Novel

□シリウス国の家庭教師とプリンセス
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穏やかな光に包まれた午後。
王家の紋章が織り込まれた紅い絨毯の敷き詰められた長い廊下を、一人の麗しい男が考え事をしている様子でゆっくりと歩いていた。キッチリと手袋を嵌めた長い指で懐から懐中時計を取り出し、眉間に僅かに皺を寄せて立ち止まる。

(このまま真っ直ぐ向かうか…いや、早すぎたってどうせ堅苦しい側近に見張られながら待たされるだけだろう。それなら…)

これから向かう場所へと急ぐことを少し考えるようなシンの視線は、中庭へと移る。
寸分の狂いもなく鮮やかに手入れが行き届いた花々の芳しい香りに誘われて、しばらくその場に佇んだ。中庭から余すことなく漂ってくる甘く官能的な香りは一瞬どこにいるのか忘れてしまう程印象深い。

(この強い香りはキンモクセイか…)

雨に濡れれば潔く散るこの控えめな秋の花をシンは多少好ましい気持ちで眺めた。

(ようやく巡ってきた好機だ。どんな事をしても手に入れる)

広い廊下の端をなるべく優雅に、かつ慌ただしく行き交うメイド達は、庭を見つめるこの見目の良い男にしばし見蕩れた後、我に返ったようにまた仕事へと戻っていった。
どれだけ多くのメイド達の熱い視線を受けても、自分に見惚れる女など珍しくも無いといった様子で軽く受け流し、シンの足先は庭へと向きを変えた。

(まだ時間はある。少し落ち着く為にもしばらく時間を潰すか…)

逸る心を押さえながら、完璧に整えられた庭で読書を愉しむのもこの仕事を受けた特権のひとつだと言わんばかりに、シンは庭の脇に仕付けられた小さなテラスに足を踏み入れた。


(女…?)

静かな時間潰しが出来るはずだったが、既に先客が居り、テラスの白いテーブルの上に突っ伏して眠る女がいた。
チッ、とシンの形の良い唇から舌打ちが漏れる。
不意に現れる彼のくだけた仕草は、些かその端麗な容姿に不釣り合いだが、彼の育ってきた環境を少しばかり露呈するものだった。
今回の仕事を受ける際にも彼の生い立ちは問題となったが、学院始まって以来の秀才と話題のシン以上の適任を他に見つけられず、
また、元の生まれは決して卑しいものではないことから止む無く決定したことをシンも理解していた。

(場所を変えるか…)

溜息をつき改めて女に視線を落とすと、

(なかなか上等な女だな)

という好奇心が湧き上がる。

拡げられた数冊の本の上で薄茶色の髪が僅かに風に揺れ、首元の詰まったペールグリーンのドレスから覗くレースが淡く透けている。
桃色の唇が淡い色素の長い睫毛と対を為し、すべすべとした印象の透き通るような白い肌を際立たせていた。
豊かに香るキンモクセイの香りが、女の控えめな美しさに色を添え、シンの目を奪う。

「う…ん…」
女が起きる様子を見せた。
子供のように目を擦る仕草が何とも言えぬ幼さを醸し出した。

「…あっ!!えっ?!」
側にシンがいることに気付くと、慌てた様子でキョロキョロと周りを見廻す。

「す、すみません!今は何時でしょうか?」
小さな唇から洩れる声は軽やかで耳触りが良い。
シンが懐中時計をパチンと開き見せてやると、女はほっと胸を撫で下ろした。

「良かったぁ〜。時間を過ぎてしまったのかと思って焦っちゃった」
正面から見つめると、女はぶつかった視線が男のそれだと改めて気づいたのか恥ずかしそうに逸らした。
シンの視線をここまであからさまに外す女は珍しく、逆にそれが彼の興味を引く。

「あのっ…起こしていただいてありがとうございます。早めに戻るように言われていたのに遅れたらまた叱られちゃうところだったわ。ついうっかり眠っちゃったみたい」
起こしたつもりはない、それよりその場所を空けろ。とシンは内心思ったが、女は言うよりも先に急いで立ち上がった。

バサッと本が床に落ちる。
「きゃあ!大事な本をっ〜!わわっ、汚しちゃったかも!!」
レディとは到底言い難い優雅さに欠ける慌てぶりだ。
シンは丁度足元に落ちた本を拾い上げ、附いた泥を叩き落として手渡そうとして、本のタイトルに視線が落とされる。

(海賊…?)

