或る街の群青

□金色の少年の憂鬱
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自室へ戻ったベルナデッタは、ホメロスに謁見の間での出来事を、かいつまんで話した。
始めはいつも通り話を聞いているホメロスだったが、守れる力を付けて帰りたいと嬉しそうに話す彼女とは真逆に、ベッドの上で枕を抱えて次第に不機嫌そうに眉を寄せ、何も答えず、ふん、悪態つく様に鼻を鳴らす。ベルナデッタと目も合わせず、段々と暗くなっていく夕暮れを縁取った窓を見たまま黙っていた。
返事のない彼を、不思議そうに首をかしげながら見て、身を乗り出し自分と目を合わせないその顔を覗き込む。目を伏せ、抱きかかえた枕に顎を乗せた彼の横顔は、唇をツンと尖らせて何処か不貞腐れたような顔をしていた。
「ねえホメロス。君、どうしてそんなに不機嫌なの?」
「どうしてかって?そんなの、君が嬉しそうに修行の話をするからさ」
少しきつい口調だった。ホメロスがそんな口調で彼女と話をするのは初めての事だった。驚いたベルナデッタは、ビクリと肩を震わせて、何かを我慢するよう唇を噛んだその横顔を見ていた。
ズキリと胸が痛んだ。きつい口調に、ではなく、辛そうな顔をしたホメロスを見て苦しくなったのだ。
どうやら彼は修行に出て欲しくないと言いたげのようだ、とベルナデッタは思った。自分の方を向かずに窓の外へ粛々と視線を注ぐ彼を見て、鼻がツンとしそうになるのを堪える。
ホメロスはいつも自分を助けてくれた。彼の後ろに隠れる事を許してくれて、自分の代わりに発言してくれた。初めての友達。大好きで、ずっと一緒に居たいと、両親以外の人で初めてそう思えたのが彼だ。
大切な彼にそんな顔をさせたくなかった。でも、修行に出て、強くなりたかった。いつも手を差し伸ばして助けてくれたホメロスに、今度は自分が手を差し出してあげたいと思った。
彼がどうしてこんなに我慢した顔をして、それ以上を口にしないのか、ベルナデッタは理解していた。
「……ホメロス。私も同じ気持ちだよ」
「……嬉しそうに、修行に出るって言ってたじゃないか」
「強くなりたいから行くんだよ。離れるのが寂しくないわけじゃない」
五年、六年、もしかしたらもっと時間がかかるかもしれない。それでも力をちゃんと制御できるようになりたい理由は、彼女の目の前にあった。そっぽを向いて、自分と目を合わせようとしない同じ髪の色をした少年。
『今』を共に過ごすことはとても大事だ。それでも、彼女は『さらに遠い未来』を見つめてこの決断に至った。今だけじゃ足りない。もっと、ずっと長く彼と一緒に居たい。
騎士になったホメロスと同じ隊に入って、彼を助けながら、ずっと共に、一緒に居たいと願ったあの日から、気持ちは何一つ変わってなどいなかった。
枕を抱えたままの彼の手を取り、ぎゅっと握る。目を伏せて窓の外を見つめたままだった目が、そぅっと、様子を伺うようにベルナデッタをみた。寂しそうな眼をした彼に、釣られて寂しい気持ちが押し寄せてくるが、ぐっと我慢をした。
「ずっと一緒に居たいから、強くなりたいって思った。一生、ずっとなんだよ?五年六年なんて、そんなのあっという間だったなぁて思えるくらい、長く、一緒に居るために」
ふにゃりと笑った彼女の目の端には、ほんの少しだけ透明な雫が乗っかっていた。
日は傾いていて、さっきまで空を真っ赤に染め上げていたというのに、大地の端に追いやられ、天には濃紺の幕が覆うように広がり始めていた。わずかに残った夕日の光で紫色に照らされた雲を飾りながら、小さく輝く星も段々と姿を現し始める。
薄暗くなっていく部屋の中で、それでもなお彼の髪は輝いているように見えた。

ベルナデッタの修行に出ることが、デルカダール王とニマ大師、それから聖地ラムダの長老の使者のやり取りで本格的に決まり、日取りや修行内容、どのくらいの期間でどの程度を目指すのか等が話し合われた。決行は早い方が良いだろうという事で、三人の意見がまとまったその日から三日後に、ドゥルダ郷へ旅立つことが決まった。
その間も、ベルナデッタは神官見習と魔法学を学びながら、空いた時間で少しずつ荷物をまとめた。
級友たちは他の地へと赴く彼女に、各々お守や回復役、お菓子、なるべく道中の役に立つものを選んでは差し入れて、彼女とのしばしの別れを惜しむのだった。

