或る街の群青

□追悼
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ホメロスは玉座の間へ早足に向かっていた。
ベルナデッタが言っていた言葉を信じていた彼は、彼女の死に対し憤る気持ちを抑えながらも、冷静さを装い廊下を進んでいく。
いつでも剣を抜く心の準備は出来ていた。ベルナデッタがこの国を愛したように、彼もまた同じ気持ちでこの国に仕えていたのだ。今の彼には偽物の王を討つ事が国の為であり自分の為であると思っていた。
夜の城は妙に冷たい空気に満ちていて、どこかピリピリと張りつめたような空気を感じる。
そんな夜も更けたこの時間は城外の警備は固いものの、中は手薄であり、この時までホメロスは王と顔を合わせ話すのを待っていた。その甲斐あってか、廊下を曲がる度に顔を合わせた兵士はたったの二人。
もし王と戦闘になって駆け付けたとしても伸す事は容易いだろう。
ホメロスは扉に指先だけを触れさせた。中に、ベルナデッタが言っていた、あの禍々しい気を纏った王が居る。そう考えただけでも扉越しに感じる気は恐ろしく重たい空気を孕んでいる様な気がした。
指先が震えた。迷うな。そう自分に一喝し体重に任せて戸を押し開ける。
戸を開け放ち、真っすぐ視線を向ければ玉座に座った王がまるですべてを悟ったかのような冷たい目でホメロスを見ていた。
必要最低限の明かりだけが灯された玉座の間で、王は口髭を撫でながら「全く、やっとあの娘が消えたと思ったら、次はお前か。ホメロスよ」と腰かけたままそう言い放つ。
明かりがあるとはいえ薄暗い玉座でさも迷惑そうに呆れた溜息を吐いたデルカダール王は、少し苛ついているのか、肘置きに置いた指先でコツコツと爪先を鳴らし、鋭い眼光でホメロスをにらみつけた。
ホメロスはそんな様子の王を睨み返す。
そんなホメロスにデルカダール王は喉を鳴らすように笑った。
「我に剣を向けるか?大切な者の命と引き換えに生かされただけの哀れな男が随分と笑わせてくれる」
「黙れ。貴様の戯言に耳を傾ける私ではない」
勢いよく剣を抜きホメロスは王へ向かって駆け出すが、振りかざした剣は王には当たらない。偽王の周りには何らかの結界が張られているのか、剣は透明な壁にぶつかったかのように柄を握った手にびりびりと振動を伝え、手の感覚を痺れさせた。
物理攻撃が利かないのならと、ドルマを唱えるがその壁の前では何もかも掻き消されてしまうらしい。放ったドルマは消え失せ、そして其れは一度壁に吸収されたというのに更に大きな塊となってホメロスに目掛けて返って来るではないか。
黒き闇の力はホメロスの体に強大一撃を与えるが、彼は膝を床に付けなかった。彼にはまだ戦う意思があった。
王は座ったままそんな彼を見据え、そして嘲笑うかのように口の端を上げて話し始める。
「…弱いな。剣の腕はグレイグ以下、魔法はベルナデッタ以下ではないか。何故あの娘はお前なんぞを庇って死んだのだろうな」
その言葉に、ホメロスはベルナデッタの最後に見せた顔を思い出した。「無事でよかった」と笑って言った、彼女の心底安心したような、自分の事よりもホメロスを優先した優しい彼女の最後の笑みを。
偽王は続けて話す。
「平和の象徴であったあの聖女が、命を投げうってでも守るだけの価値がお前にあるか?」
王はゆっくりとした動作で玉座から立ち上がった。そして焦らす様に態と回りくどい言い方をした。
「弱いお前に何の価値もない。だが、弱いからこそお前は守られたのだ。自分よりも強いものの手によって、大事にされて生きてきた。だから今此処に、地面に足をつけて生きているのだ。人とは元来、弱い立場の者に優しくする生き物であるからな」
広い玉座の間に、偽王の足音とまるで演説でもするかのような耳に付く話し方が響く。
ホメロスが黙れと叫ぶが、偽王は黙らずに話し続けた。
