或る街の群青

□金色の青年兵の受難
2ページ/2ページ

その日、昼に礼拝堂で最高神官の就任式を終えた彼女は、夜には城に戻り、帰国を祝うささやかな食事会が執り行われた。
ささやか、というのは彼女たっての希望であり、あまり人の多い所での食事は恥ずかしいという事で、少人数で質素に行われたからである。
豪奢なシャンデリアの元、今日の宴の主役であるベルナデッタは目を輝かせながら、テーブルの上に並べられたシェフが腕によりをかけて作った食事に舌鼓を打ち、大きな水色の瞳を細めてその繊細な味に感動していた。
ドゥルダ郷と聖地ラムダでの食事が合わなかったというわけではないが、修行中の身だった為、質素な生活を送っていた彼女は、こんなに豪華な食事をとるのは久しぶりだった。
好物の果物たちもヴィクトリアン調の食器に盛られていて、高く積まれた果物の天辺でさくらんぼも苺もシャンデリアの明かりを受けて艶やかに輝いていた。
デルカダール王と長いテーブルの端と端に対になる様に、ふかふかで柔らかな革張りの椅子に腰かけたベルナデッタは、そのさくらんぼを口に頬張りながら、修行での成果と今後の方針について聞かされていた。
次の週の頭からは正式に礼拝堂へと通う事になると同時に、回復魔法と補助魔法の技術の高さから時折遠征にも赴いて欲しいとの事が王の口から告げられ、彼女は満足そうに頷く。
「修行を終えて早々、まさか父と同じ最高神官の役職を与えてもらえるなんて。とても身に余る光栄です、国王陛下」
「ニマ大師殿と長老殿から、そなたが類い稀なる才能をみごと開花させたと聞き及んでおるのでな。何でも、組まれた修行だけでは飽き足らず、あの精霊魔法の研究をドゥルダ郷でしていたそうじゃないか」
ベルナデッタは、葡萄酒の注がれたグラスに口を付けながら舌を湿らせると「研究に没頭出来る程の本と詳しく知る者達が居たので」と笑った。
デルカダールにも魔導書はたくさん置いてはあったが、やはり専門の機関があるだけにドゥルダ郷と聖地ラムダには彼女が欲する精霊魔法についての魔導書が数多く存在していた。
内容はどれも酷似したものが多かったが、すべてを何度も読み返して違いを探し、事細かにあらゆる事例を探って、自分の目に見えているきらきらと輝く彼らの正体と使役の方法を独自に研究していたのだ。
元々精霊魔法というのは保持者の数が少ないため、使役するの必要不可欠な詠唱文が書かれている文献が非常に少なく、研究と修行を同時に進めていくうちに、期間が五年六年と伸びてしまい、最終的に七年もの月日を費やしてしまったのだった。
書物を読み解き、研究に没頭できる場所。それは力を求めるベルナデッタにとって素晴しい環境だった。そのおかげでこのロトゼタシアで実に数百年ぶりの精霊魔法保持者としての地位を確立し、とんとん拍子に最高神官就任の話が舞い込んだのだ。
生まれ持った魔力の制御は勿論、精霊の使役によって消費する魔力は通常の全体攻撃魔法の三分の一程で最大の出力を出せる。攻撃魔法、そして回復補助魔法も偏りなく使えるという事は戦闘においても十分に高い能力だったのだ。
元々探求心が豊富で貪欲に知識を貪り得るタイプだった彼女は、乾ききった海綿が水を吸うように数多くの知識を得る事が出来た。どんな難題にも対応できるだけの柔軟な思考と、あらゆる角度から物事を考える事の出来る多方面からの考察力を持つ。
幼い頃と比べれば人間性も知能も飛躍的に向上したあどけない笑みを浮かべる彼女に、デルカダール王は満足そうに頷き、他愛のない世間話を時折挟みながら晩餐を楽しむのだった。