とうとう旅立ちを明日に控えた夜がやってきた。
ホメロスは、修行に出ると告げたあの日からベルナデッタとうまくはなせないでいた。
目が合ってもすぐに自分からそらしてしまい、その度に彼女は寂しそうに、愛らしい顔に悲しみの色を浮かべて俯かせていた。
夜に部屋を行き来する事も無くなってしまい、つい数日前まで、枕を並べ、会話を弾ませていたというのに、一人で眠る夜に慣れ始めてしまっていた。
ホメロスは自室のベッドの上で仰向けになり、枕元に置いてあった本に手を伸ばす。これは魔法学の教官に頼んで、ベルナデッタの両親が使っていた書斎の本棚から借りた本だ。いつか彼女が持ってきてこのベッドの上で広げて見せた、あの精霊魔法の今までの保有者について書き連ねられた黒革の古書。前に目を通したときは、彼女が開いたページから数ページ前後した所しか見ておらず、折角借りたのだから全てに目を通そうと一番初めのページから捲り始めた。
ベルナデッタが自分と一緒に居たいと言ってくれた時は嬉しかった。しかし、何処かに違和感を覚えていたのだ。ベルナデッタの言った一緒に居たいという気持ちは、なぜか自分と違うような気がしていた。概ね同じ方向を向いてはいるが、ほんの少しだけ角度が違う、何処かかみ合わない、そんなもやっとした気持ちが胸の中を渦巻いて頭の中をぼんやりとさせる。いくら字を目で追っても、頭の中に入ってこなかった。
明日には彼女はこの地を離れて行ってしまうというのに、気の利いた言葉も掛けられないまま何年も離れ離れになってしまうのだろうか。
本を捲る手に無意識に力が入る。
彼女が自分の傍を離れている間、もし自分以上に信頼しあえる友を作ってしまったら、そう思うと頭上に鈍器を振り下ろされたかのような衝撃を感じた。
がつんと頭に響くその衝撃は目の前を真っ暗にさせて、心の中に寒風を吹き込んだかのように冷たくなる。冷たいのに、ざわざわと五月蠅く胸を締め付けた。この感覚はいつかどこかで感じた事があった。いつだっただろうか。記憶を辿り、その感覚がいつどんな状況の中で心をざわつかせたのかを、探った。
ベルナデッタが肌着とかぼちゃパンツで寝そべっているのを見た時か、いや、違う。騎士になった自分と一緒に居たいと初めて彼女が言った時か、いや、これも違う。
さらに深く、記憶を辿る。
湖の底に沈んでしまった、小さなパズルのピースを探す様に、目を凝らして、見落とさないように。
……そして、とある記憶にたどり着いた。
あれはグレイグが初めてデルカダールへやって来た時の事だ。
人見知りの彼女が、自らグレイグに挨拶に行こうと言って自分の袖を引っ張ったあの日だった。今心の中で渦巻くもやもやとした感情は、あの日感じた胸の痛みと同じ事に気が付いたのだ。今思えば、ベルナデッタが誰かに関心を抱くたびに、大なり小なりこの気持ちを抱えていたような気がする。一番初めにそれがあったのはグレイグと話したあの日だったのだ。
いまでこそ、三人で過ごすうちにその気持ちには慣れてしまっていたが、その対象が見知らぬ誰かになったらと思うと胸を抑えずにはいられなかった。
頭に入ってこない本を閉じ、胸の苦しさに思わず目を細める。
そしてやっと気が付いた。この気持ちは嫉妬なのだと。
冒険譚が好きで良く読んでいたが、主人公はどの話でも姫や町娘、異性と恋に落ちていく描写があった。その中に書かれていた嫉妬という文は、あの時の自分にはよく理解できないでいたため、さらりと読んではこういうものなのかと見知らぬ感情を特に何も思わず読んでいたが、今は、良く分かる。
自分だけを見ていて欲しい気持ちと、他の者に触れさせたくないと思う執着心。
だからあの日、ベルが自分以外に関心を持った事に胸が痛んだのだ。
只、友達を取られたくない独占欲なのか、恋なのか、その区別はまだ良く分かっていなかったが、これが嫉妬心だという事に気づけただけでも、自分にとっては偉大な一歩だったのかもしれない。
「……そういう事だったのか」
一人でそう、納得した様に呟いた時だった。
部屋に戸を叩く乾いた音が響いた。
扉の向こうから聞きなれていた筈なのに、懐かしく感じる彼女の声が聞こえた。
遠慮がちに、入ってもいい?と。
一瞬ためらったホメロスだったが、直ぐにはっとしてベッドから飛び起きると転げ落ちる様にベッドを降りて、勢いよく戸を開ける。
戸を開けてくれるとは思っていなかったのだろう、ベルナデッタは驚いたように目を大きくさせてホメロスを見ていた。
そしてじわりと目を潤ませて泣きそうな顔をしながら、へへっと、間の抜けたような笑う声を出すと「やっと、ホメロスの顔ちゃんと見れたね」と言った。
ホメロスはどんな顔をしていいのかわからなかったが、その顔を見ていると自然と頬が緩んで、いつの間にか笑っていた。
胸がドキドキしていた。ベルナデッタを避けていたのはたった数日の事の筈なのに、彼女の笑った顔を見たのはとても久しぶりのような気がした。

