空席の隣人

□騒々しい日々に乾杯
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 良い匂いがした。香水のように強い匂いではなくて、石鹸のように柔らかい匂いでもない。よくわからないが、ずっと嗅いでいたいような、ずっとそばに感じていたいような、そんな匂いだ。匂いの発生源に無意識のうちにベルは距離を詰め、手を伸ばしていた。触れると人肌のように暖かいそれを抱き締め、頭を擦り付ける。するとそれはかすかに動いた。そこでやっと異変に気付いたベルはベッドから飛び起き、ナイフを構えようと腰に手を回してーーーーやめた。思考を巡らせてみると、色々と思い出したのだ。ここは一体どこなのか。ここはメルディの部屋の寝室だ。ならば隣にいるのは誰か。メルディの部屋なのだからメルディに決まっていた。ベルはまず、互いの衣服に乱れがないことを確認した。当たり前だ。寝ぼけざまに同僚とよろしくやってしまっただなんて飛んだお笑い種だろう。スクアーロに笑われてしまう。寝ぼけざまにやるなんて、レヴィじゃあるまいし。いや、そもそもあいつはそんなタマではないし、二人よりも一人でやるしかないタチでーーーーいやいやそんなことよりも。

 みるみるうちにベルは自分の行動を順を追って思い出した。メルディがXANXUSに呼び出されたとスクアーロから聞いた。ボスの元から帰って来たらどんな顔をするだろうかと気になり、部屋で待ち伏せた。いつまで経ってもメルディは帰って来なかった。業を煮やそうにも、飽きて帰ろうにも、メルディにしかこの部屋の鍵を開けられないことを思い出し、外に出ようにも出られなかった。そのまま待つにも退屈で眠くなり、ベッドを借りた。本題はこのあとだ。眠ってからしばらく経ったあと、毛布をめくられて眩しかった。目を開けるとメルディが見えた。何を思ったのかはわからない。メルディの腕を掴み、ベッドに押し倒していた。指を絡ませて手を握った。その手に頬ずりをした。
 そのあと、何をした?

ーーーーキスをした。
 してしまったのだ、メルディに。そしてよりにもよって唇に。どうして手を持っていたのに唇にしたのだと過去の自分を責めたかった。戻れるとしたらその当時に戻り、この顔の火照りと共に後悔を根本的に消し去りたかった。メルディに一連の行為を変に誤解されては困る。これではまるで、自分がメルディに甘えたかったようではないか。いやいや、そうではない。ただ自分は、メルディをからかいに来ただけだ。XANXUSからの苛烈な洗礼を受けたであろうメルディをからかいに。それなのに、どうしてこんなことになった。想定外が過ぎる。

 隣で眠るメルディをベルは見下ろした。安らかな寝顔をしていた。そして、薄く開かれた唇に目が離せなくなった。頭を振る。いっそ見なければ良かった。そのことしか考えられなくなり、見続けていればまたキスをしてしまいそうだった。メルディの顔に毛布をかける。見えなくなればまだマシになるだろうと考えたのだ。しかし、メルディの寝顔が脳内でフラッシュバックし、むしろそのことしか考えられなくなってしまっていた。逆効果だった。彼女が微笑んだ顔を思い出すだけで顔が熱くなるなんて、彼にとって初めての感覚だった。

 ベルは、メルディの顔に自分でかけたはずの毛布をめくっていた。自分でも何をしているのかよくわからない。メルディの頬に手を添えていた。もともと効きにくい我慢が完全に効かなくなっていた。流れるようにメルディにキスをしていた。以前よりももっと押し付けるようなキスを。それでもまだ触れる程度のものだった。それほど長い時間していたわけではないが、ベルには長く思えた。唇を離す。この感触はしばらくの間忘れられそうになかった。メルディがしばらく起きませんように、とベルは願った。このあとどんな顔をして、メルディに接すれば良いのかがまったくわからなかった。ぐう、とこんな状況だというのに腹が鳴る。そういえば夕食を食べていなかったことを思い出した。とりあえず、適当に腹ごしらえをしようと決めたベルはブーツを履き、ベッドから降りてキッチンに向かった。あんなにあるのだから少しくらいなくなってもバレはしないだろうという魂胆だった。ベルは冷蔵庫を開けて、最初に目に入ったプリンを手に取った。そのとき、メルディが自分の唇を指で触れたことを知らなかった。
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