分を台無しにされた子供のような態度でその女に言った。
「ホメロス様が随分としょげていらっしゃるのが気になりましたの。そんなにベルナデッタ様が貴方のお心を惑わして?」
彼女は甚く悲しげな声色を作りながらそう言うが、その面持ちは随分と楽しそうだ。
女はその昔、ホメロスに恋文を渡した貴族の令嬢であり、今は只の友人、というよりも悪友と言った方が良いだろう。
好きだのなんだと書かれていたあの恋文は、実を言うとホメロスに宛てられたものではなく、ホメロスを通してある人物へ渡して欲しいと願いを込められて渡された手紙だったのだ。
手紙には、とても12歳の少女が綴ったとは思えない文面で、夢のように美しい蜂蜜色をした貴女の髪を指で梳いて愛でたい。とか、華奢な体を抱きしめて白い頬に口付けたい。等と熱烈な文がしたためられていて、最後には「ベルナデッタ様へ、愛をこめて」との一文が添えられていた。
彼女はホメロスが、修行に出たベルナデッタと手紙のやり取りをしていると思いその恋文、もといファンレターを託したのだ。
しかし残念な事に、修行に出ている間「甘えてしまうから」という理由により、手紙のやり取りは初めの一通のみで途絶えていた。
そんな中、そのファンレターを送るワケにもいかず、後日彼女へ返却する事になったのだった。
彼女の、ウェーブした胸辺りまである黒髪を耳に掛けながら腕を組む姿は、気の強そうな印象を与え、釣り目だが、きつ過ぎない、そんな美貌を持っていた。
そして、ハッと鼻で笑う様な素振りを見せると、女々しくも恋に悩むホメロス青年に声をかける。
「ベルナデッタ様は一筋縄ではいかないでしょう?彼女は自分を過小評価しすぎていますもの。周りからの好意にとても疎い事と言ったら……今も昔も、そこは変わっていないみたいですわね」
女は懐かしむ様に空を見上げながら、遠くへと視点を合わせる様に目を細めた。
彼女はかつてベルナデッタと同じく魔法学を学んでいた級友だったのだ。
人見知りで臆病な彼女を知る者の一人ではあるが、特別仲が良かったわけではない。興味はとてもあったが、いつもベルナデッタに付き纏う少年に尽く邪魔をされて、結局仲を深める事は出来なかった。
教室を出て行くベルナデッタの後を追って声をかけようとすれば、必ず彼女とお揃いの蜂蜜色の髪をした少年に先を越され、教室に入る所を待ち伏せれば、やはりあの少年に鋭い視線を送られて身を引くしかなかったのだ。
女は、その昔、級友との仲を深めるのを散々邪魔してくれた少年である彼、……ホメロスを横目で見た。
「そんなに睨むな」
「睨んでなんかいませんわ。恋煩いに悩む少女のような顔をしているホメロス様に、少しばかり応援をと思って来ましたのに、あんまりな言い草ですわね」
「応援、か。お前の言葉でベルの心が動くとは思えんがな」
「女の私が思うには、ベルナデッタ様には少しばかり危機感と言うものが足りないと思いますわ。貴方が今まで、ずっと、これでもかというくらい、もうそれは嫌なくらいに彼女のそばでべったりとくっついていたから、きっと離れて行ったりしないと思って安心しきっていましてよ」
「……お前、まだベルに近づけさせなかった事を根に持っているのか?」
呆れたように目を向けたホメロスに、女はむっと眉を寄せて噛みつくように捲し立てた。
「当たり前じゃない!あの時ホメロス様が邪魔をしなければ、この私がベルナデッタ様の親友の座を独占できたかもしれなくってよ!?あの夢のような、美しい長い髪を、私が結って差し上げて、ベルナデッタ様は少し照れた顔をして目を伏せながら「ありがとう、アンジェ。いつも君に感謝してるよ」って言うの。お礼なんていらないって言う私の頬にあの滑らかで白い陶磁器のような手が触れて、そして頬に口付けられるの……はぁ、夢のようなひと時になりますわ、きっと……」
胸の前で手を組み、頬を薔薇色に染めて目を煌めかせる彼女は、鼻息を荒くしながら自分の中の妄想小説を語る様に、そう言った。
そんな女、アンジェにこれまたどうでも良さそうに生返事を返しながら、確かにベルナデッタには危機感がないのだろうとホメロスは考える。
危機感を与えるには、自分が且つてベルナデッタの交友関係に嫉妬していた時のように、別の誰かと親しくしている所を彼女に見せつける必要があった。しかし、生憎自分には慕ってくれる者は居ても、慕いあえる様な異性の友人は居ない。目の前にいるアンジェは話にならないだろう。
それに、もしもその役をアンジェで妥協したとして、ベルナデッタが嬉しそうに微笑みながら「ホメロスにこんなに素敵な恋人がいたなんて知らなかったよ!おめでとう!お式を挙げるなら、私が祝いの祝詞を読むから言ってね!」と言われたらきっと立ち直れない。
自分の精神の為にもそのシチュエーションは避けたいものだ。
本日何度目かの溜息を吐けば、隣に居た夢見がち妄想癖女が「そういえば」と声をかけてきた。
