main

□不朽の赦しを乞う
1ページ/1ページ




 どろりと白い指先がその形を失って、そこだけ空間がズレたように歪んでいく。一松は思わず後ずさり、浅い呼吸を何度も短く吐き出した。カラ松がとけていく、融けていく……。ぼたぼたと血だか皮膚だか混ざりあったどろどろの液体が地面に落ちていった。喉の奥からこぼれようとした細い悲鳴を、口もとを覆うことで塞ぐ。変わりに大きく開いた黒のまなこに涙が滲んだ。

「あ、あぁ……、カラ、松! カラ松!」
「痛いよ、一松」

 一松が涙を流しながら兄の名を叫んでも、カラ松はただ微笑む。咄嗟にどうにかしようと一松がカラ松の手を握っても、そこから次々に融けてゆき彼だった一部が床を叩いた。

「カラ松、カラ松、おれは、ぼく は……」

 無機質な地面に少しずつ液体として広がるカラ松に目眩を覚えた。何せ突然だったのだ。ほとんど一松にはここまでの記憶がないまま、カラ松は融け始めている。倒れるカラ松の横で割れた鏡の破片が虚しく音を立てた。だがなんとなく一松にはわかっていた。原因も自分だと。弟が兄をとかしていく。
 一松本人にとかされているというのに、カラ松はそれでも笑っていた。一松は不思議だった。こわかった。痛いだろうにどうして笑えるのだろう。これが逆の立場なら一松は笑えなかったはずだし、こんな優しい瞳で見上げてもいなかっただろう。ありったけの力で相手の顔を殴って、口汚く罵り、どうにか生きようと這ってでも助けを呼びに行ったはずだ。
 苦痛は嫌いだ。痛みは人を救わない。追い詰めるばかりの痛みは一松の世界で一番欲していた優しさから遠く離れていて、何より嫌悪していたものだった。もう悲しい痛みは嫌だ。一松の人生は常に孤独にあったせいで、痛みを人一倍感じた。手首から腕にかけてまばらにつけられた傷跡。何も生まず痛みだけを伴う自傷行為は一松にとって辛いものだったが、それでも満たされた。
 普段は服の下に隠されているそれが、目の前で融けるカラ松の腕、にも、同じ、いやそれ以上の数で深い傷がつけられているのを知ったのはつい先日だ。どうにも乗らなくて、パチンコを途中で切り上げ一人部屋に帰ってきて、ちょうど着替えようと服を脱いだカラ松と鉢合わせしてしまったあの日。偶然の悲劇だった。

「いいんだ。いいんだよ、一松」

 そうだ。あの時だってカラ松は笑っていた。へらへらと空っぽで中身のない笑みは、それでいて一松の脳髄をぎりぎりと痺れさせるほどあどけなかった。

「これがお前の愛なんだろう?一松」
「カラ松」
「愛は痛いんだよ。オレは知ってるから」

 一松はその笑顔に耐えかねて、逃げるように視線を自分の左手に寄越した。てのひらに握られているナイフには刃はもちろんハンドル部分にまでべっとりと血が付着し、赤黒く染まっていた。再びカラ松を見る。今度は笑っていない。カラ松は、自らが作った血溜まりに沈んで、それきりだった。





16730



[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