或る街の群青

□聖女が死んだ日
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囂々と強く吹く風が土砂降りの雨を吹き飛ばし、横殴りにされた大きな雨粒たちは太陽を遮る分厚い暗雲を頭上に据え、このデルカダールの地に降り注いでいた。鉛色をした空は引っ切り無しに雷を走らせ、体中を震わせるような恐ろしい雷鳴が響き鼓膜を揺らした。
デルカダール王国はかつて無い程に騒然としていた。
城内は慌ただしく人々が行き交い、皆は口々にとある女の名を口にしているようだった。
先日ユグノアで恐ろしい事件が起きたばかりで、城内に居る人々はこのデルカダールで起こった事件に敏感すぎる程恐怖を感じていた。
多くの兵が反逆者を捕らえるために装備を厳重に整え場外へと駆り出され、城から城下町、そしてさらにその先の領地へと馬を走らせていた。
兵士たちは今から自分たちが捕らえようとしている女が本当に反逆者なのかと、にわかには信じられない様子で、誰もが不安を表に出すように彼らの表情は今日の空模様のように暗く、そして緊張に満ちていた。
反逆者を捕らえて殺せと王は言ったが、その女が反逆を侵す者からは最も遠い人物であることを彼らは知っていたのだ。
小柄な彼女はいつも礼拝堂で祈りをささげていて、誰よりも神への信仰心が深く、そして慈悲深く、白百合の花の様に愛らしい小さな顔に微笑みをたたえていた。城で廃棄されるパンを何往復もしてスラム街へ持ち込みパン粥を作りふるまうような女だった。戦地へ赴き、怪我をした兵が居れば自らの体力の限界値を超えて倒れ込むまで回復魔法を唱えて傷を癒す女だった。無邪気に笑う姿を妖精と称する者もいれば、戦地で敵を一掃する極大魔法を唱える姿を勝利の女神を謳う者もいた。そしていつも聖書を抱え白い祭服に袖を通し神の教えを説く彼女を、誰もが尊敬の思いを込めて「聖女様」と呼んでいた。そう先刻まで、彼女はこの国の聖女だったのだ。
街の者はまだ誰もこの騒ぎを知らない。大方、先日ユグノアで起きた事件から王が派遣した兵団だと思っているのだろう。土砂降りの中派遣された兵士たちに激励を飛ばす者や、果物を兵士たちに手渡す者が居るのを見れば、城から反逆者が逃げ出したとは夢にも思っていないようだった。
兵士たちは震える手で手綱を握り、聖女と呼ばれた女を探し捕らえるため、昼間だというのに恐ろしい程に薄暗い草原へと馬を走らせた。



巨大な嵐が作り出す強風は視界を白く濁している為か、兵団の進む速度は普段よりも随分と遅く、雨でぬかるんだ地面を駆ける馬達は走り難そうに蹄を水溜りに漬けていた。反逆者の捜索が難航する中、そんな隊の先頭からさらにその先にホメロスとグレイグは居た。
兵たちの追う女は彼らが幼い頃から知る、同じ年の娘でそして気の置けない友だったこともあり、隊長の制止に耳を傾けず隊を乱し離脱してここまで来たのだ。
絶えず降り注ぐ強い雨風は、分厚い兵装越しにも容赦なく体温を奪っていくらしく、お互い青白い顔をして馬を走らせる。
ホメロスの項辺りで一つにまとめられた長い髪が雨に濡れ、乾いている時の其れよりも濃い色をして濃紺の兵服に張り付いていた。長い前髪も頬に張り付き、彼は時折鬱陶しそうに手で払っていた。
「…なあ、ホメロスよ。本当にベルナデッタが王を殺そうとしたと思うか」
グレイグは雨と強風で乱れ始めていた菫色の髪を気にすることなく、視線を真っすぐ馬を走らせた進行方向のその先に向けたままでホメロスに言った。
「王に向かって攻撃魔法を唱えようとしたのを見たと言うものは居たが、どういった経緯でそんな事を仕出かしたのかは誰もわからないらしいのだ。あのベルナデッタが意味もなく王を攻撃するとは俺には到底思えん」
グレイグは幼少の頃にデルカダールへやってきて以来、ホメロスとベルナデッタと3人で共に過ごすことが多かった。
人見知りをする彼女が自ら誰かに話しかけることは絶対に無かったというのに、グレイグの境遇を早くに両親を亡くした自分と重ねたのか、初対面だったグレイグに初めて自分から話しかけたのだと当時のホメロスに聞かされた事がきっかけで、親しくなったのだ。
思いやりのある彼女が意味のない攻撃をする筈が無く、ましてや両親を亡くしてからは王に引き取られ父のように慕っていたのだから攻撃の意思を持つという事さえあり得ない。だが、現実に彼女が王に向かって攻撃魔法の詠唱を行おうとしたという証言があり、王が自らの命の危険を感じ反逆者として処せと命じたからには、兵である彼らが行動を起こさないわけにはいかなかったのだ。
