或る街の群青

□聖女が死んだ日
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ホメロスはベルナデッタの手を取り兵士たちの間を縫うように断崖すれすれを駆けていた。振りかざされる剣を受け流しながら握っていた彼女の手は、本来なら子供の様に暖かな温度で保たれている筈だというのに、今降り注ぐ雨とそう変わらないほど冷たくなっていた。握った手から震えが伝わる。デルカダールからここまで走っていた彼女の体力は限界に近いのか、足を縺れさせながら半ば引きずられるようにしてホメロスのすこし後を走っていた。
粗方の兵士たちを撒いたところで林に入り身を隠すと、木の幹に背を預け寄りかかる。荒くなった息を肩で慣らしながら深呼吸をし、剣を鞘に戻すと左手で握った彼女の小さな手を両手で包んだ。
「…ホメロス、ごめんね」
「謝るくらいならあんな事を言わなければ良かっただろう。言えば敵意を向けられる事はお前にだって分かっていたはずだ」
ホメロスのその冷たい言葉からは想像できない程、彼の手は優しく彼女の小さな肩を抱き寄せて自分の胸に押さえつけるように引き寄せると、雨風乱された小さな頭に手を回し掻き撫でながら、自分の体温を分け与えるように一層強く抱きしめた。
木の下だというのに雨宿りにならない程の土砂降りの中、腕の中の小さな体は震えたままだった。しかし暴れることなく大人しく腕の中に納まり、飼い猫が甘えて擦り寄るように小さな額を彼の胸に付けてぽつりぽつりと静かに話し始める。
「国王陛下はユグノアの事件からずっとおかしかったんだよ。王の纏う空気が苦しくて、精霊がみんな怖がっていた…。あの偽物が自分の力を抑えて王になりすまし隠していたって、いつも聡明でお優しい陛下の周りに居た精霊たちのどの子も、今の王に近寄れないくらい瘴気が滲み出ているんだ」
兵服にちいさな顔を押し付け、嗚咽を漏らし、しゃくりあげながらゆっくりと話し続ける。
「私はこの国を愛してる。父様と母様が命を捨てて守ろうとしたこの国を、人々を、救いたい。ううん、この国だけじゃない、この世界、ロトゼタシアの誰一人、無駄に奪われてもいい命なんてあっては駄目なんだよ」
かつてこの国で聖女と呼ばれた博愛に満ちた彼女らしい言葉には、何一つ偽りなど無く、それは彼女の願いであり、そして望む世界の理想でもあった。
今ホメロスの目の前にいるのは、人々から聖女と呼ばれたデルカダールの神官でも、かつてデルカダールの大賢者と呼ばれた両親の血を引く才女でもなく、泣き虫な幼馴染の女の子であり、彼にとっては誰よりも守りたいと思える存在なのだ。物心ついたころには既に隣に居たそんな彼女がこんな嘘をすらすらと吐ける器用な人間ではないことを知っている。ベルナデッタの話に偽りは一つもない。そうホメロスは信じている。
彼女の目に見えている精霊とは、世界の五大要素、火、水、風、地、雷にまつわる妖精たちであり、ベルナデッタは魔法を唱える前に詠唱をすることで彼らの力を借りて魔力の消費を抑えながら最大出力の魔法を使う事が出来るのだ。それはこのロトゼタシアの長い歴史の中でも精霊を可視し使役する事が出来た賢者は千年に一人といわれてる。
そんな精霊たちがデルカダール王に怯えているとなれば王に何らかの異変が起きていることに間違いないだろう。
ホメロスはベルナデッタの震える華奢な肩を抱いたまま「お前を絶対に殺させはしない」と言って乱れた髪に口付けると、少しだけ温かさを取り戻した小さな手を引いて林の中を進み始めた。

嵐は更に酷く雨風を吹かせ、ベルナデッタの小さな体は今にも吹き飛ばされてしまいそうだった。
ベルナデッタがデルカダール王国を正門から抜け出て南西へ進んだため、この辺りにはデルカダール神殿と旅立ちの祠くらいしかない。定期船が留まる港も無ければ村一つだってない場所だった。消去法で旅立ちの祠から逃げる選択肢しか彼女には残されていなかった。
暗雲が覆いつくす空の下、山の合間を抜けると木々は見当たらなくなり平原が姿を現した。木々の間から辺りの様子を伺うと、石橋に数名の兵士。旅立ちの祠へ向かうにはあまりに壁になる障害物の数が少なく、身を隠せるような場所は見当たらない。
兵士たちは馬鹿ではない。おそらく運良く祠にたどり着いたとしてもその近辺にも見張りを置いているはずだ。
此処からはまた駆けて進まなければいけない、そう小声でベルナデッタに伝えると彼女は小さく頷いて握っていたホメロスの手に力を込めた。頑張れる、まだ走れるよ。とでもいうように。
