その他

□『貧乏』はかわいそう?
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とある質問サイトで見つけた質問。

「私はよく、お金を持っていない人やバイトを死に物狂いで働いて疲れている人達を゛かわいそう゛と言ってしまいます。

友達はそれを見下しているというのです。

別に見下している訳ではないのに、友達はそう言うのです。

私は見下しているのでしょうか?

そして、見下す事は悪い事なのでしょうか?

見下す事は、考えれば考える程よくわからなくなります。

わかりやすいように説明してください。」


この疑問に正義感の強い私はすぐに゛悪い事だ゛とは言えなかった。


正しい答えが見つからなかったからだ。

正しいというか、なんというか。


それはだめと言ったところで、なぜだめなのか。

理由は思い付くのだが、いまいち納得してもらうような理由じゃない。

自己が体験したことを他人に話した所で、伝わるわけではない。

こういうのは、体験してみないと気持ちはわからないものである。

想像した所で馬鹿野郎な私たちはそんな事すらも想像できないのである。

だって、自分の事しか考えていないから。

自分の事しか考えられないから。

どれだけ綺麗事(きれいごと)を言ったところでね。


゛見下してはいけない゛それは聖者の理想であって、綺麗事なのかもしれない。


私なりの答えが出ないまま、他の人の答えを見てみることにした。


ある人の答えによると。

「見下す事は人間として当たり前のことです。

競争社会で生き残るにはそういう意気込みが必要なのです。」と


この人が言っている事は一理ある。

だが、それを当たり前だと言ってそのままでもいいのだろうか。


似たような事で゛差別゛という問題もある。

゛差別゛の問題は時代とともに存在し、無くならない人類の永久の問いであろう。


「この人はこうだから。」

「あの人は〇〇だから。」

そう言って私たちは誰かをさけてきた事はないだろうか。


やっている私たちはいいだろう。

ストレスを解消できるし、何より己の立場が安定するのだから。


今、その瞬間は私たちが被害にあってないことに安堵(あんど)する瞬間なのだから。


……でも、あなたはその安心と引き換えに、踏み台にされた人の安心感はつぶてしまうだろう。


だけど、ある人は踏みつぶす快感を忘れられなくて、幾度(いくど)となって繰り返すのかもしれない。


踏みつぶされた者は死を選ぶかもしれない。


些細(ささい)な事だと思っていたことが大きくなって、降りかかるのかもしれない。


踏みつぶされた原因でその人の人生がめちゃくちゃになってしまうのかもしれない。


その人と関わるということはあなたはその人の人生の上にいるということ。


そんなこといちいち考えられないし、考えてしまえば人と関わることに抵抗を感じてしまうのかもしれない。


でも、私たちはその中にいるのだ。


そう、面倒くさい話だが私達は人生を交合わせている。
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