Novel

□トライアングル
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「今夜はずいぶん上機嫌なのね、カイ」
香水臭い女の匂いが背に纏わりつく。
「何かイイコトでもあったの?昇進とか?」
「余計な詮索はせずにお前は脚を開いてればいいんだよ」
「サイテー。でも悪くてイイ男って魅力的」
「お前が魅力を感じているのはこの若さで軍の将に手が届きそうな俺の家柄だろう?」
「そうね。でも顔も好みよ」
この高級娼館は金持ちが好みそうな上玉を揃えている。
ここで売れ行きの良い女を御していれば、財界政界や軍上層部の情報を得やすい。
プロと呼ばれる女も所詮惚れた男には手を貸す。俺はその点に置いて不自由なかった。
どいつもこいつも大差なく、金、地位…目に見える形ある俗物にしか興味が無い。
愚かで分かりやすく、ひどく扱いやすい人間ばかりだった。

なのに――あの、掴めない女が。
あの日からずっと脳裏に浮かぶ。
稀にみるほどの美貌だったからかもしれない。

ジュラ紀の古代植物が化石化した深い艶を持つ宝石・ジェットのような漆黒の瞳は、覗けば覗くほどに芸術的な美貌にしっとりと絡め取られ情欲を掻き立てられるようだった。
それでいて何にも囚われず、何にも染まりそうにない純潔の――まるで未踏の深海に眠る秘宝のような肌。きっと狂いそうな程甘い味がするに違いない。
ダンは既に知っているんだろうか?
いや、品行方正で堅物のダンのことだ。
あの様子じゃ結婚するまではと手を出してはいないはずだ。

「ねえ?しないの?」
乳房を擦り付け、裸の女は俺の身体に腕を廻した。
「気分じゃなくなった」
「え?!」
「帰る。金は払っておく」
「ちょっと待ってカイ!お金なら私が持つから抱いてってよ。」
「うるさい。俺に気安く近寄るな」
「ひっ!」
睨むと女は怯えたように黙り込んだ。

(こんな安い女じゃない。俺が求めているのは――)

俺は手早く身支度を整え、部屋を出た。




「カイ。こんな時間にどうしたの?」
気付けば馬を走らせ、俺は例の孤児院に来ていた。もうとっくに日は暮れている。

相変らずエマは粗末なワンピースを着ていたが、色町で見たどんな着飾った女より美しかった。

明日はエマの誕生日だ。
ダンは遥か遠い地に居る。
俺がダンの活躍ぶりと聡明さを軍の上層部に説き、新たな遠征地の早急な開拓を進言したからだった。
帰国する予定だったダンはまた一か月、新たな地へ向かい平定することを任ぜられた。

全ては思い通りだった。
あとはダンが居ない間にエマを俺のものにして、帰国したダンを思い切り嘲笑ってやるだけだ。兄さん、こんなつもりじゃなかったんだよとな。

「ダンがしばらく戻れないことを伝えに来た」
「…そう。また…戦争?」
「俺達は軍人だ」
「そうね…でもダンは優しいから…きっと苦しい想いをしてるわ…」

侵略軍にダン加わり平定した新たな植民地は暴動が少ない。
それは彼が住人達への暴行や略奪を厳しく禁止しているからだった。
植民地の人間にもモルドー人と同等に近い権利を与えるべく、マヌケなダンは身を削って上申している。
奴隷として侵略した奴らの味方をするなんて馬鹿げている。
弱者が奪われるのは当然の摂理だ。

本来はもっと出世できるはずの功績をあげながらもダンが飛躍的に出世できないのは、モルドー以外の民族を蔑視している生粋の帝国政治家からすれば無駄な正義を振りかざす煙たい存在でもあるからだった。
だが領土拡大に力を入れているモルドー帝国にとって、ダンの統率力と人を誑し込む力は大いに役に立っているのも事実だった。


エマは胸の前で手を組み空へ祈る。
「どうかダンが無事で帰ってきますように」
その仕草にイラつきを覚える。
今まで心乱すことなく『完璧なダンの弟』の役を演じてきたのに、エマの前ではそれを取り払ってしまいたくなる。
「ダンに対してそう想っている人間は多いだろう。兄は誰にでも好かれるから」
「ええ。あんなに素敵な人はいないわよね」
「ッ…」
俺は思わず顔を逸らした。
ダンを信じて疑わないエマの笑顔は眩しすぎて、無茶苦茶に壊してしまいたい気分にさせられる。

