或る街の群青

□触れる唇は魔法へ変わる
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翌日。自分の心の中とは打って変わり、青々とした空は澄み渡る様に遠くまで広がっていた。雲一つない快晴は陽の光を遮ることなく城も城下町もすべてに輝く朝の光を落とし、花の香りを気持ちの良い風に載せながら町中に届けていた。
小さな虫を咥えた燕が飛びだって行くのを視界の端に捕らえ、巣に戻り育ち盛りの雛たちへの食事をもっていく親鳥のそんな姿に思わず頬が緩んだ。
その日は朝から、ベルナデッタが礼拝堂の鐘を鳴らすことになっていた。
少し早足で廊下を進み、城を出ると城前広場を抜けて、以前は見習いとして足繁く通った礼拝堂へ入る。其処には朝日に照らされて輝くステンドグラスで彩られていた。両脇に並ぶ長椅子の間に敷かれた真紅の絨毯。一歩一歩、神の前である事を考えて丁寧に踏みしめて歩き、燭台が並んだ祭壇の前に膝をつく。
早朝の寧静なるこの礼拝堂では、鳥の声と風が揺らす木々の葉音しか聞こえてこない程だ。
春の、まだ少し冷たい朝の空気の中で、床に膝を付いたベルナデッタは両手を組み、祈りをささげる。目を閉じ、七色に輝く光を浴びながら、心の中で語りかける様にこの国の平和を願い、祈祷を捧げていた。
心の中に未だに居座っている落ち着きのなさが、祈祷の邪魔をするのか、集中できない。目を閉じて神への言葉を心の中で捧げるが、浮かんでくるのはホメロスの顔ばかりだった。
ベルナデッタは小さく溜息を吐くと、ぶんぶんと顔を左右に振って気持ちを切り替えるために立ち上がり、礼拝堂のさらに奥の部屋へと足を進めた。
小部屋になっている其処は、此処に勤めるシスターや神父たちの憩いの場であり、礼拝堂に人の来ない時間帯にはここでお茶やお菓子を頂くのだ。室内に置かれたテーブルや椅子には目もくれずに素通りし、角の階段を上っていく。長い階段はいくつもの踊り場を経由して続き、やっと天辺まで辿り着くと、今度は梯子を上っていく。
しっかり木枠を掴んで上へ進み、出入り口から顔を出すと、バサバサと羽をバタつかせて鳩が飛び去って行った。
頭上の大きな鐘に頭をぶつけないように注意深く潜りながら、立ち上がると、そこはデルカダールを見渡せる程高い所にある礼拝堂の鐘楼にでたのだ。
真四角の小さな空間に天井から吊るされた大きな銅の鐘は、ベルナデッタの小柄な身長を遥かに超え、いつも神職に勤める者達の始業の合図である朝と、正午と夕方の礼拝の時間に鳴らされる。四方を見渡せば朝の気持ちの良い風がびゅうっと吹いて、彼女の長い蜂蜜色の髪を巻き上げる様に揺らした。
そして、天井から伸びている紐を思いっきり、全体重をかけて下へ引く。
ごぉん、ごぉん、と鼓膜を震わせる大きな音が体中を震わせるように響いた。
その音はデルカダール中に響き渡り、建物や山に反響して、まるでいくつもの鐘が鳴り響いているかのように音を重ねて国中へとその音を届ける。
朝の、始業の合図の鐘は、町の人々の目覚ましにもなっているのだ。
ベルナデッタは滑るように梯子を降り、鐘楼から出て階段を駆け降りる。そして元来た道を戻るかのように礼拝堂の、城前広場を通り、城内へと入ろうとした時だ。
「ベル?」
声を駆けられて振り返れば、そこには昨日の夜から彼女の頭の中を支配して離れないホメロスの姿があった。まだ兵服を着ていない、私服姿で、稽古用の刃の研がれていない剣を握っている。
「ほ、ホメロス!奇遇だね、こんなに朝早くにどうしたの?」
「今日は鐘が鳴る前に目が覚めたからな。少し体を動かそうと思って素振りをしていた所だ。そうしたら、広場を通るお前を見かけたんだ。……今日の鐘はお前が鳴らしたのか?」
手の甲で、汗の滲んだ首筋を拭うホメロスは、少し笑って「いつもより音の切れが悪いと思った」と言った。
一体どれくらい前から素振りをしていたのだろうか。額も汗がにじんで、長い前髪が引っ付いていた。体を動かしたからなのか、血行が良くなった彼の顔は少し赤いような気がした。
