空席の隣人

□苦悩はあらゆる期待の元
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 こんなモンかぁ、とメルディが床に背をつけてまでXANXUSの執務室へ赴くことを拒否した結果、せっかく新品と同じくらい綺麗になった隊服についた汚れをある程度払い落としたスクアーロが言うが、メルディは穴が開いてしまうのではないかと思うくらい床をじっと見つめるばかりで言葉は返さなかった。その足元からマイナスイオンが発生し、ものすごい勢いでブナやシメジといった菌類が生産されそうなほどの落ち込みようで、世界が終わったようでもあった。スクアーロは彼女を横目で呆れたように見たが、しいて何も言わずに目の前にあった扉をノックもなしに勢い良く開け放った。彼女の心の準備は出来ておらず、思わずスクアーロの腕をすがるように掴む。そうでもしなければ、しゃがみこんでしまいそうだった。

「ゔおぉぉい! 失礼するぜボスさんよぉ、最後のヤツ連れて来てやった……」

 スクアーロの言葉はそこで止まった。なぜかと問われれば、メルディはこう答えるだろう。ガラス製の何かが飛んできてスクアーロの顔面に直撃して砕け散った、と。彼女の言うガラス製の何かとは、飲料、匂いからしてアルコールとロック氷が入ったグラスが、彼の顔面に直撃したのだ。実際、扉の真正面に立っていたのはメルディで、その横にスクアーロが立っていた。だが、一寸の狂いもなくスクアーロの顔面に吸い込まれるようにしてグラスが飛んできた。本来ならば、メルディに当たりそうな状況なのだが。彼は己の顔についた液体を拭い、氷がガラスかわからない破片を払い除け、部屋の中にいるただ一人の人間を鈍色の目で睨みつけた。その人間こそがグラスをぶつけた張本人だった。メルディは液体が滴るスクアーロから目を外し、彼と同じように部屋の中へと目を向けた。現実逃避はもう終わりにしよう。これからは現実と向き合って潔く先に被害にあった彼らのように怪我負って最悪死のう。どれだけこの世に未練があろうとも、スクアーロを恨めば問題ない。それでも命は惜しい、と思いながら、メルディはスクアーロにすがった手を払われ、背を押され、魔王の住処へと足を踏み入れるのだった。











 「ゔおぉぉぉい! グラスぶつけんの今日で何度目だぁ!」とスクアーロが問いかける声、「るせえ、早くまともなのを持って来い」というぶっきらぼうで低く掠れた声が聞こえた。会話の内容など、今のメルディにとってどうでも良かった。たった数秒のうちに、彼女は彼に目を奪われてしまったのだから。画面越しでもカメラ越しでも、ましてや写真でもない生のXANXUSに。彼の迫力は異端、そして異常だった。自分と同じ真紅の瞳と黒髪。顔についた傷跡。オールバック。大きな椅子に踏ん反り返って座って腕を組み、資料やら書類やらで散らかっているデスクの上に足を乗せる姿。誰かが彼のことを『暴君』と呼んでいたが、まったくもってその通りで言い得て妙で、その言葉は彼のためにあるのではないかと嫌でも思うくらいだった。人種差別と刑務所で有名な独裁者や、小麦が不作で困る農民に『パンがなければブリオッシュを食べれば良いじゃない』と説いた王女たちと横に並んだとしても遜色ない。彼が纏ったその雰囲気は、メルディがもっとも苦手とする最低野郎とは桁違いのものだった。格上。その言葉がとても良く似合った。今まであの最低野郎と同じような感覚を感じたのは医療班班長のヴェゼルだったが、それをあっさりとXANXUSは塗り替えてしまった。あの人よりも恐ろしい人。そうメルディはあくまでも良い意味で認識した。もう、あの最低野郎を恐れる必要はない。世界にはもっと恐ろしいことや人がいる。本当に世界は広く、自分はまだ無知でちっぽけな存在、とも思った。もう何も怖いと思えそうになかった。恐怖の対象が絞られたようで、かすかに気が楽になった気がした。

「そういやレヴィが部屋の前にいねぇんだが」

「ヤツは任務だ」

「『例の計画』のためのか」

「ああ。……で、それが例のチビか」

 仕事の話から突然自分の話へ変わり、メルディはまるでメドゥーサに睨まれ石像になったように固まった。XANXUSの視界に己の姿を捉えられたことも一因だろう。彼女は元々そんなに動いてなどいなかったのだが、そのあとの暴君の言葉でさらに固まった。

「カス鮫、テメエはもう退け」

 その命令に「ゔおぉい」と軽く返事をしてしまったスクアーロは今この時から正式に、メルディの恨むべき対象に含まれた。この場に残るように捕まえようとしたがあっさりとかわされてしまって、「もうお前なんて嫌いだ」と彼女は叫び出したかった。
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