そして2人は同時に木陰から駆け出した。
草原を駆け抜け一目散に旅立ちの祠へ向かって走った。
後方から「居たぞ!捕らえろ!」と兵士たちの声が聞こえてくるが、そんなものに構っていられるような余裕はない。強い風になぎ倒されてしまいそうになるのを必死に体を傾けて抵抗しながら前へと進む。後方から追いかけてくる馬の蹄の音が近い。心臓の音が五月蠅く鳴り響きながら体中へ酸素を巡らせていた。緊張と恐怖からホメロスの手を握るベルナデッタの手の力が強くなる。手袋越しに彼女の鼓動が聞こえてくるような気がした。
段々と姿を現してきた広い海は荒れていた。黒く渦巻いて怒り狂うかの如く激しい波が幾度も重なり海水を泡立てている。
二人は走った。祠を目指して足を止めることなく駆けて行く。ベルナデッタを狙って放たれた弓が足元や肩に当たりそうになっても後ろを振り返らなかった。
いつの間にか嵐の獣が唸るような風の音など気にならない程、自分たちの心臓の音だけが世界を支配していた。それだけ必死に生きようとしていたのだ。
ベルナデッタが水溜りに足を取られそうになる度に、ホメロスが腕を引き小さな体が倒れそうになるのを立て直させた。彼女を今此処で殺されてなるものかと、必死だった。
段々祠が近づきその姿が大きくなっていく。
もう少し、もう少しだと、足に込める力が強くなっていた。
ホメロスは背に背負った剣を抜いた。金属の擦れる音がして柄を握りしめて祠の陰から飛び出した兵士を睨み付ける。
重装兵は大剣を振り翳し、軽装兵は剣を握りし二人目掛けて駆け出した。
グレイグに庇われてから此処へたどり着くまでずっと握っていた手を、この時になってやっと離す。名残惜しいと思った。それでも、彼女が生きてさえいてくれるのならば、そう願って離した手で、ベルナデッタの華奢な肩を祠に向かって押し出し、自らは兵士たちの中へと剣を振り飛び込んだ。
派手な金属音が一瞬で何度も鳴り響き、数名の軽装兵の剣を薙ぎ飛ばしながら重装兵の背後に回り込み、柄をがら空きの広い背中に叩き付ける。
吠える様な声を上げながら襲い掛かる兵士の攻撃を剣で去なし、彼女の逃げる隙を作る事に徹した。
「何をしている!早く逃げろ!扉はお前の持っている杖でも開くはずだ!」
扉の前で足を止めてホメロスの様子を泣き出しそうな顔でベルナデッタはみていた。いやだと言うように首をふるふると振りながら彼を見る姿に、ホメロスは続けて言う。
「…ベルナデッタ、お前が救いたいと願う中に、オレはいるのか?」
くしゃくしゃに顔を歪めて泣き出す彼女の顔が見えて、嗚咽だらけで声もひっくり返ってはいるが、確かに聞きなれた彼女の声は「当たり前だよ!」と言った。その言葉にホメロスは口の端をすこしだけ上げてフッと笑う。
「だったら、まだ、救われるのは当分先でいい!今は…、オレ一人で手は足りる!」
重装兵の振り下ろした大剣を剣で受け止めると雨で柔らかくぬかるんだ地面は踏ん張りが利かず少し後ろへ押されるように滑る。すかさず隙を与えないような素早さで大剣を何度も押し返し重装兵の鳩尾に肘を捻じ込むと、背後に回り込んできていた軽装兵の手を柄で叩き剣を地面へ叩き落した。
ベルナデッタは無下に奪われていい命なんてないといった。だったら自分は彼女の目の前で斬りかかって来るとはいえ命を奪うわけにはいかない。彼女が其処に居る間だけは、せめてそんな自分でありたいとホメロスは思ったのだ。
床に倒れ込んだ重装兵と、手を痺れさせ剣が握れない軽装兵が3人。あと一人居たはずだと辺りを見回すと視界の端にベルナデッタが扉に手をかけるのが見える。
彼女の近くには兵士の姿はなく、ホメロスは安堵したように一息吐くと、たった今その扉に手をかけていた筈のベルナデッタが必死な様子でこちらへ駆けて来るのが見えた。
荒波が橋に掛かる中、小さな手をホメロスへと伸ばし、腕を思いっきり引っ張り弧を描くように遠心力を使ってホメロスを振り飛ばす。自分と共に逃げようとしなかった自分に対して腹を立てたのかと一瞬思ったが、地面に尻餅をついた時に見えた彼女の腹には矢が深く突き刺さっていた。
彼女が今立って居るのは、先ほど振り飛ばされるまでホメロス自身が立って居た場所だった。
風が強く吹いた。ベルナデッタが着ていた外套は突風に煽られ留め具が外れたのか空高く舞上がり、濡れて体に張り付いた真っ白だった筈の祭服のスカートがどんどん赤く染まっていくのが見えた。
よろける様に数歩後ろに下がった彼女はそのまま波が化け物の様にうねりを上げる真っ黒な海へと、吸い込まれるように体を倒していく。
