或る街の群青

□触れる唇は魔法へ変わる
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ホメロスの部屋を後にしたベルナデッタは、今まで7年間欠かさずメイド達が手入れをしていた彼女の自室へ戻った。数年ぶりの自室は久しぶりに足を踏み入れたというのに心地よい太陽の香りに包まれていて、思わずごろりとベッドに体を沈ませてしまう。
大きく息を吸い込めば、彼女の帰国の為に外干しされたシーツの陽だまりの匂いが胸いっぱいに広がった。心の底からホッと安心できる安らぎの空間だ。
そして次第に眠気に誘われて重くなっていく頭の中で、久しぶりに会った友人の姿を浮かべ、満足そうに一人微笑む。
二人とも背が高くなった。声変わりもしていて、大人の男の人になっていた。いたずら好きだった二人は、とても立派な騎士になって、昔見上げていた大きな背中は、さらに大きくなっているように思えた。
修行へ出たものの、その成果がある事は自分でもわかってはいたが、彼らの成長はもっと大きなものではないだろうか。自分は彼らを守れるのか、あまり自信がなかった。
自分が成長したように、二人だって剣に励み強くなったに決まっている。
せめて、彼らの後ろに立つのではなく隣に立ちたい、同じ方向を向いて、夢を追いかける様に。
枕の傍に置いたホメロスの部屋から借りてきた本を見つめて、そっと指先で触れる。
彼の部屋を出る際、唇に触れた温かい感覚が蘇る様に、淡い色をした自分の唇に手を当てた。
柔らかくしっとりとした感覚に目を細めて、おやすみのキスは幼い頃に両親にして貰って以来だなぁと、ぼんやりとしながらそんな事を考えていると、ある事に気が付いた。
友人同士で行うおやすみのキスは、頬や額に行われるものだったような気がしたのだ。
むくりと体を起こして、眠気に負けてしまいそうな瞼を擦ると、ドレッサーへと目を向けて自分の顔を見た。
蜂蜜色をした長い髪を三つ編みにしている姿は、18歳という年齢にもかかわらず13,4歳くらいの幼い顔立ちをしている。背も低く、体はというと胸以外はまるで子供の様だった。
11歳の時に一度短くなってしまった髪はすっかり伸びている、胸も大きくなった、それなのに幼い顔立ちが彼女にはコンプレックスでもあった。
そんな顔の、淡い色をした小さな唇を見つめる。この唇に残る彼の柔らかく暖かな感覚は本物であり、友人同士で行われたはずのおやすみのキスは、確かにここに当てられたのだ。
そしてその事実を確認すると同時に、新たに判明したことが一つ。
「……私、これ、ファーストキスだ」
急に頬が熱くなり頭の中が沸騰してしまうんじゃないかと思う程体中が熱く火照り始める。
自分の身に一体何が起きたのか再確認しようと、記憶を整理し始めるが、唇に触れた時の目を閉じたホメロスの顔を思い浮かべただけでも恥ずかしさと照れで思わず毛布の中に体を埋めてしまった。
どうしてキスしたんだろう、と考えるが、恥ずかしさで頭が回らなくなりそうだった。
そして生きてきたこの18年間で、今日、初めてホメロスを異性として意識した。
彼は自分が部屋を訪れた時に「こんな夜更けに男の一人部屋に来るなんて」と言っていたのを思い出し、自分だけが能天気な事に彼を異性として見ていなかったのだと思うと、とんでもない事を仕出かしてしまった様な気がした。
夜中にずかずかと男の部屋に入り込み、ベッドに転がり、足に触れられても嫌な顔ひとつせず、おやすみのキスを交わしてしまう、そんなはしたない女だと思われたのかもしれない。
毛布の中で丸まりながら、熱い顔を両手で抑え、叫びだしたくなるのを何とか抑えながらゆっくり毛布から顔を出す。
心臓が煩わしく音を立てていた。それは全力疾走で少し長い距離を走った時のような爆音を立てて、いつもは考えないようなことで頭を悩ませている脳に酸素を巡らせるようだった。
悩んで考えてみても、彼がどういうつもりで唇にキスをしたのかわからなかった。
流れるような動作で目を瞑り、自分の唇に触れた彼は、こういう事に慣れているのだろうか。
この7年、デルカダール王国を離れていた期間に、ホメロスは自分以外の女の子と交友関係をもって、そういう事に慣れていたのかもしれない。18歳の男の人なのだ。恋仲になった女性はいたかもしれないのに、そんな事を全く考えていなかった。
毛布をくちゃっと丸めて、それに抱き着く様に腕を回してしがみつくと、大きな溜息を吐いた。
胸が熱くて、苦しくて、まとまらない思考回路のまま恥ずかしさで紅潮した頬を押し付ける様に顔を埋める。
ホメロスは、所謂女たらしになってしまったのだろうか。冗談で唇を奪うようなことをする人ではなかったはずだ。
もやもやと胸の中が苦しくて、それなのに心の何処かでなぜか嬉しそうにドキドキと心臓が鳴っていた。
人の心拍数は一生の間で脈打つ回数が決まっているという噂を思い出し、こんなに速く動いていてはきっと早死にしてしまいそうだと思った。
「明日、どんな顔をしておはようって言えばいいんだろう……」
日付はとっくに変わっていた。
ベッドのそばにあった燭台の炎を吹き消して、ぐるぐるとする頭の中で繰り広げられる羞恥心に蓋をして目を閉じ、いつも通りの自分でいられるようにと願って眠りにつくのだった。

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