「どうしたの?」
「…俺も来月遠征へ行く」
「そう…」
エマは黙り込んだ。

父も母も親族も皆、モルドー名家に相応しい、輝かしい活躍ぶりのダンを失う事だけを怖れていた。ダンが危ない戦地に赴く折には、父には『そんな場所にダンが行くことは無いだろう。カイが行けばいいんだ』と面と向かって言われたこともあった。

俺はずっと出来過ぎる兄の影にいる。
それを受け入れたフリをして生きてきた。
本当の俺を気に掛けるヤツなんて周りには誰一人居なかった。
だがそれでも構わない。
いつかダンを俺の足元に這いつくばらせてやる――それだけを目標にしてきた

「じゃあカイの為にも毎日祈るわね」
エマは手を伸ばして、撫でるようにそっと俺の前髪に触れた。
「どうせ…口だけだろう。俺にそんなことをする人間はいない」
俺は思わず手を払いのける。

「あら。カイったら意外と捻くれてるのね。そういう時は『有難う。必ず無事で帰ってくるよ』って言えばいいのよ」
「俺はダンと違う」
「うん。違うわ」
即答されると、胸の奥がズキリと音を立てた気がした。

「だからカイの代わりも何処にもいないのよ。貴方が無事じゃないと私は悲しいわ」
「会って間もない他人だろう?」
「他人じゃないわ。だって前髪を切ってあげた仲じゃない」
「何だそれ」
「ねえ…カイ。貴方はとても綺麗よ」
「綺麗?そんなことを言われて喜ぶ男なんていない」
少し不機嫌に返すと、エマは悪戯っぽく笑う。
「ふふ。初めて会った時は落ち着いてる子って思ったけどカイは意外と子供っぽいのよね」
更にイラつく言葉が続いた。

「言っておくがアンタより年上だぞ」
「気を悪くしたならごめんなさい。本当に貴方は怖いくらい純粋で…誰よりも愛情に飢えている気がするの。それは本能に従って生きる獣や燃え盛る焔みたいに美しいわ」
「わかったふうに言うな。エマ、ならアンタが愛情とやらを俺にくれるってのか?」

エマはにこやかに微笑んだ。
「ええ。カイのこと愛してるわ」
「…っ」
眩暈がした気がした。
女に『愛してる』と言葉にされることに経験がなかったわけじゃない。
よくそんな陳腐な言葉が言えるものだと大して興味も持てなかった。
だがエマの形の良い唇から零れるそれは堪らなく甘美で、俺の胸の奥を震えるほど強く乱す。

「友人になってって言ったけど、私はカイと本当の家族みたいになりたいわ。それにカイの為に祈る人がいないって言うけど、ダンはカイのことをとても大事に思ってる。いつも嬉しそうにカイの話をしていたもの。ダンもカイを愛しているのよ。私が妬けちゃうくらいね」

エマが言う『愛している』と、
俺が願っているそれは違う。

俺が――願う?
無意識に浮かんだ言葉を否定する。
何で俺がウルの女の愛情なんか気にしないといけないんだ。

俺はいずれこの国の実権を手に入れる。
その為に役に立つ女を妻とするだろう。
目の前の女がどれほど魅惑的だろうと本気になど――



…なっているのか?
俺が?

「祈るよりも俺は…」
「え?」
思わず手を伸ばす。

もっと確実な温もりを望む。
その肌を暴き、刻み付け、啼かせたい。
酷く下賤な欲望だ。

今ここで。
無理やりエマの貞操を奪えば、ダンを奈落の底に落とすという俺の目的は果たせるかもしれない。
俺にとってそれは大したことじゃない。
エマに会うまでは、ダンの恋人を荒っぽい手段で奪うことも考えていた。
そろそろ『兄を尊敬している弟』のふりをするのも飽きてきたところだ。
たかが女一人の身体でダンを苦しませてやれるならこんなに幸運なことはない。


指がエマの黒髪に触れる直前で、俺の手は止まった。
穢れた俺が気安く触れることが許されないような気高さがこの女にはある。

「どうしたの?カイ?」
エマの漆黒の大きな瞳に俺が映っていた。
ただそれだけの事が俺の汚らしさを全て浄化するかに思えた。

「ねえカイ。ダンはいつごろ帰ってこれるのかしら?」
澄んだ声が響く。
「ああ…うまくいけば来月には…」
「そう。カイと入れ違いにならなければいいのに。ダンが戻ったら三人で海を見に行きましょう!私張り切って三人分のお弁当作るわね」
「そうだな…」

眩しい。

エマがダンに向けている、愛情、笑顔。
どんな手を使ってでも…一生をかけてでも。
俺は、それを奪う。必ず。


「明日も来る」
俺は馬に跨がり孤児院をあとにした。




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