受け取ろうとした女の手が僅かに指先に触れた。
「あっ…ご、ごめんなさい!!ありがとうございます」
ハッとしたように赤くなって手を引っ込める様子は眠っていた時と違い、まるで子供だ。
「あのっ…では、私はこれで失礼します!!」
女はひったくるように本を奪い、慌てて駆けて行った。

(現国王は海賊撲滅の動きを見せている。あんな本を大事そうに持っていたら良からぬ噂を立てられても文句は言えない。
身なりは悪くなかったからどこかの貴族の娘かもしれないが、世間知らず過ぎる。)

普段は他人事に感心を示さないシンにしては珍しく気になり、女が去っていったほうをしばらく眺めていた。



「シンさん、ここにいたんですね!」
背後から声がして振り返ると、王宮お抱えのフットマン、トワが人懐こい笑顔で立っていた。
「今日から王女様の教育係になるって聞いて探してたんです。王女様にはお会いになりましたか?」
「いや。これからだ。お前がいつも『綺麗だ』の『天女のようだ』だのとベタ褒めしている女だからな。それなりに楽しみにしているが…にしても慣れない場所は居心地が悪いな。ジロジロ見られるし監視されてる気分だ」
「ははっ。それはシンさんが目立つ人だからですよ。シンさんなら、素を出さなければどこかの国の王子だって云われても違和感ないですしね」
「おい、素を出さなければとはどういう意味だ。」

「えっ!いやほら…あ!王女様によろしくお伝えくださいね。誰にでも分け隔てなくお優しいし、そ、その美しいだけではなく、とても素晴らしい女性なんです!きっとシンさんも仲良くなれますよ!」
「仲良く、か。トワ、言っておくがどこの馬の骨ともわからない家庭教師と王女が仲良くなったらマズイだろう。例え噂でも王女に手なんか出した疑いがかかれば即刻処刑だろうしな」
「仲良くって言っても、だからそういう意味じゃないですよ。そりゃあシンさんはいつも女性にモテモテだけど」
トワは拗ねたように頬を膨らませた。シンは内心思うことは山ほどあったが、態度を崩さず淡々と答える。
「じゃあどういう意味だ?女と男が仲良くなる理由は一つしかないだろう。それに『天女』に見える女だって結局はどれも同じだろうしな」
「全く!シンさんはいつもそれですね。あまり女の人を泣かせるとダメですよ。というか絶対に王女様には意地悪しないで下さいね!」
「努力する」

シンとトワは古い付き合いだった。
出会いは孤児院だ。
孤児院といっても出生はある程度保証されている特別な院であり、それは『大人の事情』により親許で暮らせない子供ばかりが預けられる施設だった。
出会った頃のトワは幼く、何故そこで暮らさなければならないのかも判断できていないふうだった。
大人たちの噂でトワはどこかの国の王の落胤らしいと耳にした。権力争いを避けて他国で慎ましく暮らすならばと連れてこられたようだ。
だがシンにとってはトワの素性はどうでもいいことだ。人と距離を取りたがる彼に、トワはしつこいくらい懐いてきた。

何がそうさせるのかシンにとっては全く理解できなかったが、トワに慕われることは悪い気分ではなかった。
繊麗な外見からは見当もつかないほど頸烈な意志を持つシンにとって、時折真っ当な道から外れそうになる時、トワの無垢な瞳が僅かに己の立ち位置を修正する術となってきたからだ。

「俺も馬鹿じゃない。権威はそれなりに丁寧に扱ってやるさ」
「だから王女様はそういう方じゃないんですってば。もう、絶対変なことしないって約束ですからね!」
トワがますます頬を膨らませてシンに注意を始めようとした時、遠くから背の高い近衛兵がトワを呼んだ。

「あ、ナギさん!」
「トワ、馬車を出す用意を頼む。王の出発に先駆けて向かうんだ」
「わかりました!すぐに準備します!…じゃあね、シンさん!」
トワが急いで駆け出して行くと、ナギと呼ばれた男とシンは二人になる。
ナギはジロリと睨みを効かせた後、検分するようにシンを眺めた。
居心地が悪くなったシンは色々尋ねられる前に自分から名乗る。

「王女の家庭教師を任ぜられて来た。シンだ。トワとは古い知り合いだ」
「…」
(無愛想な男だな。兵士だからこんなものか)
「ナギだ。王宮を守っている。此処で迂闊な真似をしようとしたら俺がタダじゃおかねえ」
「開口一番に脅しか」
「…」

ナギの威圧的な態度に反抗を覚えたシンはわざと少し砕けた口調でからかいの言葉を口にしてみた。
「何でも王女は素晴らしく美しい天女の様な女らしいな。イロイロ教育出来るのが楽しみだ」
そう言い終わらないうちに、ガッと胸ぐらを掴まれる。
「さすが近衛兵様だな。手が早い」
胸ぐらを掴むナギの手首を、シンはグイッと力を籠めて解いた。
「冗談だ」
「冗談が過ぎると、例えトワの紹介でも王女に逢う前に叩きだす」
ナギが鋭い眼光で睨む。

「もし王女に邪な真似をしようとしたら…」
真っ直ぐなナギの瞳に、シンはクッと唇の端を持ち上げた。
「女は間に合ってる。わざわざ面倒事を起す気も無いから安心しろ」
「…」
ナギは無言の圧力をかけた後、安い挑発にはこれ以上乗らないと言った様子で背を向けて去って行く。

(…あのナギって男は敵にすれば厄介そうだ。本当に面倒な事にならねーように気をつけないとな)

「まぁ俺がそんな下手を打つようなこと到底有り得ないが。…チッ、思わぬことで時間を喰ったな。」
そう呟いてシンは思い出したかのように懐中時計を取り出し、これから自分に起る運命など知りもせずに歩き出した。



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