ホメロス、と彼の名を呼ぶ。どうかしたのか?と聞く彼はベルナデッタと視線を合わせるように少しだけ屈む。そんな彼の長い髪に手を伸ばし手櫛で梳いて、最後に汗で湿った綺麗な、自分とお揃いの蜂蜜色の髪を上から撫でつけた。
ふふっと、朝から頑張っているホメロスに笑いかけると、なぜか彼は小さな子供が御伽噺を読み聞かせてもらったように目を輝かせていて、髪に触れていた手を取るとぎゅっと握り、そして、
「おはようのキスをしてもいいか?」
と聞いた。
一瞬何を聞かれているのかわからず、ん?と聞き返すとそれを了承の返事だと思ったのか、大きな手が頬に触れて顔を近づけてくるではないか。
慌ててホメロスに握られていない方の手で彼の、段々近づいてくる唇を抑えると、むっと眉を寄せて露骨に不満そうな顔をした。
手で押さえてはいるものの、力で押し切ろうとでもいうのか、ぐぐぐと力強く自分の手を押し返そうと近づいてくるその端整な顔に、恥ずかしさでわなわなと震えながら、だってここ外だし、と抵抗を試みる。
しかしどうやら言葉選びを間違えてしまったようだ。
ホメロスは、ベルナデッタの頬に添えていた手を彼女の細い腰に回すと俵でも担ぐかのように抱き上げ、軽快な足取りで城の中へ入っていく。ずかずかと絨毯の上を進んでいき、階段を上がって、どうやら自室へと向かっているようだ。
城内の警備に当たっていた兵士たちは、そんな光景を目にするや否や、まるで何も見ていませんよと言うようにあからさまに目を反らし、いつも通り背筋を伸ばして警備を続けている。なんて裏切りなのだろうか。泣きそうになりながら、何故か変なスイッチが入ってしまったホメロスに抱えられて必死に逃げ出そうと足をばたつかせるが何も効果はない。
ベルナデッタは思った。自分が先ほど言った言葉をホメロスはきっと「外でキスをするのは恥ずかしいから部屋の中ならいくらでもどうぞ」という意味に取ったに違いない、と。
心の中では誰か助けてと叫びたかった。昨日のようにまた彼の唇が自分の其れと重なってしまったら心臓が持たない。恐らく止まってしまう。
ホメロスの部屋はもうすぐそこそこまでせまっていた。
このままでは、おはようのキスをされてしまうのだろう。
自分が鐘楼に上り付いた鐘の音で次々と城に住む兵士たちは起床してきたようで、廊下で金色の髪をした二人とすれ違う度にわざわざ振り返ってまで好奇の眼差しを送っていた。
ある者は指をさして笑い、ある者は微笑ましく笑い、そしてある者は憐みにも似た笑みを浮かべて拝むように手を合わせていた。そう、誰も助けてくれないのだ。
ホメロスの歩みが留まり、彼は戸を開けているようだった。
ノブを回して、キィという蝶番のきしむ音が聞こえる。そして、ベルナデッタの助けを求める祈りは虚しく、扉は閉ざされたのだった。
小さな体をベッドの上に降ろし、あっという間に覆いかぶさってきたホメロスは、彼女から逃げ場をなくすように両手の指を絡めるように手を繋ぎそのままシーツに押し付けると、祭服のスカートを膝で押さえ、完全に身動きを封じる。
押し倒して跨る様な体勢で顔を近づけ、先ほどベルナデッタが思った通り「部屋の中ならいいのだろう?」と言って口角を上げた。
鼻先がくっつきそうなほど近い距離にある彼の顔は、とても冗談を言っているような表情ではない事はすぐにわかる。頬に吐息がかかり、そのくすぐったに思わず目を細める。
待って、と言いかけた唇はすぐさまふさがれ、彼の柔らかな唇は長く押し当てられた。
こんな時に目を開けるべきなのか、閉じるべきなのかわからない上に、鼻で息を吸って吐けば彼の顔に掛かってしまいそうな気がして、息を止めて大人しくするという選択肢しか浮かばない。押さえつけられて身動きだって取れないのだ。ここは大人しく、そう、大人しくホメロスが退いてくれるのを待とう。
そう思ったのもつかの間、一度唇は少しだけ離された。ああ、助かった、と息を吸うために唇を開けば、驚いたことにまた彼の其れは押し当てられたのだ。
何度も、角度を変えながら短い間隔で押し当てられるキスは、唇の柔らかさを確認するように繰り返される。小鳥がついばむ様に、彼の唇は重ねられ、軽いリップ音が何度も静かな部屋の中に響いていた。
