或る街の群青

□白い月と遠い日の約束
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グレイグがデルカダール城へとやってきたその夜、ベルナデッタは本を抱えていつものようにホメロスの部屋へと向かっていた。その足並みは甚く興奮した様子で、長い前髪から覗く水色の瞳はらんらんと輝いていた。
あの様子では恐らく今夜は興奮して寝つけないだろうなと、城内の警備をしていた兵士はすれ違い際に苦笑して、その小さな背中を見送る。
いつもは髪を項の辺りで二つに結んでいるベルナデッタだが、寝るときは寝返りを打つたびに髪が顔や体に纏わりついてしまうため、ゆるく三つ編みをして肩から胸元に流していた。
グレイグとあいさつを交わした後に父の書斎で見つけた本は、ベルナデッタにとってとても大きな収穫だったらしい。緩む口元を隠すことなく、ぽわぽわとした夢見る顔は、花畑を飛び交う妖精のようだった。
ふんわりとした三つ編みを揺らしながら、てこてこと絨毯を踏みしめて豪奢な造りの廊下を進み、ホメロスの部屋の前で足を止めると軽くノックをして、扉に手をかけた。
すると、何と驚いたことにそこには先客が居た。
ベルナデッタは大きな目をさらに大きくさせて、先客の名を口にする。
「グレイグ!」
部屋の中ではホメロスとグレイグが楽しそうにおしゃべりをしているようだった。
名前を呼ばれたグレイグは何故か目が合うと一瞬だけ照れ臭そうに頬を指で掻いて、よっ、といいながら片手を上げて笑った。
「グレイグ、ホメロスともうそんなに仲良くなったの?」
「ん?俺は、ホメロスに城の中を案内してもらった後にここへ来たんだ」
ホメロスのベッドに腰かけていたグレイグはニッ目を細くして笑うとそう言った。
椅子に腰かけたまま、ホメロスは体をグレイグの方へ向けていて、二人が仲良くおしゃべりをしていたのだとベルナデッタは思った。
ベルナデッタは友人が少なく、ホメロスは間違いなく自分の一番の仲良しだと思っていたが、こうして別の誰かが加わっているのをみると、少しだけ寂しく感じた。
友人が増える、という事に慣れていない彼女は、この部屋に自分が入っていいのだろうかと少しばかり遠慮がちに考え、戸を開けたまま入り口で足を止めてしまった。
二人が仲良くしているのを見て、自分はこの部屋に入った後、そんな彼らの前でどうしたらいいのかわからなかったのだ。
ホメロスが誰かと仲良くすることはとても良い事だ。彼が自分以外と友好関係を築くことを制限できる権利なんて自分にはない。むしろ、友人が増えたことを心から喜ぶべきなのに、たった一人の友達であるが故に、心の中に寂しさと焦りが産まれた。
ベルナデッタはモヤモヤとした感情を抑え込むように、胸の前で抱えた本をぎゅっと握り直し、しょんぼりと俯く。
そして部屋を立ち去ろうとつま先を少し後ろに下げたその時、そんな様子のベルナデッタにホメロスは「今日は一緒に寝ないのか?」と声をかけた。
椅子から腰を上げてベルナデッタに近づくと、こっちにおいで、と誘うように手招きし、さっきまで自分が腰かけていた椅子に座るように促す。
椅子の前に立ち、本当に此処に居てもいいのかと不安そうにホメロスをみたベルナデッタの視線に気づき、彼は呆れたような顔をして小さな肩を押して椅子に座らせた。
「いつもは遠慮なんかしないで、図々しく人のベッドを使って寝そべりながら本読む癖に、今日は借りてきた猫みたいに大人しいんだな」
「だって、邪魔かなって思ったから……。2人で仲良くおしゃべりしてたんでしょ?」
「邪魔?何を言ってるんだ……。丁度ベルの話をしていた所さ」
ホメロスは椅子に腰かけたベルナデッタのもっちりとしていて滑らかなバラ色の頬を、いつかメイド達がしていたように指先でつんつんと突くと、眉間にしわを寄せて呆れたような顔をして見せた。
「人見知りで、臆病で、怖がりで、目が合うと人と話せなくなるようなベルが、珍しく自分から話しかけに行こうって誘ったのは、グレイグが初めてだって話をね」
もちもちとした頬にホメロスの指が沈むたび、むっと呻き声を出していたベルナデッタだったが「そうだったんだ」と、納得するように感嘆の声を上げる。
ホメロスの言葉は随分と遠回しに嫌味を言っているように聞こえたが、ベルナデッタはさほど気にすることもなく、頬を突くその指が止まるのを待った。
「ベル、今日はどんな本を持ってきたんだ?」
ホメロスの手が離れる。突かれた少しだけ赤くなった頬を抑えてムニムニとさすったベルナデッタだったが、口をにんまりと緩ませて得意げな顔をして見せると、薄い胸に抱えていた革張りの本を両手で持ち上げ、手の延ばせる限界まで掲げる。
ランタンのオレンジ色の明かりに照らされて姿を現したのは、魔法陣の型押しが施された黒い古書だった。相当古い本なのか、革はぼろぼろになっていて所々擦れて地が覗いていた。淵とタイトルは金の箔押しの細工がされていているが、やはり剥げていて読めない。型押しされた魔法陣は、多少の魔法の知識のあるホメロスでも見た事の無いものだった。

