或る街の群青

□蜂蜜色の髪に口付けて
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こうして攻撃魔法の制御が苦手だった彼女は、自らの手で大切に伸ばしてきた髪に着火させてしまったのだった。
魔法の実習は中止になりお開きとなったが、いつもなら学業に勤しんだ後は図書室へ足を運ぶのが日課だったベルナデッタは、今日はとてもじゃないがそんな気分に離れなかった。
髪は辛うじて肩甲骨の辺りまでは残っていた。しかし、焦げて縮れてしまった毛先を綺麗に切りそろえると、肩に付く程さっぱりとしてしまった。
ベッドへとダイブしたベルナデッタは、枕に顔を押し付けながら、すんっすんっ、と鼻をすすり、枕のカバーに瞼を押さえつけて自ら拭わなくても目の周りをびちゃびちゃにしないという、なんとも原始的なシステムに身を任せる。
そして、思い出したように小さな足をばたつかせ、ベッドの上で履きっぱなしになっていた黒い革のローブーツを無作法にも脱ぎ飛ばすと、軽くなった足をベッドの上に放り出した。
ブーツは数回、とんっとんっ、と床を跳ねて転がり、扉の近くに落ち着いた。
大事にしていた髪は半分以上短くなってしまった。それに、魔法学を共に学んできた級友たちに怖い思いをさせてしまった。
今回の件できっと自分を怖がるに違いない。そう思うとまた胸の中が苦しくなって涙が溢れてしまった。
こんなにも髪が軽くなったのは物心がついてから初めての事だった。
前髪も少し燃えてしまい、片目が隠れていた長い髪はすっかり目を隠すのをやめていて、大きな色素の薄い青の双眸が見えるようになっていた。
後ろ髪も、今はもうホメロスの方が長いのではないだろうか。彼が今、自分の髪を見たらどんな顔をするのか。呆れるのか、それともメイド達のように泣いてくれるのか。
そんな事を考えていたら、服が少し焦げ臭い事に気づき、髪が燃えた時に匂いが染みついたのであろう其れを脱ぐために、うつ伏せに寝そべって枕に顔を押し付けた状態のまま腰ひもを解いた。
神官見習いの服は足首まである長袖のワンピースになっていて、腰の辺りで細い帯紐を結び、絞りを入れている。そしてその上から教会の印の留め具が付いたケープを肩にかけるだけという、とても簡素なデザインだった。
俯いたままベッドの上でもぞもぞと体を動かし、ケープ、ワンピースの順に服を脱ぐ。
とても脱ぎにくいが、ベッドから起き上がって立ち上がればきっとまた鏡にうつった自分の髪を見て悲しくなってしまうと思ったのだ。けして、面倒くさがり屋というわけではなく、普段ならばこんな横着な事はしない。
脱いだ服を器用に足でベッドの隅へと追いやったベルナデッタは、白い膝丈ワンピースの肌着とかぼちゃパンツだけの姿になった。泣き疲れて、窓の外はまだ日が高い位置にあり、さんさんとこのデルカダールの地を照らしているというのに、瞼は今にも落っこちてしまいそうだった。
寝て目が覚めれば少しは前向きに考える事が出来るのだろうか。
そう思って瞼を閉じかけたとき、誰かが戸を叩くノックの音が部屋に響いた。
返事も待たずに扉が開く。顔を上げて確認したわけではないが、恐らくホメロスだ、と思った。
お互いの部屋を遠慮なく勝手に行き来できるのは、彼くらいだったのだ。
ホメロスは開いた戸から中へ入ると、すぐ傍に無造作に転がされたブーツとベッドの隅にくちゃくちゃにまとめられた修道服、そして肌着姿で枕に顔を押し付ける様にうつ伏せになったベルナデッタの姿を確認すると、ベッドに近づき、そっと腰を下ろす。
「ベル。そんな恰好のままでいると風邪を引くぞ」
返事はなく、黙ったままだった。
彼の手はそっと、枕に押し付けられた悲しみに暮れる頭に伸びて、ゆっくり、元気づけるように蜂蜜色の髪に触れた。
「……何時までそうしているつもりなんだ?」
呆れたような声色で、すっかり短くなってしまった髪を撫でながら、ふて寝を決め込んでいる小さな背中に、そう問う。
「教官からベルの髪の事を聞いたんだ。ずっと大切に伸ばしてた、って。でも、前髪は別の理由で伸ばしていたんだろう?」
ホメロスの指先は、髪の先までたどり着き、切ったばかりのその毛先を摘まんで、くるくると指に巻き付ける様に弄っていた。
「……覚えているか?初めて図書室で会った時、人と目を合わせると、緊張して怖くなって話せなくなるって言ってたのを。だから前髪を伸ばして、なるべく人と目を合わせないようにしてきたんだろう。」
そして彼は「少し起きて、こっちを向いてくれないか?」と言った。
ベルナデッタは黙ったままだったが、これ以上渋った所できっと彼は此処に居座り、お腹がすいても、夜になっても、このベッドの端から腰を上げる事はないのだろうと思って、ゆっくり体を起こす。
ベッドがぎしっと音を立てた。顔を俯かせたまま起き上がる。ベッドの上に座り込むような体勢で、ホメロスの方へ体を向けた。
ホメロスはベッドに腰かけたまま、顔をこっちに向けていた。
彼女が自分の方を向いたのを確認すると、彼もベッドに上り、向き合うようにして正面に膝立ちになる。
「僕をちゃんと見て」
そう言って、泣きわめいて濡れたしっとりとした頬を両手で包むと、お互いの視線が交わる様に顔を上げさせる。