「神に愛されたあの娘が死んだのは何故だ?我が兵士たちに殺せと命じたからか?違うな。神があの娘を見離したからか?いや、これも違う…。正解は、お前にあの娘を守れるだけの力が無かったから、だ。最後まで傍に居たのはお前だというじゃないか。しかも旅立ちの祠を目の前にしてお前の元へ戻り、庇い、死んだ。お前に力があればあの聖女は死ななかった。違うか?」
ホメロスは唇を噛んで得意になって話す偽王を睨みつけたままでいるが、その顔にはもう覇気は薄れていた。
偽王の言うとおり、グレイグよりも劣った剣の腕、ベルナデッタよりもちっぽけな魔力は彼の中で大きな劣等感でもあった。埋められない体格差、生まれながらに備わった魔力の才、そして何よりも真っすぐに未来を見据えてその才能を生かす彼らの隣に立つことは、いつしか彼の中で自分の価値を低いものとして見てしまう材料になっていた。力と魔力でかなわないのならと、参謀としての知識を蓄え、効率的に隊を動かす術を身につけたものの、英雄と呼ばれたグレイグと聖女と呼ばれたベルナデッタの隣に立つのはとても気が引けた。
周りがいくら自分を軍師と褒め称えようとも、自分には価値なんて殆ど無いと決めつけるようになっていたのだ。
強く噛みしめた唇が切れて口の中に血が滲んできたのか、口内は鉄錆の様な鼻突く臭いが充満する。
悔しかった。この偽王の言う事はすべて本当の事だとホメロスは思った。
目の前で彼女が落ちて行くのを見た時、何もできない自分を恥ずかしく思った。
きっとグレイグなら、彼女を抱きとめて自らも海の中へ落ちて行って、運が良ければ2人とも岸までなんとかたどり着いた可能性だってあったかもしれない。
自分にそこまでできる程の勇気ととっさの行動力が無かった。大切に想っている女一人ですら守れない、共に命を投げだそうとも考えないどうしようもない臆病者だった。
ホメロスは黙ったまま何も答えられない様子で、辛うじて構えていた剣が手を滑り落ちて床を跳ね、そして静かになる。
偽王は嗤った。
そして、
「……力が欲しくはないか?」
と言った。
「世界は残酷だ。世界はあの聖女を見離した。我の命令で動く兵士たちを見ただろう?あれ程までに彼女の魔力の恩恵にあやかったというのに、彼女の言葉を信じない者ばかりで、それどころか命を狙い、過程はどうあれ結果的には死で追い込んだ。国民には名誉ある死だと告げたが、王を殺そうとした反逆者だと伝えれば、きっとあの時の兵士たちと同じ目で彼女を見たのだろうな」
目を伏せ俯くホメロスをまるで憐れむような口調で諭す。
「力を手にして、グレイグよりも上を目指そう。強くなって奴を見下せばいい。そしてあの娘が救いたいと願った、裏切る事しかしないこんな世界を、変えたいと思わぬか?」
偽王はホメロスの一つに結わえた長い髪を引き、顔を上げさせると、光を失くした彼の瞳を覗き込むように顔を近づけ、悪魔の様な笑みを口元に浮かべて歯を見せながら笑っていた。
ホメロスは焦燥しきっていた。虚ろな目は分別が付かなくなっているのか、ただ偽王を見上げていた。掠れた声が喉から絞り出されるようにホメロスの口から紡がれる。
「……お前は、一体何者なんだ」
彼にはもう敵意はなかった。
力の差に絶望したことも、偽王の言葉がすべて本当だと思った事も、力が欲しいと思った事も、それらの要因がすべて重なり彼の戦う意思を消し去ったのだ。
偽王は自らを魔王ウルノーガと名乗った。
手駒になれ、そうすれば力を与えてやろう、とウルノーガは言った。

ホメロスは自室に戻ると寝台に倒れ込むようにして横たわった。手が震えていた。自分の力では何をしてもかなわない相手がこの城内に居て、その者は魔王であり、この世界を変えようとしている。
そして自分は、力を得るためにそんな魔王の手駒になってしまった。
今日ベルナデッタの墓の前でグレイグに言った言葉は紛れもなく言葉通りの意味で言ったつもりだった。グレイグは違う意味でとらえたようだったが、あの恐ろしい言葉は本心だ。