窓の外は大きな月が、風に流される雲に時折身を隠しながらも柔らかな光を地上に届けていた。遠くから低くホウ、ホウ、と梟の鳴き声が聞こえた。
三人は並んでベッドに寝そべりながら黒い表紙を開き、中を覗き込んでいた。
夜の暗くなった部屋を照らすランタンの芯が、ジジジ、と音を立てる。
ベルナデッタはとあるページを開くと、小さな指をびしっと立てて、興奮したように話し始めた。
「このロトゼタシアには、精霊魔法っていうのがあってね、呪文の前に精霊を呼び出す詠唱して、火の精霊、水の精霊、風の精霊、土の精霊、雷の精霊達から力を借りて、自分の持つ魔力よりもずっと強い力で魔法が使えるようになるらしいんだ!」
本には確かにそう書かれていた。
精霊を使役し自らの力を超える魔力を手にした賢者がかつてこのロトゼタシアに居たことは確かだったらしく、その本に書かれている精霊魔法所持者の生きていた時代は、今から350年も前の話だった。
この本が書かれたのは2世紀ほど前らしく、現在はその力を継承する者が現れていない、と書かれていた。
そんな内容にホメロスは訝る様に方眉を上げると、ふんっ、と形のいい鼻を鳴らして口を開く。
「でも、精霊なんて見た事ないし、この本に書かれた、最後に精霊魔法が使えた人だってもう300年以上も前の人じゃないか。200年前のこの本が書かれた時代にも、「現在、ロトゼタシアには精霊魔法が使える人は誰一人居ない」っていうし、本当かどうか怪しいんじゃないか?精霊魔法だって、実際はずば抜けて能力の高い賢者だったかもしれないじゃないか」
「でもね、私、まだ魔法学の教官にも言ってないんだけど……、何となく、精霊の気配が分かる気がするの」
メラって唱えると、嬉しそうにキラキラって光るんだよ?と言いながらベルナデッタは真剣な面持ちで、本を見つめたままそう言った。
グレイグとホメロスが驚いてベルナデッタを見ると、彼女は唇を尖らせて不満そうに「嘘だって、疑ってるでしょ?」と頬を膨らませる。彼女は嘘をついていない。嘘をつける程、人と話す事に慣れていない。抑々、嘘を吐く理由なんてなかった。
「この本は父さまの書斎で見つけた本なの。国王陛下は、父さまと母さまの書庫をそのままにしてくれてたんだよ。貴重な文献とか、魔法の研究資料が沢山あるから、いつも鍵がかかってたけど、魔法学の教官に頼んで鍵を借りてね、今日初めて中に入ったんだ」
ベルナデッタのその言葉を聞いてグレイグは感心したように「ベルナデッタの親って凄い人なんだな」と目を丸くしてぼやいていた。
「ベルの父さまと母さまは王室付きの魔法使いと賢者だったんだ。この国を守って殉職した……。でも、本当にすごい人達だって、僕の父さまも言っていた」
「じゃあ、ベルナデッタはサラブレッドってヤツなんだな」
「……でも、私は教官から、魔力は強いって言われるけど、その制御が上手くいかないんだよ。補助魔法や回復魔法は問題ないけど、攻撃魔法は制御できなきゃ自分にも、味方にも危険が及ぶかもしれない。ちゃんと基礎を作って、それから、立派な魔法使いになって、この精霊魔法の研究をするよ。いつか父さまと母さまみたいに、たくさんの人を救えるような、そんな魔法使いになるんだ」
真っすぐ本を見つめたベルナデッタは、まるで何かに誓いをたてるかのようにそう言った。
片目だけ見えていたほんの少し伏せた目は、熱い熱がこもっているように見えた。長い睫毛はランタンに光を受けて、バラ色の頬に影を落としていた。ホメロスはそんなベルナデッタの人形のように整った横顔をみて、そっと手を伸ばすと、くちゃくちゃと艶やかな蜂蜜色の髪をかき混ぜる。
意地悪がしたかったのではない。ただ、頑張れ、と言いたかったのだ。上手く口に出して言えなくて、そうやって激励をした。
一方、将来の夢を語っただけなのになぜか友人に無言で髪を乱されて、頭の上にはてなマークを飛ばすベルナデッタだったが、当の犯人であるホメロスを見れば優しげに笑っていて、文句を言う気にはなれなかった。
「……将来の夢、か」
不意にグレイグは呟くように言う。
つい先日故郷が滅ぼされ、しかも今日この城にやって来たばかりの彼にはこの話題は気まずかったのかもしれないと心配し、内心焦り始めていた二人だったが、グレイグは話をつづけた。
「実は、夢とかまだ何も考えてなかったんだ。でも、今日この城の兵士たちに救われて、俺も誰かの力になりたいって思った。デルカダール王にはすごく感謝してる。正直、兵士たちにこの城に連れてこられた時は、例え保護という形だったとしても数日して怪我が治ったら解放されて、何をすればいいのか、どこに住めばいいのか、どうやって働けばいいのかもわからないまま路頭に迷うんじゃないかって思っていたんだ。でも、此処に住んで良いって言われて、帰れる場所を用意して貰えた気がした。……それがすごく、嬉しかった」
「だから、将来は王に仕えて国民を守る騎士になりたい」とグレイグは言って、照れ臭そうに唇を歪ませた。
ベルナデッタもホメロスも、そんなグレイグを見て嬉しくなった。

