空席の隣人
□未知なるものは見知らぬもの
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メルディは、プリオラから呼び出しを受けた。シャワーを浴び終わり、ソファーでうとうとと微睡んでいたときだった。用件は何でも、見せたいものがある、とのこと。ただ、彼女との待ち合わせ場所は、よりにもよってあの吹き抜けのある階だった。メルディは何となく嫌な予感がしていた。それでも、断るに断り切れなかった。もしかしたらあれとは違う件なのかもしれない、という淡い希望を抱いたがプリオラと落ち合った途端にその希望は呆気なく朽ちた。嫌な予感は見事に的中したのだ。
プリオラが見せたいものって、アレなの、とメルディは顔を引きつらせる。彼女がここまで顔を引きつらせたのは、ベルにお気に入りのスウェットを引き裂かれ、着せ替え人形にされたとき以来だった。じゃあな、と満足そうに笑いながら部屋から去っていったベルの後ろ姿と、『Game Over』と血文字で表示されたテレビ画面をここ数十年は忘れられそうにない。
「ええ、そうよ。アレよ、アレ」
プリオラは娯楽室のパイプオルガンを弾く彼、ヴェゼルを指差した。その周りでは、彼の率いる医療班隊員を主として構成された、ざっと三○人ほどのギャラリーが水面に一雫落ちた時に見られる波紋のように綺麗な同心円を描いている。
「ギャラリーが随分増えてる」
メルディはほぼ無意識にそう言うと、プリオラは意外そうな顔をした。
「あら、最初はそうでもなかったのかしら」
「弾き始めのときは、五、六人くらい」
「少なかったのね」
「そりゃあ、早い時間だったし」
それもそうね、とプリオラは柵に両手をつき身を乗り出して娯楽室を見下ろした。
「今日が何の日なのか、あなたは知ってる?」
「プリオラがわざわざそう聞くってことは、ヴェゼルにとって、何か大切な日なんじゃないの」
メルディはいつもは気になどかけもしない髪の毛先を弄びながら言った。あくまでも興味がない様子を貫くメルディを見て、プリオラは音もなく笑う。
「今日はね、彼の奥様が亡くなった日なのよ」
メルディは呼吸を止めかけた。雷に撃たれたような衝撃が、彼女の体を貫いたのだ。あの鉄面皮なヴェゼルにもかつて愛する人がいたのだと、人間らしい心があるのだと、プリオラによって強制的に認識させられたような気がした。それでも、受け入れ難かった。
「そんなに驚くことかしら」
「驚くよ。だって、そもそも、あのヴェゼルが、だよ」
「あなたが思うほど、ヴェゼルは血も涙もない人ではないということよ」
プリオラの眼差しはナイフで腹を刺されるような痛みを感じてしまうほど、いつにもなく真剣だった。
「命日には必ず朝方にここで練習して、それから実家近くの教会へ行って、ずっと弾くそうよ。彼から彼の、奥様への償いとして」
償い、とメルディはプリオラの言葉をそのままなぞった。
「それにしても、償いって良い言葉よね。罪を犯した人の自己満足に過ぎない、都合の良い言葉」
プリオラは苦虫を潰したような顔をして、人差し指の背を噛む。
『本当に邪魔なの、居なくなって』
一瞬、メルディには判断出来なかった。地を這い、背筋を凍えさせるような声で、誰がその言葉を放ったのか。ここにはメルディ以外にプリオラしかいない。彼女が放った言葉に違いない。それでも、判断し難かった。誰が、その言葉をどのような意図を持って放ったのか。
「どう、して」
メルディは、声の震えを出来る限り抑えながらプリオラに訊ねた。しかし彼女はきょとんとした顔をして、「どうして……って、どういうことかしら」とメルディに訊ね返すばかりだった。
「今、邪魔、って……言った」
「……え? 私、そんなこと言っていないわ。私があなたを呼んだのに、それこそどうして? あら……どうしたのよメルディ、顔が真っ青よ」
プリオラはメルディの真っ青な顔に触れて目を合わせ「具合でも悪いのかしら」と具合を確かめる。メルディにも、何が何だかわからなかった。突如聞こえた、というよりも聞こえた気がした言葉は誰が放ったものなのかも、なぜここまで息がしにくいのかも。ただメルディは目から溢れ出る涙を拭い、プリオラに向かって「平気だから」と言うことしか出来なかった。それでも、プリオラが綺麗な調べだと評したパイプオルガンの償いの旋律が聞こえなくなってしまえば良いと思った。消えろ。消えろ、消えてしまえ。嫌な思い出と共に消えてしまえば良い。全て消え去ってしまえば良い。
プリオラは「場所を変えましょうか」と、メルディの手を引いた。それでも彼女の涙は止まらなかった。何か、嫌なものが身体の中を這いずり回っているような気がした。