ベルナデッタを見殺しにしたこの世界は、救われる価値などない。そう本気で思った。
それを思い出し、なんだ、自分には悪の手先になる負の感情がこんなにもあるじゃないか、と心の中の自分に話しかける。
ベルナデッタが自分を庇って矢に当たり海へ落ちて行くのをみたあの弓兵は、すべて包み隠さず他の兵にも彼女が心優しい聖女様のままだったと話したらしく、皆口々に彼女を憐れんでいた。可哀想に、きっと魔物に洗脳されて辛かっただろう、途中で意識を取り戻し瘴気に戻ったのだ、と。
何と都合のいい解釈なのだろうか。
洗脳されているのならベルナデッタが兵を一掃する全体魔法を唱えるなど簡単な事だというのに、それをしなかったことを何も考えていない彼らが可笑しくて仕方が無かった。
強い者の手によって生かされているとは、魔王も上手い事を云ったものだ。あの兵士たちが今生きていられるのは、ベルナデッタが本気で戦わなかったからなのだ。生かすも殺すも、彼女次第だった。
仕える主君はいつの間にか魔王とすり替わって世界を滅亡へと導く手筈を整えようとしている。すべてが消えてなくなる直前、それを知った彼らは一体どんな顔をするのだろうか。
自然と笑い声が込み上げてきた。聞きなれた筈の自分の声だというのに、感情の消えた、冷たい声のように聞こえた。
その時、部屋の中でパサリと何かが落ちる乾いた音が聞こえた。上半身を起こして音のした方向、自分の机に目を向けると一輪挿しに飾られていた薔薇が枯れ果てて花弁を散らしているようだった。
ガラスの細い一輪挿しには既に水は入っておらず、机には何枚もの花弁が落ちで赤かったはずの其れは黒く変色している。
自分には花を愛でる習慣が無く、いつもこうして机に花を置き、水を換えるのはベルナデッタがしてくれていた。本棚ばかりの部屋に「お花が一輪でもあると気分が変わるよ」と言って持ってくるようになったのは、彼女が神官として役職を与えられた時からだった。
ベルナデッタが花を持ってきたと言ってこの部屋を訪れたのは彼是先週の頭の事で、最後に水を換えたのは恐らく四日前、ベルナデッタが死んだ前日だろう。
花瓶からカサカサに乾いた茎を指先でつまみ持ち上げると、また一枚花弁が落ちていき、机の上にある枚数を増やした。
彼女に「気分が変わるよ」と言われてから断る理由もなく、この数年ずっと彼女の好きなようにさせていたが、思えばこの一年全く花に目を向けていなかった。
今回は薔薇だった、その前はどんな花だったのかを思い出せない。
当たり前の日常になりつつあったこのことが、突然これから先無くなってしまうのかと思うと、なんてもったいない事をしたのだろうと今更後悔の念が襲い掛かる。
ベルナデッタが花を持ってき始めた時それがとても嬉しくて、本を読むために椅子に腰かけたというのにいつの間にか花を見て、彼女が何を思ってこの花を選んだのかと心を躍らせて居た。すでにその時の気持ちを失くしていた自分は、関心をなくすのと同時に貴重な彼女との思い出を作る意志さえ失くしていたのだ。
ホメロスは机の引き出しを開き中から白紙の便箋を一枚取り出すと、花弁を一枚ずつ丁寧につまみ、紙の上に並べ始める。赤黒い、シワシワに乾いたそれらを、せめて残しておこうと思ったのだ。
もうこの部屋に花を持ってくる女は居ない。これが最後の花だったのだと思うと、そのまま捨ててしまうのは、彼女を想う自分の気持ちが許さないと思った。
花弁を並べながら、ホメロスは思い出していた。
地面に付く程に長い見事な蜂蜜色の艶やかな髪を揺らしながら、年齢よりもずっとあどけない顔をして笑う彼女に初めて会った日の事を。それは、遠い昔、物心がつくかつかないか、そのくらいまで遡らなければならない。

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