この城の門をくぐるグレイグを、二人は見ていたのだ。泣き腫らした目をして、不安そうに俯いた、彼の姿を。
ベルナデッタは両親を亡くした時の自分と、そんなグレイグの姿を重ねた。きっとこの城に来たばかりで不安な気持ちでいっぱいなはずだ、何とかして此処は安全で心が温かくなる人達で溢れた場所なのだと伝えたかった。安心してもいいんだよ、と。誰も君を悪く言う人なんて居ないのだと、伝えたかったのだ。
広間を見下ろせる二階で、ホメロスと肩を並べて見ていたベルナデッタは、ホメロスの服の袖を遠慮がちに引っ張り「あの子に、後で挨拶に行こう」と言ったのだった。
ホメロスはベルナデッタが自分から人との関わりを持とうとしたのがとても珍しくて、切れ長な目を大きくさせた。
いつも自分の後ろに隠れてもじもじとしている彼女が、今日初めて会った少年に、しかも会話だってした事の無い彼に話しかけようというのだ。
自分と初めて図書室で会った日は、目を合わせられなくて、話す時だって上手く声が出ない程に緊張していたというのに、と初めはその成長を嬉しく思った。しかし、友人になってから何時だってその透き通るような水色の瞳に映っていたのは自分だったというのに、心配そうに菫色の頭を目で追うその姿をみて、心の中がざわざわとした。
無性に腹が立って仕方が無かったのだ。何故だかわからない。でも、胸はズキリと小さな痛みを感じていた。
自分の袖を握っていた手を握ると、少しだけ安心できたような気がした。
ベルナデッタは不思議そうに自分を見ていたが、気付かない振りをした。

グレイグとホメロスとベルナデッタの三人はランタンの明かりを消して、ベッドの中で毛布を被り、そして目を瞑った。
三人並んで寝るのは初めてで、大人用の広いベッドとはいえ少し狭いように感じた。
グレイグは既に寝ているようだった。バンデルフォンが魔物に襲われた日からろくに睡眠はとっていないのだろう。清潔なシーツと柔らかな毛布は体を包み込んで、最高の睡眠導入剤となっているらしく、すやすやと寝息を立てていた。
そんなグレイグの寝顔を覗き見て安心したようにベルナデッタは笑うと、隣に居たホメロスの方へ体を向ける。
そしてささやくような小声で彼の名を呼んだ。
「ねえ、ホメロス」
「……なんだ?」
「精霊魔法の話、今日したでしょ?私がそんな魔法を使えるようになったら、騎士になったホメロスが居る隊に入って、ずっと一緒に居れるよね」
「ベル、動機が不純じゃないか、それ」
ふふっと笑って顔を寄せたベルナデッタは、こつんとホメロスの額と自分の額をくっつけると、ぐいっと、まるで猫が主人に自分の匂いを付ける様に擦りつけた。
目を細めて笑っていたベルナデッタの水色の瞳は、暗い部屋の中で僅かな月明かりに照らされ、深い海の様な色をしていた。鼻と鼻がくっつくくらい近い距離で、ベルナデッタの吐息がホメロスの頬を掠める。
「救いたいって私は言ったけど、一番はホメロスなんだよ。ホメロスはいつも私を助けてくれるから。だから、そんな君の力に、私はなりたいんだ」
「……ベル」
鼻先が触れた。ベルナデッタの手が毛布の中でホメロスの手を探し出して、きゅっと手を握った。手は暖かくて、小さくて、柔らかかった。
彼女の目が自分の目を覗き込むように見つめていた。深い海の様な輝きで、とても優しい眼差しだった。
「約束する。今は助けられてばかりでも、いつか必ず。私はね、ホメロス。君が困っていたり悲しんでいたりしたら嫌なんだ。だから、そんな時がきたら、絶対に助けるからね」
そう言ってベルナデッタは、もそもそと頭をホメロスの胸に埋める様にして擦り寄ると、瞼を閉じた。手は握ったままだった。
ホメロスの胸の傍で、直ぐに寝息が聞こえてきた。ベルナデッタはもう眠っているようだった。
風の音ひとつだって聞こえない、とても静かな夜だった。顔の向きはそのままで、瞳だけを動かし窓の外へ目をやれば、丁度月が雲の隙間から顔を出していた。
月は白く、空の高い位置にあるのか、三人でこの部屋で話し始めた時よりも小さくなっていた。
自分にくっついて眠る彼女の手を少し強く握り返すと、ホメロスもそっと目を閉じた。


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