空席の隣人

□職場の愉快な仲間たち
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「ああ、そう。そうなのね。そういうこと。ああ、はい。わかったわ。それじゃあ、後始末が終わったら、一旦アジトへ戻って来てくれるかしら。……ええ、そうよ。じゃあ、切るわよ。……あ、忘れるところだったわ。報告書と関連書類の提出、忘れるんじゃないわよ。あんた、常習犯なんだから」

 電話の向こうの音は一切聞き取れないが、相手は話の内容からどこかに長いこと潜入していた諜報員のからの入電のようだ。しかも、報告書を提出し忘れてしまうタチの悪い常習犯。普段物腰の柔らかいプリオラがあなたではなくあんたと言うのだからよっぽど酷いらしい。

「お土産? それよりも私は報告書が欲しいわ。坊やも欲しがっているし。出来るだけ早く帰って来なさい。待ってるわ。……え? 最近人気のバウムクーヘン?……いらないわよ。……何ですって? ……食、べ、て、く、る?」

 プリオラの動揺が、手に取るようにわかる。いらないと言っているでしょう。しつこいわね。と、あしらいながらも、その顔には悔しさが滞りなくにじみ出ている。彼女のバウムクーヘン好きであることを知っているあたり、部下の中でも親しい人物らしい。しかも、無駄を許さない上司をおちょくる度胸を持っている。しばらく彼女は顔に感情を出し、端末を握り締めるだけで声には出さなかった。が、しかし。

「良いこと? 寄り道せず、すぐに帰っていらっしゃい! 今日の内に帰って来なかったら、局長権限で減給してやるわよ! わかったわね!?」

 プリオラは煩わしい蝿を叩き潰すように通話終了ボタンをタップし、大きく溜息を吐いてソファーへとなだれ込んだ。彼女は近くにあったクッションを掴み、顔を埋めて声の限り叫び始める。クッションに顔を埋めているために低く、かつ不明瞭に聞こえるだけだが、怒りというよりも悔しさを言葉に出来ていないことは確かだ。メルディとルッスーリアは、彼女に近づく。

「プリオラちゃん、このバウムクーヘン食べましょ。ね?」

「そうだよ。最近人気のバウムクーヘンって、『アトランティス』のでしょ? これ、それだからさ」

 プリオラはクッションから顔を上げ「本当?」 と、一言で問う。本当だよ、とメルディが言葉を返せば、彼女は顔を輝かせた。そんなに好きか、と驚きが襲ってきた。











 メルディ、ルッスーリア、プリオラの三名による女子会は、バウムクーヘンを平らげ、メルディの荒れた食生活についての説教の後にお開きとなった。ルッスーリアはスクアーロからの呼び出しを受け、プリオラは部下たちの様子を見に部屋を後にしたために騒がしかった室内は今やしんと静まり返っていた。メルディが大皿とカップをシンクに置いたときの食器と食器がこすれ合う音、スポンジに洗剤をつけて泡立てる音、蛇口を回す音、水が流れる音、水が一滴一滴滴る音などの些細な音すらも聞こえてしまうほどの静寂さが室内を侵食していた。メルディは洗った食器を拭き、元あった場所に戻す。あまり使用していないために食器自体は多くはないが、若干手の届きにくい高所に収納しているためーー手の届きにくい高所に収納してしまったからこそ、あまり使わなくなったのかもしれないがーーその作業は少々億劫である。そして下手をすると、元の場所に戻すときに収納されている食器のバランスが崩れ、落ちてしまう。その事態を防ぐべく、彼女はシンクの縁に足をかける。行儀が悪かろうと、この方法でしか安全に皿を戻すことは出来ない。あいにく、この部屋に脚立はなかった。

 片付けを終えたメルディはシャワールームへと向かった。ルッスーリアとプリオラは何も言わなかったが、明らかに自分は酒臭い。その臭いを落とすためにもシャワーを浴び、バスタブにゆっくりと浸かることは必要不可欠である。酒の匂いが染み込んだ衣服を脱ぎ、つっかえ棒に下げたハンガーにジャケットとパンツをかけ、洗濯機へシャツと下着を放り込む。洗濯は三日に一度の頻度のため、スタートボタンは押さなかった。それから洗面台横のカラーボックスから白のバスローブを取り出し、洗濯機の上に置いてシャワールームのドアを開ける。その時に彼女はやっと、バスタブにお湯を張り忘れていたことを気づくのだった。
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