「今朝のベルナデッタ様、少し様子がおかしかったのですけれど、まさか、変な気を起こして、汚らわしい事を無理矢理なさろうとしたんじゃありません事よね……?」
「多少は無理を強いる結果になったかもしれないが、キスをしただけだ」
そう口にした途端、彼女は鬼のような形相で、ホメロスの兵服の襟に掴みかかると、その細腕からは想像もつかないような力強さで体を柱に押し付けられる。
がッと背中が音を立てて柱にぶつかり、締め上げられた襟が首を絞める様に皺が寄った。
女は今にも泣きだしそうな顔をしながら「む、無理を強いるって、それはつまり、無理矢理ってこと!?あの麗しい唇に、無理矢理自分の汚らわしい言葉しか吐けないその口を!?そんなのって、ずるいわ!横暴ですわ!」と叫ぶように言って、しまいにはボロボロと悔しそうに大粒の涙を流しながらわあわあと泣き出す。
傍から見れば修羅場だと勘違いされること間違いないこの状況だが、人通りの少ない外通路のため、左右を一応確認し誰も居ないことを確かめると、心の中で安堵する。
そして彼女の細い肩を押して自分の前から退けると、皺の寄った首元の赤いマントを整えて口角を上げた。
「汚らわしいとは失礼な。それに、ベルはキスをしたいならしても良いと言ったんだ。つまり、合意の上の事。お前に罵られる理由は何もない」
「……閃いたわ」
目の周りを囲っていた化粧が涙で流れ、彼女の絶望した顔は、黒い跡を頬に残しながらギロリとホメロスを見ると、震える指先で彼の顔を指さして言った。
「今、ホメロス様と口付ければ、ベルナデッタ様と口付けを交わしたも同然、という事ではなくて……?」
目を見開きながら、ヨロリと、まるでゾンビのような動きで近寄るアンジェの飛躍し過ぎた台詞に思わずホメロスはたじろいだ。
勢い良く伸びてきた白い腕は彼の顔を掴み、気迫迫る顔を近づける。彼女の目は正気を失ったように血走り、恐らくベルナデッタとの妄想を頭の中で展開させているのだろう、恍惚とした笑みを浮かべながら唇をにゅっと突き出していた。
「おい、やめろ!」
「観念なさいませ、ホメロス様!この際、目を瞑って貴方のお顔を、あの愛らしいベルナデッタ様に、心の目ですり替えますので!」
観念できるか!と抵抗を試みるが、相手は悪友といえども貴族の令嬢。突き飛ばして怪我をさせて、万が一でも顔に残る傷を付けでもすれば、国に仕える騎士として国王陛下の顔に泥を塗りかねない。細心の注意を払いながら顔を仰け反らせて近づいてくる赤い紅の塗られた唇を避けようとするが、この女、中々に力強い。
黒い巻き毛を振り乱しながら、ホメロスの頭を掴み、思いっきり自分の方へ引き寄せると、唇がぶつかった。
つい先程まで、ベルナデッタの口付けの感覚を残して熱く火照っていたそこは、彼女の歯がぶつかったようで、血が滲んだのか鉄錆のような臭いが口に広がる。
口付け、というよりも頭突きに近い其れは、単なる暴力でしかなかった。
しかし眼前に広がるアンジェの顔は、目を瞑り、頬を赤らめながら幸せそうに想い人との接吻をイメージしているようだ。
ベルナデッタの唇と違う、化粧品の甘い香りが其処からした。紅の香りなのか、白粉の香りなのかは分からないが、とにかく離れなくてはと思い、彼女の肩に触れた時だった。
ガタン、と音がした。
ホメロスもアンジェも驚いて顔を上げると、ついさっきまで誰も居なかった通路の入り口に長い金色の髪が靡いていた。
驚いたように目を丸くさせて、そこに立ち尽くす彼女は、彼ら二人の想い人であり、数分前まで彼らの話の中心にいた人物、ベルナデッタだった。
彼女の足元には黒い表紙の聖書が落ちていて、さっきの物音は、胸にいつも抱えられていたそれが落ちた音だったのだと理解した。
何か言わなくては、とホメロスが彼女へ一歩近付き「ベル、これは違うんだ」と声をかけるが、彼女の大きな水色の目はじわりと揺れて、踵を返して脱兎の如く元来た道を走り去ってしまった。
ベルナデッタが泣いたのを見るのは随分と久しぶりの事で、7年前に髪が短くなって以来の事だった。もしかすると、修行期間中に泣いていたのかもしれないが、目の前で見るのはその時以来だ。
誤解だといえども、自分の唇が暴力的に別の女の其れと触れてしまった事は事実。
あっという間に消えた小さな後姿に手を伸ばしかけたまま頭の中で必死に言い訳を考えていると、この騒ぎの元凶であるアンジェがホメロスの背中を思いっきり叩いた。
「ホメロス様、さっき私が言ったことを覚えていまして?寧ろこの不運を好機に変えるべきでしてよ。ベルナデッタ様は今、泣きそうな顔をして走り去っていきましたわね?……少しは希望があるんじゃなくて?」
勝気な笑みで口角を上げながら悪友は、親指をぐっと立てて「泣き顔もとても愛らしくて、それだけでバケット1本いけますわ」と言って鼻から赤い液体を流しながら笑った。

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