先程の折角の息継ぎの機会を逃してしまったベルナデッタは、どうしていいのかわからず、ずっと息を止めて我慢していたが、もう駄目だと己の限界を悟り、彼の其れを押し当てられたまま唇を開いてしまった。
まるで食む様に、開いた唇と唇の間に挟まってしまったホメロスの下唇に驚いて、指を絡められるように抑えられていた手に力が入る。それはきゅっと握るような仕草に酷似していて、開いたままだった視界から見えた彼は嬉しそうに目を細めていた。
この顔は、絶対にまた何かを勘違いしている。あと、これは自分の知っているおはようのキスではない。断じて違う。
そしてやっと、右手が、するりと解放された。ホメロスの長い指が彼女の小さな手から解かれたのだ。重りが乗っていたように圧迫を感じていた右手は急に軽くなって、助かったのかと気が緩む。
しかし現実は助かってなどいなかった。
離れたホメロスの左手はベルナデッタの長い髪の中に潜り込んで彼女の小さな頭の下へ添えられる。そして首の後ろに添えられた大きな手は、重力で傾いた小さな頭の角度を調整するように少しだけベッドから離すように持ち上げると、開いたままの唇を食べる様に口付けたのだった。
淡い色をした上唇に熱い舌が触れて、その小さな隙間にぬるりと差し込まれる。
んっ、と思わず声を上げながらシーツを掴むと、彼の琥珀のように輝く目が笑たような気がした。
数回、歯をなぞる様に口内で動いたそれは、さらに奥へと進み彼女の舌を攫う様に中で蠢く。それはベルナデッタにとって未知との遭遇だった。
唇が触れる以外のキスがこの世にある事すら知らない彼女は、これが一体何なのかもわからず、その支配されるような感覚に身を捩って振りほどこうとする。しかし自分よりも随分と体の大きなホメロスを転がすことも押し返す事も出来なかった。首の後ろに添えられた手で、顔を背ける事も許されない。
合わさった唇の間から舌と舌がぶつかる時に水音が溢れて、それが何故だか、この行為は自分がしてはいけない事だと、誰かに咎められているような気がして仕方が無かった。
無意識に喉の奥から声が漏れて、恥ずかしさと息の苦しさで目が熱くなった。飲み込み切れない唾液が頬を伝って、外気に晒されて少しひんやりとしていた。薄目を開けてずっとこれが何なのかを探る様に見ていたが、ホメロスの金色の瞳と目が合って、熱を帯びたその目を見ていると、幼い頃に感じた、あの、彼の言う事を何でもしてあげたくなる気持ちが心の中に芽生え始めていた。
自分は昔からこの目に弱かったんだ、と彼女は思った。迷子の子供が大人に縋って懇願するような、おもちゃを取られたくない独占欲にも似た目だ。そんな彼の目に根負けして、ベルナデッタはずっと開けていた目を閉じると、シーツを掴んでいた手を離して、ホメロスの背中に回した。
それからどのくらいたったのだろうか。何度も舌が絡まる内に彼が息継ぎのタイミングを与えてくれている事に気づき、何度もそれを繰り返しながら、溢れそうになる唾液をうまく呑み込めるようになった頃、やっと唇の離れる感覚がした。
そっと目を開けてみれば、熱っぽい顔をしたホメロスの顔がすぐそこにあって、お互い息を切らしながら、唇と唇を結ぶ銀色の唾液の糸をぼんやりと見つめていた。
荒くなった息を、肩を上下させて慣らしながらホメロスを見上げると、堪えきれないとでもいうかのようにこつんと額と額がぶつかった。
上気した目で、
「ベル、悪かった」
と彼は言った。
口では謝罪をしているようだが、ほんのりと赤い頬をした色っぽい彼の表情はまったく反省の色が見当たらない。ふっと口元に笑みを浮かべて、どこか機嫌が良さそうに見える。
そんなホメロスの反省ゼロな謝罪の言葉に、ベルナデッタはだまったままだったが、返事をする代わりに彼の背に回していた手で髪を撫でると、小さく笑った。
何故か許せてしまったのだ。これがホメロスではなく別の兵士の暴挙であったなら、朝だろうと昼だろうと全身全霊のメラガイアーを放っていたに違いない。
だが、彼女のその笑みは、叱られて落ち込んだ小さな子供に向ける様な、少し困ったような、呆れたような、でも、とても優しい顔だった。

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