数日振りに同じベッドに枕を並べて眠る。
秋は終わりに近づいているようで、毛布にくるまっているというのに足のつま先は冷えているような気がした。寒くて、お互いくっついて眠る事にした。
冬はいつもそうして一緒に過ごしていた筈なのに、何故か心臓が五月蠅く音を立てていた。
「今夜が過ぎてしまったら、何年も、こうして一緒に寝れなくなっちゃうんだよね」
「修行に出るの、後悔してる?」
「ううん。してないよ。でも、やっぱり寂しいなって思う。修行ね、早くて五年で帰ってこれるかもしれないって。五年先って言ったら、私もホメロスも16歳になるんだよ」
いつかのあの日のように、毛布の中で手を繋いで彼女は言う。
「16歳になったら、背も伸びてるし、髪も伸びてるし、きっと顔も大人みたいになってるよね。帰ってきたら、自分の事を知らない人だと思われてたらどうしようって思うんだ」
「じゃあさ、五年前の僕たちを思い出してみてよ。初めて会ってから1年経ったくらいの事。……そう対して今と顔も性格も変わってないだろう?変に心配する事なんてないさ。ベルのことを忘れる時なんて、おじいさんになってもきっと来ないよ」
毛布の中でお互いの顔を見つめた。真っ暗な中で、うっすらと確認できる彼女に微笑みながら、握った手に力を籠める。
少しずつ温かくなってきた毛布の中で、離れることなくくっついていた。お互い体を離したくなかった。しばらく会えないと思うと尚更離れたくなくなった。
お互いの息が顔にかかるくらいに近い距離の中で、自分の心臓の音が彼女に聞こえているんじゃないか、五月蠅くて眠れなくなってしまったらどうしようなどと考えていたが、ベルナデッタはこうして一緒に居られる事が余程嬉しいのか、猫が擦り寄る様に頭を自分に擦りつけると、
「ホメロス。今夜は、一緒に素敵な夢を見れると良いね」
と言って長い睫毛に縁取られた目を細め、そしてゆっくり閉じた。
胸の音は相変わらず大きく鳴っていた。

次の日の朝、ベルナデッタはドゥルダ郷からやってきた使者と一緒に、このデルカダール王国に背を向けて旅に出た。
城門を抜け、大きなリュックを小さな背にしょって、
「私の事、絶対忘れないでね?約束だよ!」
と一度だけ振り返り手を振っていた。
ホメロスとグレイグは、その輝くような蜂蜜色の髪と、小さな背中が見えなくなるまで見送った。
隣に居たグレイグが「昨日仲直りしたんだろ?良かったな」と笑っていた。
彼女がこの地に帰ってくるまでに、自分も強くなって久しぶりに会った時に驚かせるという目標を立てた。
自分を守りたいと言ってくれたベルナデッタの気持ちは嬉しかったが、男である以上、大切な女の子を守りたい気持ちはあったのだ。
空は、彼女の大きな瞳と同じ、澄み切った水色をしていた。
ホメロスは既に見えなくなってしまった小さな金色の妖精を想って、少しだけ頬を緩めた。

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