Novel
□シリウス国の家庭教師とプリンセス
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「シン先生?何かあったのですか?」
シンが書庫へと戻ると王女は手元の書物から目を離し、シンへと不安げな瞳を向けた。
「いいえ。何も問題はありません。明日の手配をしていただけです。ところで最後まで問題は解けましたか?」
「はい。自信はあるんですけど」
シンは王女の側へと寄り、覗き込む。
薄暗い灯りのなか、不意に近づいたシンの身体に王女はビクリと反応した。
だがシンは一向に気にする様子はない。
自分だけが意識していることに、王女は小さくため息をついた。
「よく出来ました。ほぼ正解ですね。この調子でしたら試験も何とか問題ないでしょう」
「先生。私、今でも帝国学院の試験を受けたい気持ちは変わりません。沢山勉強しましたし、シン先生にも本当にお世話になっています。ただ…今回の件で、モルドー帝国に行くことが、少しだけ怖くなりました。産業の進歩はシリウスにとって望ましい事です。しかしそれ故に失ってしまうものがあってはいけないと思いました」
「世界情勢を牽引する国というのは、時に傲慢で独裁的でなければ事を進められない一面もあります。それが正しいとは言わない。貴女は貴女の大事なものを守るために、どうすべきか考えればいい。選択の幅を増やすために、より多くの経験や知識も必要になります。そのうえで、貴女自身が信じるままに、歩む場所を決めていけばいいと思いますよ」
「ええ」
王女ははにかんだ。
シンはじっと王女を見つめる。
「臆病だってシン先生に怒られるかと思いましたわ。ふふっ。良かった」
ふと、シンの香りが王女のもっと近くへと漂った。戸惑う間もなく。
シンの長い指が、王女の頬をすうっと撫でる。
そしてその頬に、羽が触れるかのような柔い口づけが寄せられた。
「し、シン先生…?!」
王女は驚き、頬に手をやる。
どうして、と声に出来る余裕すらなく顔が近づく。
真横に置いてあったランプがほんのりと二人の顔を照らして、王女の白い肌と桃色に潤んだ唇のラインがくっきりと浮かび上がった。シンの熱の籠った視線が王女の唇に落ちる。
「目を、閉じろ」
シンの囁きと共に、王女の身体がから立ちのぼる、甘く蠱惑的な香りがシンを包み込み、シンは王女に唇を重ねていた。
「…っん」
軽く触れ合っただけの唇に、王女は敏感に反応する。
一度重なってしまった感情は堰をきったように止まることを知らず、唇を重ねたままシンの黒い手袋を嵌めた右手が王女の細い顎に添えられる。
少し上を向かせ、シンの舌先が王女の唇をなぞると、
「ぁっ…」
小さな叫びをあげた王女が唇を無防備に開いた。
と同時にシンの舌が王女の咥内に挿入される。
「…っ」
驚いて後ずさろうとする王女の頭をシンは左手でグッと抑え、更に深いキスを繰り返す。
「シ…ンッせん…」
王女は逃げ場なく重ねられるシンのキスを受け入れ続ける。
今シンの中に芽生えているのは、冷静な彼には珍しいほどの衝動的な情熱だった。
このキスが二人の関係をどう変えてしまうのか、明日自分が居なくなった後、この娘はどんな顔をみせるのか。
おそらく酷く傷つくであろう、その感情さえ余すことなく閉じ込めて、誰にも渡さずに己だけの物にしてしまいたい、と。
思考を吹き飛ばすほどの強い劣情がシンを支配していた。
動物的本能が彼本来の加虐欲と絡みあい、愛情を向ける対象のすべてを自分の支配に置き、余すことなく喰いつくしたいたいという欲望が込み上げる。
「…っ…く、くるし…」
王女の声にハッとなってシンは僅かに唇を離す。
「っはぁっ…はぁっ…先生。息ができません…」
王女は大きく息継ぎをしてから、上気した頬を少しだけ膨らませた。
突然のキスを咎めるよりも息継ぎの心配をする女に、シンは思わずプッと笑う。
「息を止めるからです」
「だって、その…いつ息をしていいのか…ず、ずっとシン先生の舌が…その…」
王女の可愛らしい抗議に、何も考えられないくらいにただキスに夢中になっていた自分にシンは改めて気づかされる。
「シン先生…どうして、こんな…」
王女は余韻に浸るかのように自分の唇に触れた。
「ただのキスですよ」
シンは言い聞かせるかのように出来るだけ冷静に言う。
だが二人の間に溢れはじめた甘い空気は消し去ることが出来ない。
情熱的なキスをしておきながら、シンはわざと冷たい言葉を投げる。
無体に唇を奪った男として、いっそ憎まれればいい、とさえ思った。
(そうすれば永遠に俺のことを覚えているだろう?)
「まさかキスをご存じないとか?」
シンの言葉に王女はショックを受けたような表情になる。
そして余裕たっぷりなシンに対して、少しだけ強がってみる。
「…っ。キスくらい…し、知ってますわ」
「へえ?」
シンの声が少しだけ低くなる。
「それはあの庭師とですか?」
「どうしてハヤテが出てくるんです?」
「随分と仲がよさそうでしたからね」
「確かにハヤテとは仲は良いですけれど、キスはしたことありません!今のが初めてです!」
言い切ったあと、王女はハッとした顔になる。
「…わ、私は実践したことはありませんが、物語で王子様がお姫様にしているのは読んだことがあります。そりゃあ息継ぎの仕方までは書いてませんでしたけど、で、ですから知っていると…」
(本当にコイツは…)
王女の言葉の途中で、チュッと音を立ててシンの唇が今度は穏やかに重なり、王女はまた小さな叫び声をあげて自分の指で唇に触れる。
「なら俺が初めてのキスの相手か」
「え、ええ。…あっ!」
「どうした?」
「だって改めて考えると叫びそうなくらい嬉しくってドキドキしてきましたわ。どうしましょう!」
染まった頬を両手で抑えて王女はシンを見つめるが、
「どうするでもありません。ただのキスの練習ですよ、プリンセス。リース王妃となった際には年上の貴女がリードしなくてはならないでしょう?だから練習しておいたほうがいい」
ふわふわとした熱をシンの言葉に瞬間冷凍された気分になる。
「…っ、私は。シン先生をっ…」
シーッ、とシンは指を立てて王女の唇に押し当てた。
熱の込められた王女の視線を真っ向から受け止めてしまえば、欲望のままに王女の貞操を奪い我が物としてしまいそうだった。
家庭教師の報酬として受け取るには、それはあまりにも悩ましく身勝手で、己の決意を滅ぼしてしまいそうで。
滅茶苦茶に壊したい欲望に駆られながら、触れることすら儘ならない大切な、女。
シンは生まれて初めて、怖れを知った。
「教えたことは全て、ここに」
シンの指は、しっとりと濡れた王女の唇を撫でた。
テーブルに置いた蝋燭の灯は儚く消えかけている。
もう少しだけ、と願う気持ちを、互いに視線にしか乗せることが出来ない。
灯りが消えてしまえば、夢のようなキスの余韻も溶けてしまいそうだったからだ。
王女はまるで幼子のように、シンの上着を掴んだ。
今まで幾つもの事柄を諦めてきたシンは、目の前のそれが今までとは全く違う事を知りながら、その手を解いた。解くしか出来なかった。
「さぁ、もう無理はせず休んでください。明日はシリウス王宮を目指して貴女は振り返ることなく進まねばなりません。」
翌朝。
眠そうな眼を擦りながら身支度を整えた王女がいくら探そうとも、家庭教師だった男の姿はティアラと共に見事に消えていた。