だがホメロスもグレイグの二人には、彼女を殺すなどという事は到底考えられなかった。
ホメロスは黙ったままだったが、グレイグと同じくベルナデッタが反逆者になり下がるなど考えられないようで、言葉として出す代わりに手綱を握る手に力を籠め馬の足を加速させた。

馬を走らせること数分、濁る視界の中から黒いフード付きの外套を着込んだ小さな後姿が視界に入ったグレイグが思わず大声で彼女の名を呼び、足を止めるように言葉をかけた。
ざあざあと大粒の雨が五月蠅く雑音を立てるが、彼女にその声が届いたらしく走る足を止めて恐る恐るといったようにゆっくり振り返る。
フードを深く被っている為表情は伺えないが、ずっと走ってここまで来たのか大きく肩を上下させながら時折咳き込むようにして震えていた。こんな雨の中でびしょ濡れの外套だけでは体は冷えているのだろう、ほんの僅かな隙間から見えた彼女の頬は血の気をなくし真っ白になっていた。そんな彼女を心配している様子のグレイグは、馬に乗ったまま彼女へ手を差し出し「嵐はまだこれから酷くなるらしい。お前の話は聞く。ひどい顔色だな。一度城に戻って暖かい部屋で暖をとるべきだ」と声をかけるが、彼女は手を取らなかった。
フードを取る事もせず、一言だけそこに立ったまま「それは出来ないよ」と口にした。
雨脚は強くなっていた。突風が吹き荒れ、デルカダール領地の端であるこの土地は海に面していて時折雨粒に混じり高波から飛ばされた塩水が頬を濡らす。
「王に魔法攻撃を唱えようとしたことなら何か理由があるのだろう?それを教えてくれさえすれば……」
グレイグの言葉はそこから先を紡ぐことはなかった。
俯いたままだったベルナデッタが突然顔を上げ、長い睫毛に縁どられた色素の薄い大きな水色の瞳が戸惑いと恐怖に揺れたのだ。そしてグレイグの差し出した手の横すれすれをすり抜けベルナデッタの足元へとヒュンという短い風を切る音と共に矢が深く突き刺さる。
後方から遅れてやってきた兵団が到着したのだ。
隊長である先輩の兵士が「居たぞ!捕らえろ!」と声を荒げてベルナデッタに剣を向けたのと同時に、標的とされた彼女は脱兎の如く走り出した。
強い風が吹いてフードがめくれ上がり、蜂蜜の様に輝く金髪が外套から溢れ出すと、雨風に乱されながら上げ敷く巻き上げられる。
まるで子供の様に小さな彼女の背中を追う兵士たちは馬に乗ったまま弓を引き絞り、その長い金髪で見え隠れする薄い体に狙いを定めていた。皆、自らの感情を押し殺すかのように苦しそうに顔を歪めていて、心の中では彼女を殺す事への躊躇いが見て取れる。手は震えていた。グレイグが馬を走らせて隊長に並走し攻撃をやめるように説得を試みるが王の勅命であるが故に皆一様に攻撃の手を止めようとしなかった。
ベルナデッタの逃げる方向には断崖しかなく、追い詰められてしまうことは容易に予測が出来たが、彼女は弓兵の攻撃をよける為の必要最低限の魔法しか使わず、まるで攻撃の意思が感じられない。その気になれば極大魔法で兵団を一掃することだって彼女には可能だというのに、罪人の名を負わされ追われても彼らを傷付ける事は一切しなかった。
兵士たちもそれに気づいているようで、弓を握る手を震わせながら涙を流す者もいた。彼女は彼らと共に戦地へ赴き、回復魔法要員、全体魔法攻撃要員として共に戦う事もあったのだ。遠征の旅の途中に手当てをしてもらった者もいれば、彼女の攻撃魔法で手助けをしてもらった者もいるのだろう。何かしら思い入れがあったとしても不思議ではない。
そんなベルナデッタに攻撃をする誰もが、本当に彼女は反逆を犯し、王を攻撃しようとしたのかと信じられない気持ちを胸に抱えていた。国の為に聖職者として礼拝堂で過ごす姿を皆は知っているのだ。出来る事なら手をかける事はしたくないのだというように、断崖に追い詰められたベルナデッタに向かって隊長が「降伏してはくれないか」と問いかけた。
ベルナデッタの背後に聳える海は黒く、まるで化け物の様な動きをしていて、不規則な強風に揉まれ荒波を激しく揺さぶられていた。
暗雲の中で雷鳴がけたたましく音を立て、真昼だというのに薄暗い視界をチカチカと眩しく照らしていた。
フードが取れたばかりの時はまだ靡く元気のあった蜂蜜色の金髪はすっかり濡れて大人しくなってしまい、外套越しでもわかるほどの華奢な体に纏わり付いている。
