或る街の群青

□図書室の天使
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春の花が咲き乱れ、城の中庭は色とりどりの花で埋め尽くされていた。
その日の空は雲一つない快晴で、春の柔らかな陽の光がデルカダール王国を優しく包み込み、誰もがその中で微睡を感じるような昼下がりに、長く伸びた金髪を項の辺りで一つ括った少年が、彼が読むには年齢に似合わない難解そうな革張りの本を抱えて城の廊下をいそいそと進んでいた。
彼、ホメロスは幼いながらも図書室に通い本を読むのが好きな少年だった。小さな体には似つかない、分厚い、5歳の子供が読むにはまだ難しいのではないかと思う本を抱えて、沢山の本を図書室で借りて読んでは数日後に返しに来る。そんなことを繰り返すうちに、城勤めするメイド達から「ベルナデッタ様と同じ本の虫ですね」などと言われるようになった。
ベルナデッタ、その名は聞いたことがあったが実際には会った事が無い。というのも、そのベルナデッタという子はこの国一番の魔法使いと賢者の間に生まれた将来有望な、王室付き魔法使いの卵だと大人たちが噂をしているのを耳にしただけ。
確か両親は半年ほど前に亡くなり、一人になった彼女は王の薦めもあり、城に引き取られたらしい。
将来有望だともて囃されているから、きっと室内で家庭教師に魔法学をみっちり叩き込まれているのだろう。部屋から出なければ会うことなど無く、それで面識がないのだと勝手に思っているのだった。
勉強ばかりしているのなら、本もたくさん読んでいるに違いない。それなら自分と同じように本の虫とメイドに呼ばれているのも頷けた。
自分と同じ渾名をつけられた顔も知らないその子が、一体どんな子なのか気になっていないと言えば嘘になる。
ホメロスのまわりに居た同世代の少年たちはあまり彼の読むような本を読まない。本が好きではない、というわけではなく、単に内容が年齢にそぐわないのだ。
だから本の虫と呼ばれるその子となら、自分の勧める本を読んでくれて、そしてその本を読んだ自分と同じような感想を抱き、例え解釈が違っても意見を交換してさらに深く物語を読み込める、そんな気がしていた。

ホメロスがそんな事を考えながらいつものように城の中の図書室へやってくると、そこにはどうやら先客が居るようだった。
埃っぽいこの図書室へ足を運ぶものは少なく、誰もいない時はカーテンが閉められているというのに、今日は戸を開けると眩しい光が窓から差し込んで、宙を舞う細かな誇りが光を浴びてキラキラと輝いていたのだ。
恐る恐る中へ入ると、同い年くらいの子供が椅子に座って本を読んでいた。
教会の印がはいった大きな帽子と、藍色をした神官見習の修道服。長い前髪で顔は半分隠れていて、これまた長い後ろ髪を両方の耳の後ろで二つに結っている女の子は、ホメロスと目が合うと驚いたように飛び上がり、まるで猟師に見つかった野兎の様に慌てた様子で読んでいた本を閉じ、サッとカーテンの中に隠れてしまった。
あまりにも俊敏な動きで呆気にとられていたホメロスだったが、そんな彼女の態度に幼いながらも妙な苛立ちを覚え、ずかずかとカーテンの傍に寄ると、丸く筒状にまとめられていたカーテンを捲り上げ、その中に蹲る少女の手を掴んで引っ張り出す。
きゃっという短い悲鳴が上がった。彼女のさらさらとした長い金髪が日の光に照らされて煌めき、チラリと長い前髪の隙間から氷の様に透き通った青い目が見えた。その目は驚きと戸惑いと焦りに揺れて今にも泣きだしそうになっていて、勢いよく手を掴んで引っ張ったホメロスは慌てて手を離す。掴んでいた小さな手は少し赤くなっていた。
「ごめん、痛い事をするつもりじゃなかったんだ」
「……」
本を両手で抱えた少女は、黙ったままだった。
もしかして声を出せないのだろうか、と考えてみるが、さっき手を引っ張った時に悲鳴を上げたのだからそれはないだろう。
彼女は俯いたままでついさっき青い目が見えたというのに、また長い前髪でお互いの間に壁を作るように視界を塞いでいた。
