空席の隣人

□職場の愉快な仲間たち
7ページ/8ページ

「バウムクーヘンという神聖なるスイーツはドイツが発祥でね」

 とりあえず、バウムクーヘンが神聖なスイーツであるか否かを是非ともプリオラと議論したいメルディにとってのそれとはブラウニーに他ならない。が、それは自らが行列に並び、店頭で手に入れるべき物と認識しているため、他のスイーツのようにシェフに買ってきてもらうという行為イコール愚行であった。そのため、この数ヶ月間、それを一度も口にしていなかった。行列に並ばざるもの、ブラウニーを食うべからず。彼女にとってのブラウニーとは、そんな代物である。

 メルディが初めてブラウニーを口にしたのは八年前、つまり十歳のときである。エディッタ、という名の女性がクリアすべき課題と共に、それを携えてきてくれたのだ。市販ではなく、彼女の父の手作りらしいそれは、父からエディッタへと向けられる愛のようなものを伝え、甘味に飢えたメルディの舌に心地良い刺激を与えた。それと同時に、ブラウニーは素晴らしい食べ物であると頭に刷り込んだのだ。ただ、エディッタの父が作ったそれを二度と食べられないということ、彼女と会えないということは残念であり、寂しくもあった。過去には決して戻れないのだ。相対性理論を実証するなどして、科学が進歩しない限りは。

 ねえ、聞いているの。というプリオラの声に、メルディは即座に「聞いてるよ」と返事をしたが、実際はバウムクーヘンの発祥はドイツであることくらいしか聞いていなかった。

「斜めに薄く切るのよ、薄くね。間違っても、バウムクーヘンは縦にナイフを入れないこと。等分はしやすいってことはわかるけれど」

「切り方ってホント、大事よねぇ。ちょっと違うだけで、風味が全く違っちゃうもの。野菜とか、お肉とか」

 プリオラの指示通りにバウムクーヘンを切るメルディの頭上で、人生の先輩である二人はあーだこーだと話をしている。野菜はこう切ればしっかりと中まで火が通って味が染み込むだとか、それでは魚はこうだ、肉はどうだと、どんどん話が弾む。最近、美味しいピザ屋を見つけただとか、あるバールで一人でいたカラビニエリの子が可愛いだとか、色々な話が飛躍した挙げ句、プリオラとルッスーリアは冷蔵庫を開けた。ちょうど、バウムクーヘンを切り終えたところだったため、メルディは先輩二人の暴走を止められなかった。

「全然食堂に顔を見せないと思ったら、こんなことになっていたとはね」

 そうしみじみと語るプリオラの目の前には、扉が開かれたメルディの冷蔵庫がある。その中身は食材、というよりも食料そのもの。食料の中には主食となるフランスパンや食パンなどのパン類、レトルト食品があるにはあるが、ほとんどは長期保存を可能とするスイーツ、すなわちお菓子ばかりである。今の所プリオラとルッスーリアには見つかっていないから良いものの、キッチンの真上の収納にはお菓子ボックスなる入れ物があり、そこにはスナック菓子がぎっしりと詰まっている。もし見つかれば、さらなる試練が彼女を待ち構えることだろう。

「若いって良いわねえ。私、見ているだけでもう胸焼けしてきちゃったわよ」

「そうね、若いって良いわね。でもね、ルッス。いくら若くたって、好きなものばかり食べるのは良くないわ。若さと健康は、一度失ってしまったら簡単には戻ってこないから。若いからこそ特に食生活に気を遣わないと、後々大変なことになってしまうのよ」

「経験者は語る、ってやつねー」

「それと、亀の甲より年の功ってやつよ」

 今の所耳打ちに収まっているが、そのうちメルディは二人からお叱りを受けること間違いなかった。件の医療班隊員、ヒータも心配していたように、栄養素の偏りはいくら若くとも健康にはよろしくないのだ。タンパク質。炭水化物。脂質。ビタミン。無機質。これらの五大栄養素をバランス良く、そして一日の摂取カロリー内で毎日三食の食事から摂取してこそ、身体の健康が保たれるのだから。さあて、メルディちゃん。バウムクーヘンを頂く前に、私たちと少ーしお話ししましょうね。と、ルッスーリアが言い終わる前に、プリオラの携帯端末が鳴ったのがせめてもの救いだった。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