空席の隣人

□未知なるものは見知らぬもの
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 『Ave Maria』の合唱がぴたりと止んだ。それは、今までパイプオルガンを弾いていたヴェゼルの手が止まったということを意味していた。やんややんやと、いつのまにか集まっていた医療班隊員を除いた隊員たちが小さい声ではあるが野次を飛ばす。それを気にもせずに、それとも気づいていないのか、ヴェゼルはパイプオルガンに背を向けて歩き、彼らはそれを避けるようにして道を空ける。その様子はさながらエジプトで奴隷として扱われていたヘブライ人たちを率いて海を割って道を切り開き、約束の地「カナン」を目指したモーゼのようだった。ただ、ヴェゼルはモーゼとは違い、後ろに誰も率いてはいなかった。他部隊、他班の隊員はもとより医療班の隊員でさえ、彼の後を追うこともなければ声をかけることもなかった。彼らは知っていた。今日という日がヴェゼルにとって忌まわしい日だということを。それでも彼の周りに集まってしまったのはただ単純に、パイプオルガンの音色が美しかったから。そうでなければ、今日のヴェゼルに近寄ることはなかった。ただただそっとして、触れずにいる。それが医療班隊員からヴェゼルへのせめてもの気遣いだった。

「演奏を聴いたのなら、私に演奏の料金を支払うべきでは」

 振り返って無理矢理口角を上げ、いつもは言わない冗談ーーだが判別し難い微妙なラインのものーーを言ってしまうほど、ヴェゼルの様子は普段とは異なっていた。そして、彼の渾身の冗談を笑う者は誰一人いなかった。その代わりと言っては何だが、彼らは皆呆気に取られたような顔をして野次を止めた。ヴェゼルはまた歩き出す。いつもは吐かない溜息を吐き出して、階上を見上げる。予想していた通りではあったが、そこには誰もいなかった。ただ、己の白衣が柵の上に放り出されているのが見えただけだった。ヴェゼルはまた溜息を吐いた。

 後悔と自責と贖罪と。
 ヴェゼルにとって今日という日はあの日から、そればかりのために過ごす日なのだから。
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