ホメロスは自室で本を片手に椅子に腰かけ、ぼんやりと今日の出来事を振り返っていた。
久しぶりに会ったベルナデッタは大人の魅力を大きな胸にぼいんと蓄えて、幼さの残る顔立ちと華奢な体で、昔と同じように無垢な笑顔を愛らしい顔に浮かべる天使だった。
城下町を歩く姿も、城の廊下を歩く姿も、誰もが彼女を目で追う程に美しく成長していたのだ。
ごつん、と自分の額を机に付けて、自分に抱き着いた時のあの柔らかな感覚と甘い香りを思い出す。暫く離れていて、兵士たちの男所帯に身を寄せていた自分はあの香りを忘れかけていた。
幼い頃、同じベッドで眠った夜にもあの甘い香りに胸が満たされてすやすやと寝息を立てていたのだ。微睡を覚えてしまうような、柔らかく優しい甘さのある、彼女の香り。それは心が安らぐものだった。
大人になってしまった現在では恐らくあの香りを傍に置いて落ち着いた気持ちで眠りに付けないだろう。今思い出しただけでもどくどくと脈打つ早鐘のように煩い心臓が、何かを急かしている様だった。
恋をしている、と気付かされたのは意外にもグレイグの一言だった。
あれは確か、ベルナデッタが修行へ出てから1年ほどたった冬の事だ。
貴族の娘から手紙を渡されたのだ。顔を真っ赤にして俯きながら、これ読んでください、と言って走り去った小さな後姿を見送って手紙の内容を見れば、好きだとか何だとかと書き連ねられた文。言わば恋文というものを渡された。
何処かでそれを渡されている所を見ていたらしいグレイグが、何処からともなく駆け寄ってきて、肘で自分を突くのを煩わしいと思いながら適当にあしらっていると「結構かわいい子だったじゃないか!でも、お前にはベルがいるから断るんだろ?」と彼は残念そうにそう言った。
その言葉に思わず目を見開いてグレイグを見れば、彼は驚いたような顔をして自分を見るのだ。お互い目を丸くして見つめあい、首をかしげる。それから彼は肩をわなわなと震わせながらこちらを指さして、
「まさか、ベルのことを特別に思ってる自覚が無いのか!?」
と、信じられないとでも言うように声を上げた。彼の言う通り、彼女の交友関係に対して嫉妬をすることは度々あったが、それが友情なのか愛情なのか、その時は未だに分かっていなかった。グレイグの言い分を聞くと、ベルナデッタ以外の女には優しくない、そもそも一緒に居る時の顔が違うし一緒に居ようと思っている様子が無い、特別に思っていないのにいつも一緒に居るのは大変だと思う、など個人解釈多めの意見を言われた。
「ベルは、初めてできた友達だ。大事にするに決まってるだろ」
「…じゃあ、もしも俺がベルと結婚したいって言ったらホメロスは嫌な気持ちにならないのか?」
目の前の友人の言葉に思わずはぁ?と間の抜けた声を上げるが、大人になった二人がドレスとタキシードを着て寄り添う姿を想像すると自然と眉間にしわが寄ってムカムカと腹が立ち始める。
そんな自分の表情に気付いたグレイグが「取られたくないって思うなら特別に感じてる証拠だ」と心底面白そうに言うのだった。
6年前のそんな出来事を思い出して、はぁっと、甘ったるいような悩ましさを含んだ様な深い溜息を吐くと、誰かが自室の扉を叩く音が部屋に響いた。
こんこん、と二回繰り返された乾いた音に「どうぞ」と許可を出す。
そして隙間から顔をのぞかせた予想外の人物に驚いて、手に持っていた本が床に転がった。
長く伸びた蜂蜜色の髪を三つ編みにして肩から胸元へ流し、真っ白なワンピースの寝巻を着たベルナデッタだった。
本を胸の前に一冊だけ抱えて微笑んでいる姿は、恐らくこの時間帯に年頃の異性の部屋へ出向く危険を何も考えていない。もう一度繰り返す。彼女は全く、何も考えていない。
ぽわぽわとした能天気な顔をして「ホメロスのお部屋は本がいっぱいで大好きなんだ」と言って、ふにゃりと笑う姿に思わず頭を抱えた。
時刻は日付が変わるより少し前を差していた。
まさか他の男の部屋にもこんな風に出向いているのではないかと心配してしまう。
良からぬ事を考えそうになる自分を諫めて、数回深呼吸を繰り返すと、なんとか平常心を呼び戻した。
「こんな夜更けに男の一人部屋に来るなんて、お前は馬鹿なのか?」
なんとか声を振り絞り、呆れているかのような口調でそう言うと、
「さっきグレイグにも同じことを言われたんだけど、その台詞流行ってるの?」
と驚きの答えが返ってきたのだ。
本を借りに来たんだよ、と何も深く考えていない彼女ののんびりとした口調を耳にしながら、自分の部屋を訪れるよりも先にグレイグの部屋を訪れていたという事実に、悔しさと嫉妬で頭を殴られたような気持になる。
椅子に腰かけたまま呆然としていると、彼女はあろうことかずかずかと部屋に入り込み、本棚から一冊手に取ると、ベッドに上がり寝そべりながら読み始めたではないか。
こんな時間に自室を訪れた彼女に、もしかしたらそういう誘いかもしれないと心の何処かで期待する自分が名乗りを上げる。
これはチャンスなのではないか?きっとそのつもりで来たんだ。何も知らない少女のフリをしているだけなんじゃないか、と自分の中の男心が語りかけてきた。
喉がごくりと鳴った。そっとベッドへ近づき、寝そべる小さな彼女の傍に腰を下ろす。彼女の小さな足に指先が触れて、本を読んでいた肩が一瞬だけびくりと上がった。しかし本に集中した様子でまた黙々と文字を目で追い始めている。
心臓が五月蠅かった。頭の中にまで響く自分の鼓動が、無意識に息を上げているのか、胸が苦しかった。
気が付けば、小さな足の甲に当たった自分の指先は、震えながら、彼女の足首まで肌の上を滑る様に、細いその輪郭をなぞっていた。
くすぐったいよ、と小さな笑い声が聞こえる。嫌がっている様子はない。白い寝巻のワンピースの裾はすぐそこにあった。
本当にこんなことをしていいのか。駄目なら嫌だと言ってくれさえすれば直ぐに止められるというのに、ふふっと声を出して笑う彼女は目を細めて本から目を離して自分を見ていた。ベッドに無防備に横たわったまま、淡い桃色をした唇に弧を描いて。
白い布から伸びる脚は細く、痩せた幼い子供のようだった。
足首から脹脛にかけての、ささやかな曲線に手の平を這わせると、その柔肌はほんのり冷たく、春の夜の気温に少し冷えているような気がした。
彼女は嫌だと言わない。それをいい事に、自分は頭の中でしてはいけないような気がするその行為を想像していた。神に仕える身である彼女の、清らかな、その体を。
脹脛に添えた手は膝の裏までゆっくり上がっていた。
うつ伏せに寝そべって、枕の上で本を開く彼女は、首をかしげて黙ったままの自分を見つめている。大きな目はきょとんとしていて、まるで何も知らない子供のように不思議そうにこっちを見ていた。
心臓が痛い程に早く鼓動を鳴らす。頭の中がぐるぐるとしていて、眩暈がするような気がした。息が荒い。苦しくて大きくはぁっと深呼吸をすると、ワンピースの裾に手をかけて捲った。
胸の高鳴りを抑えながら嬉々として見つめるその先に現れたのは、真っ白なレースが付いたかぼちゃパンツだった。
急に裾を捲られたベルナデッタはわっと驚いた声を上げて、ホメロスの掴んでいた自分のワンピースの裾を引っ張って降ろすと「もう!吃驚したよ!」と言って柔らかそうな頬をぷくッと膨らませる。そして、
「ホメロス、君って人は、大人になっても悪戯をやめないんだね」
と付け加えて呆れたように笑うのだった。
一方淡い期待を胸に抱いていたホメロスは、突如目の前に現れた純白のかぼちゃパンツに一瞬だけがっかりしたような、残念そうな顔をしたが、直ぐに体を震わせてくすくすと笑い始める。ああ、そうだ、思い出した。彼女は昔からそういう奴だった。と心の中で呟いた。