膝立ちのホメロスは少し高い位置から見おろす様に、ベルナデッタは顔を真上に向ける様な体勢になり、金色の瞳と水色の瞳は、かちり、と目が合った。そして、ベルナデッタの瞳を覗き込むように顔を近づける。
ゆっくりと上から降りてくるその目は、まるで自分の瞳を覗き込んですべてを見透かすようだ、とベルナデッタは思った。
彼の髪と同じ色の、蜂蜜のように、艶がある、金色の瞳。切れ長の目がじっと自分を見ていた。
ベルナデッタは目を離さなかった。昔は人と目を合わせるのがあんなに怖かったのに、今は不思議とそんな事を考える事も無くなっていた。寧ろ、ずっとその綺麗な目を見ていたいとさえ思った。
きっとなにか魔法をかけられたのだろうか。ホメロスを見ていると、彼の為なら何でもしてあげたくなってしまう。自分が考える事、感じている事、それらを見透かされてもいい、すべて、彼になら。そう思えてしまう程、彼の目を美しいと、ベルナデッタは思った。
暫く何も言葉を交わすことなくお互い見つめあっていた。
たった数分なのか、数十分なのか、時間は分からなかった。けれど、その不思議な沈黙を破ったのはホメロスだった。
彼は、ふっと笑った。
目を細めて、眉尻を少しだけ下げ、柔らかそうな唇が緩く弧を描き、子供をあやす様なささやき声で、
「ほら、怖くないだろ?」
と言った。
ベルナデッタにとって、それはとても不思議な事だった。
今までずっと必要だと思っていた前髪のカーテンは、いつの間にか不要の長物となっていたのだ。これから先の長い生涯、顔を覆い、目を合わせないようにしてずっと過ごすのだと思っていた彼女は、驚いたように目を開き、そして感極まって目の前に居たホメロスに抱き着いた。
突進するように飛び付いたベルナデッタを受け止めながら、そのままベッドへと後ろから吸い込まれるように倒れて行った。二人の体が一度シーツの上で跳ねた後、お互い目を丸くして黙ったまま顔を見合わせ、そして声を上げて笑う。
さっきまで泣いていたのが嘘のように嬉しそうに笑ったベルナデッタは、ベッドの上で転がりながらホメロスの額と自分の額をくっつけ、すごいね、すごいね、と頬が緩みっぱなしの顔でそう繰り返した。
それから二人はひとしきり笑った後、横たわったままベッドの上で伸びをして深呼吸をした。
笑い過ぎて上下する胸を抑えながら、頬が緩むのを隠すことなくホメロスに声をかける。
「ねえホメロス、良く気付いたね。私、自分の事なのに全然気が付かなかったよ」
「ベルは、ずっと僕と一緒に城中を歩いたり、町へ出たり、色んな人と関わる内に僕と一緒に居れば自分から話しかけれるようになっただろう?それから半年くらいして、今度は一人でも話しかけれるようになった。だから、その時にはもう人見知りは治っていたんだ。ベル自身は気付いていないみたいだったけど」
「そっか。じゃあ、私の人見知りが治ったのは、ホメロスのおかげなんだね」
「でも、後ろの髪はその件で伸ばしていたワケじゃないんだろ?」
シーツの上に広がった髪を一房掬い、その輝く髪を見つめながらホメロスは眉を下げる。
こればかりは、いくら彼でもどうフォローしていいのかわからなかったのだ。
指先に取った髪は驚くほど指通りが滑らかで、艶があり、かといってベタ付いている分けではなくサラッとしていて、しっかり握っていなければ直ぐに指の間を通り抜けてあっという間に逃がしてしまいそうだった。
あの長い髪が頭の先から毛先まですべて手入れが行き届いた状態だったため、その蜂蜜色の艶やかな髪を美しいと褒め称え、いつもレパートリーに富んだ技術で、編み上げたり、結ったりしていたメイド達が、泣き叫び絶望した面持ちで肩を下げていたのを思い出すと、その気持ちを、彼は理解できたような気がした。
「ホメロス。私の髪にキスして?」
ベルナデッタは、ん、と言って目を閉じ頭のてっぺんを彼に向ける。
「父様と母様が生きていた頃、いつも髪にキスをしてくれたの。あの日も、キスをしていってしまった。最後に触れてくれたのがこの髪だったんだ。大好きだった父様と母様の、最後の思い出だったから、ずっと、切らなかった。だからね、ホメロス。君の事が大好きだから、また私が髪を伸ばす理由になって欲しいんだ」
ふにゃりと気の抜けたようなゆるい笑顔がホメロスに向けられ、彼は照れと嬉しさにむずむずと擽ったそうに笑うと、わかったよ、と言って、指先でベルナデッタの前髪に触れた。
目を閉じた彼女の、おでこと旋毛の中間辺りに、そっと自分の唇を押し当てると、薔薇の香油の香りがほんのりと鼻腔を擽った。
ゆっくり目を開けたベルナデッタはとても満足そうな顔をして微笑んでいて、いつもなら半分隠されていた顔をつい好奇心で覗き込んでしまう。
「……ベルの顔、こんなにしっかり見たの初めてだな」
「ずっと、片目しか出して無かったからね」
「初めて会った日、あの日も顔を見たけど、直ぐに隠しちゃっただろ?だから、今、確認してたんだ」
「確認?何を?」
きょとんとした顔で見つめてくるベルナデッタに、ホメロスは彼女の髪を耳に掛けてやりながら、鼻先と鼻先をくっつける様に顔を近づけると、満足そうに目を細めて笑い、そしてこう言った。
「やっぱり。僕には天使に見えるっていう確認さ」

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