或る街の群青

□金色の青年兵は妖精を追う
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ホメロスは城内の外通路へと続く廊下を歩いていた。
城内から外通路へ出ると、暖かな春の日差しが中庭の木々を照らし、春風にさらさらと音を立てる葉音が歌声を響かせていた。
項の辺りで一つに結んだ長い蜂蜜色の髪を靡かせながら、未だに熱く残る唇の熱を思い出し、不意に足を止める。
城前広場で自分の髪を撫でたベルナデッタを見た時、その前の晩の事を何とも思っていないのだと悟ったホメロスは、嫌がらないのなら彼女が好意を寄せられていることに気付くまで何度でもすれば良いと思った。それは単純且つ強引すぎる策ではあったが、このくらいしなければ自分へ向けられた好意に絶対に気づかないと思ったのだ。それは、昔から知る仲であるからこそ、彼女の真っすぐすぎるが故の単純さを理解しているからだ。
大人しく押し当てられる唇を受け入れている姿を見て、嫌われてない、ベルはこんなにも自分に対して制限を掛けずに許してくれている、と思った。

だが、自分への信頼という揺るがぬ基盤があるからこそ、今こうして避けられずに大人しく受け入れてもらっているという事は、一概に安心できると言えるものではない。
もしも彼女がホメロスの気持ちに気付き、今まで自分へは家族のような温かい気持ちを向けられていると思っていたものが、急に別の何かに変わってしまったと考えて、自分の知らないその感情を恐ろしく思う事になれば、こうして唇を触れさせるどころか、指先すら触れることがかなわなくなってしまうかもしれないのだ。
ホメロスはいつか自分の手から彼女が離れてしまう事が恐ろしかった。
腕の中にすっぽりと納まる、小さな想い人が、いつか自分の気持ちを知り拒絶してしまう事を。
今はまだ拒絶されていなくても、そんな日が来ないとも限らない。
そんな事を考えながら、鬱々とした大きな溜息を、中庭が見える外通路の陰に隠れる様にして吐き出した。
陽の光に照らされた中庭を横目に、日陰になった柱に背を付け、その眩しさから逃げる様に目を細める。
ホメロスはその眩しい陽の光を、彼女の笑みに似ていると思いながら、柱に自身の体重をかけて凭れ、未だに残る彼女の熱と淡い色をした柔らかな感覚を確かめる様に、指先で、しっとりとした唇に触れた。

部屋を出て行く彼女を見送ったのは、つい先ほどの事だ。
口付けた後、荒くなった息を肩で慣らしながら謝罪の言葉を口にした彼の髪を撫でて、彼女は笑った。困ったように、そして、少しだけ照れている様な、そんな顔をしていた。
「ホメロスがキスしたいなら、してもいいんだよ」
と言った彼女は、長い睫毛で縁取られた大きな目を弓なりに細めて笑った。
「ベルは、嫌じゃないのか?」
「……うーん。吃驚はするけど、嫌な気持ちはしないよ。でも、ちょっとだけ苦しかったかな」
ベッドから華奢な体を起こして、淵に腰かけると、シーツの上にいつの間にか転がっていた帽子を手に取り、小さな頭に斜めに乗せると、ゆっくり立ち上がる。長い髪がベッドの上をすべり、まるで金色の滝のようにシーツの端から床へ流れて行った。
外は先ほどとは打って変わり、人々が目を覚まして賑わい始めているようだった。
「みんな、もう起きてきたみたいだね」
「ベルが鐘楼の鐘を鳴らしたからだろう」
彼女は「初めて鐘を鳴らしたんだけど、上手く鳴らせなくてちゃんと起きてもらえるか不安だったんだよ」と言いながら、ホメロスが膝で踏んでいた祭服のスカートの皺を伸ばすように、その小さな手でパンパンと払うと、ゆっくりこちらを振り返る。
そして、
「ねえ、ホメロス。昔、私が言ったこと覚えてる?」
と問いかけた。
水色の彼女の瞳は、ホメロスの琥珀のような目を覗き込むようにじっと見つめていた。
「お前の言った言葉を忘れるはずがないだろう。まあ、心当たりが多すぎて絞り切れないがな」
「もう、そんなこと言って。本当は覚えてないんじゃないの?……ずっと一緒に居たいって言ったこと、だよ」
と言って笑った。
彼女は昨晩デルカダール王と話をしたことについて彼に告げた。遠征への参加と、最高神官への就任の件についてだ。
神職の高官に女性が就任することは滅多にない。しかもそれが王室付き魔法使いと兼任だというのだ。彼女はデルカダール王から絶大な信頼を得ている、ということだろう。
彼女の言う通り、確かに、幼い頃から知る彼女は、いつもずっと一緒に居たいと言っていた。
ホメロスを助けたい、力になりたい、大好きだから、と。
彼女の言う「好き」という言葉は、自分と同じ気持ちではなく、幼い頃となにも変わらないものなのかもしれない。
自分とは違う。そう分かっているのに、少しでもたくさんの彼女の愛情を感じたかった。自分を肯定してもらえるような気がして、認めてもらえたような気がして、彼女に問いかけた。
「ベル、どうしてそこまでして一緒に居たいと思うんだ?」
「そんなの、私が君を大好きだからだよ」
直ぐに帰ってきたその言葉は、昔と何も変わらない純粋さを含んでいた。
ベルナデッタは、ゆっくり瞬きをした。窓から差し込む日の光に照らされた水色の目は、透き通る様に輝きを放ち、やがて一度だけ、よく見ていないと気付かないような変化だったが、ほんの少し目を伏せた。
それがいったいどういう意味を持っているのかはわからないが、彼女は身を翻すと扉に手をかけて部屋を出て行った。
長い金色の髪がさらりと靡いて、何時までもその艶やかな輝きが目に焼き付いて離れなかった。

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