本を抱える手は震えていて、ホメロスは、まるで自分が悪者だと言われているような気分だった。もちろん彼には悪者になるつもりなどはなく、それでもこの女の子を怖がらせた事は事実で困ったように前髪をかき上げた時だ。
少女の持っている本が、今日自分が借りたいと数日前から目星をつけていた本だという事に気が付いたのだ。ホメロスはあっ!と叫ぶと、彼女の小さな肩を掴み興奮した様子で問いかける。
「その本、今日借りていくのか?それとも返しに来たのか?まだだとしたら、いつ読み終わるんだ?」
肩を前後に揺すりながら、「今日借りようと思っていた所なんだ!」というホメロスに彼女は黙ったままコクコクと何度も俯いた。その頷きは一体どの質問に対する肯定なのかわからなかったホメロスだが、彼女をよく見れば、少し震えているようだった。
ホメロスは彼女を怖がらせるようなことは何もしていないつもりだったが、もしかしたら彼女からすれば威圧的な物言いに聞こえたのかもしれないと思った。
そしてもう一度「今日、その本借りるの?」と、今度はゆっくり聞き取りやすい速度で質問する。
そして、彼女の、俯き過ぎて今にも頭から滑り落ちてしまいそうな帽子を、固唾を飲んで見守っていた。柔らかそうな金色の髪はホメロスの其れとよく似た色をしているというのに、まるで水の中から出てきたばかりの様に輝いていて、よっぽどつるつると滑らかな触り心地をしているのか、頭のてっぺんに乗っかっていた、教会の印の入った帽子は、俯いた少女の頭の角度に従ってどんどん滑り位置が中心からずれていく。
ホメロスが今に落ちるのではないかとはらはらと心の中で焦る中、少女の蜂蜜の様に艶やかに輝く黄金色の髪が微かに左右に揺れて、彼女が首を横に振ったことが分かった。
そして彼女の前髪カーテンの下から辛うじて見えていた唇がパクパクと金魚のように動いたかと思うと、
「……きょ!」
と大きな声を上げる。
ホメロスは思わず聞き返した。
「きょ?」
今にも泣きだしてしまいそうに震えながら本をぎゅっと抱える彼女の声は、それから随分とボリュームを下げたようで、よく耳をすませてみれば「今日、返しに来たの」と言っているようだった。しっかりと耳に届いたわけではないが、先ほど首を横に振ったのを考えればすぐに察しが付く。
ホメロス少年は自然と顔をほころばせ、読みたかった本を今日借りれるのだと心を躍らせていた。それと同時に、自分と同年代の子供が分厚い冒険譚を読んでいるという事にとても興味を抱いたのだ。そして、自分と、もう一人いるらしい小さな本の虫が頭によぎった。そう、メイド達が言っていた女の子の事だ。
ホメロスはあっと思い出し、そして、
「もしかして、君がベルナデッタなのか!?」
と気付けばそう彼女の名を呼んでいた。
自分の名を突然、見ず知らずの少年に呼ばれた少女は驚いた猫のように飛び上がり、数歩、その小さな足でよろよろと後ずさったかと思うと、カーテンの裾を踏みバランスを崩し、そして、ころりとその華奢な体を転がした。
ホメロスの目の前で繰り広げられる彼女の一人漫才のようなその出来事に、彼は呆れたように口元を緩ませて、本を手放す事無く尻餅をついた彼女の前に屈む。自分が彼女に嫌われているのではなく、ベルナデッタという少女はとても人見知りで怖がりなのだと、会ってから今の行動まで数分で彼は良く分かったのだ。
カーテンの布越しに頭をぶつけていないか確認するために、そっと彼女の小さな頭に手を伸ばし触れた。
「突然大きな声を出して悪かったよ。今ぶつけなかったか?」
ベルナデッタの顔を隠す蜂蜜色の髪で覆われた頭に瘤が出来ていないか触れながら、その小さな顔を心配そうに覗き込むと、彼はとても驚いたように目を見開く。
ホメロスの手が前髪に触れてやっと全面が露わになったその小さな顔は、その窓から差し込む陽の光できらきらと輝く金髪で覆い隠すには勿体無い程整ったものだったのだ。臆病そうに眉尻を下げた眉、長い睫毛が縁取った大きな水色の瞳は宝石の様に透き通る美しさがあった。顔の中央にちょこんと乗っかるようにある主張し過ぎない小さな鼻と、そしてさくらんぼの様に艶々とした唇。それらがバランス良く並べられていて、その相貌は教会にある壁画の天使のようだ。