二人で他愛もない世間話を十数分ほど交わした後、ベルナデッタはベッドから起き上がった。自室へ戻るらしく、この本を借りていくね、と言うと扉へ向かって足を進めていた。
そしてホメロスはベルナデッタを見送る為に一緒に扉に近づき、いまだに少し熱を帯びた指先で彼女の白い頬に触れた。
ほんのり温かい、柔らかな頬を下へ撫でながら指先で顎を掬い上げる様に顔を上に向かせる。小さな顔は、抵抗することなく自分の思い通りに視線を上げて、水色の瞳と目が合った。
一瞬の出来事だった。
ホメロスは自分でも驚くほど自然に目を閉じると、彼女の唇に自分の唇を重ねていたのだ。
それは軽く触れるだけのキスだった。彼女の柔らかなその感覚と熱い熱が自分の唇に伝わった。
その白い頬に触れた時、こんな事をしようなんて微塵も思っていなかったというのに、気持ちに気付いて欲しいという焦りが、自分でも思わぬうちに表へ出ていたのかもしれない。
ハッとして少し唇を離し、目を開けた。ほんのわずかな距離に、水色の目が自分の目を覗き込むように見ていた。それは驚いているわけでもなく、拒絶しているわけでもなく、ただ目の前の光景を見ているようだった。
「おやすみ、ベル」
ホメロスは平然を装うが、内心気が気ではなかった。
ベルナデッタは笑っていた。それからこの部屋へ来た時と同じようにぽわぽわと何も考えて無さそうなゆるい顔をして「うん、おやすみ」と返事を返すと、ホメロスの本棚から借りた一冊の本を胸に抱えて、廊下を進んでいき、やがて姿を消した。
そんな能天気な彼女と打って変わり、戸を閉めた彼はベッドに腰かけて、頭を抱える様に項垂れる。
体が勝手に動いたとはいえ、自分がここまで分かりやすい態度を取ったというのに全く相手にされていないことに絶望していた。少しは意識してもらえたのだろうか。いや、あの様子では全く何も考えていない。子供の悪戯だと思われているような気がする。
体を後ろに倒してぼふっとシーツに背を預けた。
先程まで思い人が寝そべっていたそこは、ほんのりとまだ彼女の温もりが残っていて温かかった。
「……唇、柔らかかったな」
静かになった自室にそんな独り言をぽつりとはき出しながら、本気でちょっとだけ落ち込んだ、ホメロス18歳の夜だった。

前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