空席の隣人

□未知なるものは見知らぬもの
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ーーーー『恵み溢れる聖マリア、主はあなたと共におられます』

ーーーー『主はあなたを選び、祝福し、あなたの子、イエスも祝福されました』

ーーーー『神の母、聖マリア、罪深い私たちのために、今も、死を迎えるときも祈って下さい』

ーーーー『アーメン』



 イタリア語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、ポルトガル語、エトセトラ。様々な言語が融合した賛美歌『Ave Maria』の合唱には、さらなるギャラリーを呼び、彼らの心を惹きつける魅力があった。それを指揮するのは、パイプオルガンに魂を捧げるように弾く一人の演奏者。しかし彼は演奏者でありながら、指揮棒を持たない指揮者でもある。最初に歌い始めた者は誰かなど関係ない。彼が奏でるパイプオルガンの旋律がなければ、この合唱は始まりさえしなかった。



ーーーー『恵み溢れる聖マリア、主はあなたと共におられます』

ーーーー『主はあなたを選び、祝福し、あなたの子、イエスも祝福されました』

ーーーー『神の母、聖マリア、罪深い私たちのために、今も、死を迎えるときも祈って下さい』

ーーーー『アーメン』



 彼の演奏が終わるとき、この合唱は終わるだろう。





















 美しい調べね、と柵に肘と背中を預けたプリオラが言う。メルディは一度、相槌を打った。確かに、美しい調べではあるだろう。ただ、彼女は賛美歌は苦手だった。賛美歌を聞けば、あの施設を嫌でも思い出してしまうからだ。

 メルディがかつて身を置いていた施設の長は狂信的なキリスト教徒であったようで、自らが管理していた施設のあちこちのスピーカーで賛美歌をたれ流していたことをよく覚えていた。忘れてしまいたくとも脳には施設で鳴り響いていた賛美歌の歌詞という歌詞が染み込み、メロディを流しさえすればふと口ずさんでしまえるレベルに到達してしまっていた。もし理性がなかったとしたら、己の耳を塞いで叫び出していただろう。神なんていない。信じない。信じてたまるか。信じている奴らはただのバカだ、と。

 理性があって良かった、とメルディは息を吐く。ここには、ヴェゼルの奏でるパイプオルガンのメロディーを快く思う人ばかりが集まっているのに、水を差してしまっては今後の関係にヒビが入る。一生をここで過ごすかもしれないというのに、そうなってしまっては肩身が狭くなるだろう。

 理性があって良かった、とメルディは息を吐く。それでもこの場から立ち去りたかった。
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