「天使みたい……」
思わず考えた事が口に出てしまった。
そんなホメロスにベルナデッタは心底驚いたようにして見せると、一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、直ぐに体ごと窓の方へ向き、ホメロスに背を向けてしまう。ベルナデッタの顔を見られたことへの羞恥心はすぐさま天使と称された事への嬉しさに変わったが、いつも自分の事を根暗ベルナデッタとからかう少年たちの事を思い出し、その途端に自分の事をとても恥ずかしく思ったのだ。
人見知りで恥ずかしがり屋な彼女は人と目を合わせる事が苦手だった。少しでも距離と壁を作りたくて伸ばした前髪だったが、彼女の事を何も知らない街の少年たちは、人と話すときに震えるベルナデッタのそんな姿を見て幼い少年特有の無垢なる悪意から彼女をそう呼んでいた。
「……私は、天使なんかじゃないよ」
後ろを向いたままベルナデッタはそう言った。
しょんぼりと項垂れてはいるが、その声は今までの彼女の声のトーンからは想像がつかない程はっきりとしている。
「私は本ばかり読んでる根暗で、人と目も合わせられない臆病者……。天使みたいにきらきらした所なんて、ひとつも無いんだよ」
静かな図書室に、ベルナデッタのひとりごとの様な寂しい声が静かに響いた。
図書室のほんの少しだけ開いた窓から風が入り込み、ベルナデッタの長い髪をさらさらと靡かせる。陽の光が艶やかな髪に反射してきらきらと輝いていた。
「僕にはきらきらして見えるよ。君の目も髪も。本ばかり読むヤツが根暗だって言うんなら、僕だって君と同じだ。本が好きで、いつも読んでる」
「私と君が同じ……?全然違うよ。だって、私は目を合わせると急に話せなくなっちゃうから、君みたいに、相手の目を見て話せない。恥ずかしくて緊張しちゃうんだよ……」
「だったら友達と向き合ってたくさんお喋りすればいいじゃないか。君、友達は?……あ、君、泣いてるのか?ごめん。察しが悪い奴で悪かったよ。悪いと思っているから、泣くのをやめてくれ」
急に震えてえっぐえっぐと声を上げて泣き出したベルナデッタの背をさすりながら、ホメロスは呆れたように笑った。そして、
「じゃあ、僕が今日から友達になるよ」
と言って、ゆっくりベルナデッタの横を通り彼女の目の前に立つと手を差し出す。
「ねえ、知ってる?君も僕も、城にいるメイド達に同じ渾名で呼ばれてるって」
ベルナデッタはほんの少し顔を上げた。
「……メイドさんから聞いたことあるよ。騎士の息子に本が好きな子がいるって。君が、私とは別の本の虫なの?」
伸びた前髪の隙間から覗く透き通るような水色の瞳はまだ涙で濡れてはいたが、とても嬉しそうに輝いていた。
ホメロスの差し出した手に恐る恐る自分の小さな手を重ね、ゆっくり握る。ベルナデッタの手はまるで本当にこれが現実であるか確かめるように力強くぎゅっと握っていた。
「……ベルナデッタ。私の名前、さっき君が聞いた名前であってるよ」
「僕はホメロス。君と同じ本の虫で、君の言った通り騎士の息子さ」
またふわりと風が吹いた。カーテンを揺らし、ホメロスとベルナデッタの長い髪を靡かせる。
ホメロスは先ほどベルナデッタに友達がいないとわかった時、実は心底安心していた。なぜなら、自分にも友達と呼べるほど仲のいい子はいなかったのだ。
彼女の手を握っていると何処からともなく温かさが体中を満たしてくれるような気がした。きっとこれが友達というものなのだろうか、それともベルナデッタの体温が伝わって温かく感じているのか、ホメロスには実の所良く分からなかったが、それでもこの初めての友達の隣はとても居心地がいいと感じたのだった。


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