馬に乗ったままの隊長に見下ろされる形で断崖に追い詰められた彼女は奥歯を噛みしめながら首を横に振り、降伏を拒絶した。
そして右手に握られた長い杖を地面に立て、注意して聞いていなければ今にも消えてしまいそうなか細い声で「降伏に応じ城に戻ったところで、きっと私は牢に入れられ…、そして必ず殺されてしまう」と言う。
声は震えていた。その時になって漸くホメロスとグレイグの二人は、彼女が長距離をかけて逃げていたから息が荒くて肩を上下させているのではなく、殺されるという恐怖に怯えてその緊張から息が上がっているのだと理解した。
杖を握る手は真っ白くなって震えていた。杖もかたかたと揺れていて、恐らくもう立って居るのもやっとなのだろう。兵士たちはそんな彼女に戸惑いの視線を向けるしかできなかった。王は反逆者を殺せと言った。だが魔法攻撃は未遂だったはずなのに殺せとの命令は罪が重すぎるのではないか、何故彼女は殺されると断言しているのか。
事情を断片的にしかとらえていない彼らにはわからなかったのだ。
ベルナデッタは戸惑いざわめく兵士たちに、意を決したように言った。
「何故貴方達にはあの者が王に見えるのですか!?あれの纏う空気は瘴気を含んでいる。あの禍々しい気を、全身に鳥肌が覆う程の邪気を何故感じないのですか!?」
彼女の言葉に、兵士たちは驚きのあまり誰もが言葉を失くし、目を見開いていた。彼女を誰もが反逆者ではないと、何かの間違いだと思っていた。王への攻撃についても、誰かが大袈裟に言ったのかもしれないと心の何処かで思っていたのだ。
しかし目の前にいる、先刻まで彼らが聖女と呼び慕った女は、必死な形相で自分たちの仕える王を偽物だと、邪悪なものだと、そう言っているようだった。それはつまり、主君への侮辱に等しいものである。
グレイグも呆然とそんなことを言い出したベルナデッタをはじめはみているだけだったが、すぐにはっとして杖を握る彼女の細い肩をつかんで揺すった。
「ベルナデッタ、目を覚ませ!おまえは、自分が何を言っているのかわかっているのか!?」
眉を眉間に寄せて口では言わないにしても「そんなことを言い続ければ本当に反逆者の烙印を押されてしまうぞ」と言いたげなグレイグの目を、ベルナデッタは一度だけ見上げると深い悲しみの色を浮かべて、そして諦めたように目を伏せた。
彼女の言葉は、兵士たちと自らを取り囲む空気を恐ろしい流れへと変えていた。
兵士たちは口々に彼女は何者かに洗脳されているのか、それとも気が狂ってしまったのかと話し始め、やがて彼女を見る目が恐ろしく冷たいものへと変わっていった。兵士たちは誰もが主君を慕っていた。それはグレイグもホメロスも例外ではなく、王に身を捧げ仕える以上彼女の言葉は、ベルナデッタ自身への大きな不信感を抱かせることになったのだ。
嵐は一層激しさを増していった。荒波は一際高くなり、海から陸までそれなりに高さがあるというのに海水は容赦なくベルナデッタや兵士たちに降り注いでいた。恐ろしい苦悶に満ちた呻き声の様な風の音が雨音に交じり、彼らの心に重く伸し掛かっていく。
あの女はきっと恐ろしい魔物に洗脳されているんだ、王を屠りユグノア王国の様にデルカダールを滅ぼすなんらかの前触れかもしれない、と小さな不安の綻び糸を引っ張り、心の隙間の穴を大きくしていく。
国には愛する家族もいる、恋人だっている、友人だっている。そんな愛する国を目の前にいる女が元凶で滅ぼされたとしたらと考えると、誰もが震える手で武器を握り直した。グレイグは彼女の細い肩を掴んだまま、背後から彼女へ向けられる殺気に顔をこわばらせていた。
ホメロスは細く切れながら目を見開き殺気を立てる兵士たちを見ていた。
強い稲光とほぼ同時に低く大きな雷鳴が鳴り響き、兵士たちの恐怖は一層高まり、彼らの中ですっかり悪の手先として出来上がった彼女に一斉に剣を向けて振り上げる。
グレイグはとっさに剣を抜き彼らの攻撃を受け止めてベルナデッタをかばっていた。
刃がぶつかり柄を握りしめた手がビリビリと振動に震えて、痺れにも似た感覚が残る。止めた斬撃を力で押し返し、次々とくる兵士たちの攻撃を受け流しながら背後に居たベルナデッタの小さな背中を押すと怒号にも似た声色で「逃げろ!」と叫んだ。
グレイグの視界の端を、彼の生まれ故郷に群生していた稲穂とよく似た黄金色の頭が二人分、掛け抜けていくのが見えた気がした。

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