断崖から吹き上げた風が波の飛沫を空中へと飛ばしていた。
倒れ込んでいたホメロスは慌てて地面を蹴り、ベルナデッタの子供の様な小さな手を取ろうと自らの手を伸ばすが、彼女の身の丈程ある髪の先に触れるのがやっとで、そんな髪さえも指の間をすり抜けていく。
一瞬の出来事のはずなのに、それは走馬燈のようにゆっくりとした映像で流されているようだった。風に吹きあげられた髪も、祭服のスカートの裾も、そこから見えた青白い脚も、まるで長い時間をかけてホメロスを苦しめるようとするかのように。
落ちていく彼女と目が合った。眉尻を下げて目を細めてホメロスを見ていた。長い睫毛は雨なのか涙なのか分からない雫で濡れていた。いつもは礼拝堂で聖書を読み上げる淡い色をした小さな唇は血の気をなくし真っ白になっていた。それなのに彼女は、ホメロスと目が合ったとわかると、目を弓なりに細めて、色を失くした唇に弧を描き、安心したように笑ったのだった。
「無事で良かった」と、そう聞こえた。
小さな体は真っすぐに落ちて行き、そして激しく断崖へ打ち付ける波と波の間へ。そして、あの輝く蜂蜜色をした髪と白に赤い血の滲んだ祭服は見えなくなった。
ホメロスがゆっくりと矢の飛んできた方向を見ると、自分があと一人居たはずだと思って探していた弓兵が其処に居た。彼は絶望した顔で目を見開き、ボウガンを構えたままそこで立ち尽くしていた。手は震えている。
ホメロスは力なく立ち上がり、弓兵の元へ歩き始めた。
ホメロスにはわからなかった。何故この弓兵がそんな顔をしているのか。自分で彼女を射って置きながら、まるで被害者の様にしてそこに立って居るのが許せなかった。
弓兵の胸倉を掴み、目を見開いたまま涙を流すその顔に思いっきり拳を叩き付ける。拳は頬にめり込み、骨のズレた音がした。口内を歯で傷付け切ったのか、それとも舌を噛んだのか、口から血が流れだす。彼が咳き込んだ拍子に赤に塗れた其処から、ころりと歯が落ちてきてた。
弓兵は泣きながら「聖女様、聖女様」と海に落ちた女の事を呼んでいた。
ホメロスを庇って矢に射られ、安心したように落ちて行った彼女を、悪の手先でもなく、洗脳された女とも呼ばずに。

その日、嵐はやむことはなかった。
ホメロスとグレイグは拘束され城に戻された。
王に処刑でも言い渡されると思っていた二人に下されたのは、たった3日の投獄とわずかな減給だけだった。
デルカダール王国の国民達には、聖女は悪者に洗脳されていたが、わずかな理性で最善の選択として海に身を投げて洗脳した魔物と相打ちとなり死んだと告げられた。
それは真実ではない。だが、国民から絶大な支持を得ていた彼女が、たとえ洗脳されていたとしても、兵士に追われ味方になってくれた友人を矢から庇い死んだとなれば、国民は怒りに震えただろう。
更生の余地はあったはずだとか、処刑はやり過ぎだとか、文句が飛んでくることは目に見えていた。
王国の立場を守るための方便は瞬く間に国中に広がり、聖女の死を悼む者達で溢れて行った。
二人が牢から出されたころには、ベルナデッタの葬式はすでに終わっていて、彼女が何時も聖書を片手に通っていた礼拝堂の傍の墓地に墓が建てられていた。
ホメロスとグレイグが来る頃には、白い真新しい其れには溢れんばかりに色とりどりの花が添えられていて、その墓石の下には彼女の体は眠っていないというのに、ああ、彼女は死んでしまったのかと、やっと実感が湧いた。
「グレイグ。ベルナデッタは、俺を助けて死んだんだ。この国を愛してるって、人々を救いたいんだと言って」
グレイグは拳を握りしめて眉を寄せたまま、花に囲まれた白い墓石を見つめていた。
「…この世界は、ベルナデッタを殺した。救ってくれる者を見殺しにしたこんな世界に、救われる価値はあると思うか」
グレイグにそんなホメロスの言葉はまるで「自分には本当は救われるような価値なんて何一つなかったのになぜ生きて此処に立って居るのだろうか」と言っているように聞こえた。
「…それは、お前が決める事ではない。神の決める事だ」
そう答えるのがグレイグにはやっとだった。
つい三日前の嵐が嘘のように、この国の上空には透き通るような空が広がっていて、雲一つない。
俯いたまま虚ろな目で墓石を見つめるホメロスの髪を、不意に風が吹き上げ、そして供えられた花たちを揺らし花弁を巻き上げながら飛ばしていった。

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