空席の隣人

□人が人を必要とするのは必然である
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「ふざけているのか。ここは医療を施す神聖な場所。そこで武器を構えるとは、一体どういう了見なのか伺っても?」

「いだだだだだ! 離せよっ!」

「は、班長! つい先日、情報機関局、広告放送部、武器開発部やその他の部署のリーダーたちと、来月行われる予定の人事募集と引き抜きの件で揉めて、スクアーロ様に注意されたばかりです! もうそれくらいにした方が良いかと!」

 先ほどまで放心状態に陥っていたヒータだが、もっともらしい理由をつけて、ベルフェゴールを拘束するヴェゼルを落ち着かせようと試みた。彼は二人におっかなびっくりに近づいて「やめましょう? ね? ね?」と、いつもの数倍の剣幕のヴェゼルを両手で揺さぶった。ただそれで、意外にも頑固な彼の怒りが収まるはずはない。

「黙れヒータ。これは私とベルフェゴールの問題だ。それからナイフを回収しろ。反応が遅い」

「ぎょ、御意!」

 ヴェゼルは、なだめようと近づいて来たヒータを凄んで一蹴し、自身が蹴り飛ばしたナイフの回収を命じた。上司からの命令に逆らうことが出来ず、ヒータは足を揃え指を揃え軍隊よろしく敬礼をするが、ヴェゼルが下した命令は妥当なものだった。先に攻撃を仕掛けたのはベルフェゴール。言わば、彼のナイフはヴェゼルの身を傷つけるために用いられた武器。それを遠ざけ取り上げるという判断自体は間違ってなどいない。ヴェゼルは「回収しました!」というヒータの声を聞くと、ベルフェゴールに声をかけた。

「次このようなことがあった場合、ただではおかない。覚悟しておけよバカ者」

「わかったから早く降りろっての! ……てかお前、王子にバカって言った? バカって言った方がバカなんだよバカ死ね!」

 ヴェゼルはベルフェゴールから降りると、羽織っていた白衣を脱ぐ。彼の罵詈雑言など聞こえていないようだった。否応がなく、清廉された白くシワのないノリの効いたシャツ。キュッと締められたネイビー単色のネクタイ。丈の合った黒い細身のスラックスが、ベルフェゴールの目に入る。まるでその出で立ちは、一流企業に勤める敏腕サラリーマンのようだった。

「何でわざわざ白衣脱いだんだよ」

「衛生的ではないからだ」

 白衣から赤い腕章を外しながら、ヴェゼルは簡潔にそう述べた。話を聞いてみると、ベルフェゴールに跨ったときに白衣の裾が床についたことが気になった、と言うのだ。毎朝掃除しているとはいえ、床は常に土足で踏むもの。つまり、床は常に汚れている。ヴェゼルの衛生的ではない、という意見に頷くしかない。ベルフェゴールは「潔癖性かよ」とふてくされたように独りごちる。

「班長、このナイフどうしましょう? ベル様に返した方が良いですか?」

「いちいち聞かなければわからないのか? 絶対に返すな」

 医務室の端の方にあるクローゼットから出した新しい白衣の袖に腕章を取り付けながらヴェゼルは不機嫌そうに、そしてさも当然のように言う。直属の上司の指示に、ヒータが肯定の返事をしようと口を開いたその時だ。ナイフの持ち主であるベルフェゴールが自分の隣に立って左手を差し出したことに気づき、恐怖に襲われた。

「返せよ。それオレのだし。返さないとお前、切り刻む」

「え!? ちょ、ベル様!?
……班長! 助けてくださいますよね!? ね!? おれ、可愛い従順な部下ですもの!」

 ヒータは縋るような目で真新しい白衣を羽織るヴェゼルを見るが、彼はあくまで冷徹に答えるだけだった。まるでお前にかける情けなどないとでも言うようだった。

「君はここをどこだと? 自分の身くらい自分で守れ。『従順』? 『可愛い』? どの口が言うのだ。今までの己の行動を顧みろ。狼狽えているばかりで目も当てられない」

「酷い! そんなのあんまりですよ班長! それにおれなんかじゃ、ベル様に敵うわけありませんって!」

 返さなければベルフェゴールに切り刻まれる。返せばヴェゼルに怒鳴られる。どちらにせよヒータにとって理不尽な結果に終わるが、ベルフェゴールに切り刻まれて死ぬよりヴェゼルに怒鳴られる方が生命の危機に陥らないためいくらかマシだった。彼は、苦汁を飲んでベルフェゴールにナイフを返すことを決めた。ヒータが「はいどうぞ」とベルフェゴールの左手にナイフを置いた途端に、ヴェゼルは彼を鋭く睨んだ。彼は、睨まないでください班長。おれにとってはこれが最善策なんです。班長の命令聞きたくないとかそーゆーのじゃないんです本当。と、思いながら、無言で深々と頭を下げた。ヴェゼルは彼を無視して、また医学書を手に取った。一切の興味を無くしたようだった。
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