自分の体の大きな震えで、ヘッポコ丸は目を覚ました。ハッと目を開けて、途端に身を包んだのは恐ろしいまでの静寂だった。当然だ、今は月も高い真夜中だ。静かなのが当たり前なのだ。枕元に置いてある携帯で時間を確認すると、案の定まだ午前二時を少し過ぎた時刻だった。




携帯を閉じて元のように置き直してから、ヘッポコ丸は大きな溜め息をついた。片腕を瞼に乗せて視界を遮り、再び眠りの世界に落ちようと試みた。しかし、目が冴えてしまっていて、全く眠気が無い。代わりに、脳内をさっきまで見ていた夢がぐるぐると渦を巻くように思い出された。







寂しく、そして悲しい夢だった。恋人である破天荒が、ヘッポコ丸に何も告げること無く、去っていく夢だった。彼はただ静かにヘッポコ丸に背を向けて、一度も振り返ることなく歩いて行った。ヘッポコ丸はその背を必死に追い掛けた。だが、なかなかその距離が縮まらない。どれだけ懸命に走ろうとも、二人の距離はみるみる内に広がっていった。歩いているはずの破天荒に、どうして全力で駆けて追い付けないのだろう。




次第に足も満足に動かなくなり、最後には足を止めてしまった。止まりたくないのに、追い掛けたいのに、まるで自分の足ではなくなってしまったかのように、ヘッポコ丸の意思に反して足は動いてくれなかった。ならば呼び止めようと思っても声が出ない。ヘッポコ丸はそこに立ち竦んだまま、必死に破天荒に手を伸ばした。そして、名前を呼んだ。声が出ないまま、ひたすら破天荒を呼び続けた。









たった、たったそれだけの夢だ。しかしヘッポコ丸はこの夢がとても恐ろしかった。いつの日か、現実になってしまいそうな気がするからだ。







破天荒の目的は重々承知している。毛の王国の生き残りを探すことは、彼に与えられた大事な使命だ。それを遂行するには、いつまでもこうして一緒に過ごしているわけにはいかないことも分かっている。だからいつか、破天荒はヘッポコ丸の、そして仲間達の前から姿を消すだろう。それがいつになるのか分からないだけで。





黙って行ってしまうような、薄情な男ではないとヘッポコ丸は信じているけれど…もしかしたら、という不安が拭えない。元より破天荒は掴めない男だ。ある日突然、夢のように黙ってヘッポコ丸を置いて行ってしまいそうで、怖いのだ。





「どうした?」





感傷的になっていたら、突然声を掛けられてヘッポコ丸はビクリ と肩を震わせた。腕を下ろして隣を見ると、隣のベッドで眠っていた筈の破天荒が起き上がってヘッポコ丸を見ていた。どうやら起こしてしまったらしい。罪悪感を抱きつつ、良かった、居た…という安心感も、ヘッポコ丸は同時に抱いていた。



破天荒に倣って、ヘッポコ丸も起き上がった。





「ごめん、起こした?」
「いや、目が覚めただけだ。お前は?」
「ちょっと嫌な夢見ただけ。すぐ寝るよ」
「寝れそうな顔してねぇけど?」





片眉を吊り上げ、破天荒は心配そうに言った。僅かな月明かりしか入らない室内であっても、破天荒にはヘッポコ丸の表情や雰囲気をしっかり読み取れるらしかった。図星を突かれ、ヘッポコ丸は気まずくなってフイっと目をそらした。それは破天荒の言葉を肯定していると伝えているようなものだが、ヘッポコ丸はそれに気付いていない。





無論破天荒はそれで十分だったようで、ポリポリと後頭部を掻いた。大方、嫌な夢でも見たんだろうなと推察する。そしてその内容が、自分達に関係のある物なのだろうとも。どんな内容だったかまでは流石に分からないけれど、とりあえずその夢のせいで不安を抱えているらしいことまでは分かった。








こういう時、ヘッポコ丸は破天荒を頼らない。頼ることとは迷惑をかけることだと考えているからだ。誤解も甚だしいが、思い込みとはなかなか消えないものだ。それを取り払うにはまだ時間が掛かるだろう。





破天荒程ではないが、ヘッポコ丸も周囲とは壁を作るタイプの人間だ。大概その壁は首領パッチや天の助に悠々と越えられているので仲間内からはそうだとは認識されていない。しかし破天荒に対しては過ごす時間が増えた分、顕著に現れる。甘えるのを妙に嫌がるとか、頼ることを躊躇うとか…人との関わりに、一定のラインを引いているように見受けられる。破天荒はそのラインを、無理に踏み越えないようにしている。




無理矢理な侵攻は警戒心を生む。破天荒はこれまでの経験でそれをよく知っている。だからこうしてヘッポコ丸が壁を作った時、自らその壁を壊すように促す。嗾けたり蛮行を働いたりはしない。






破天荒がすることは、いたってシンプルだ。





「ヘッポコ丸」
「なに?」
「ん」





軽く腕を広げて、その中に来るように誘う。余分な言葉は必要無い。破天荒はキッカケを与えてやるだけ。こうして腕を広げて見せれば、ヘッポコ丸が動きやすくなる。甘えてもいいんだと解釈する。共寝する理由が出来る。それは高じて、ヘッポコ丸の不安を取り除く役割を果たすのだ。





無論、だからと言ってヘッポコ丸がすぐに行動に移すわけではない。甘えてもいいと解釈しても、躊躇いは消えない。壁を作り、ラインを引いている人間とは大抵そんなものだ。破天荒だって、同じ立場だったならば躊躇いを抱くだろう。どころか頑なに拒んだかもしれない。だから破天荒は根気よく待つ。ヘッポコ丸が、自ら壁を取り払い、ラインを消してしまうのを。







幸い、ヘッポコ丸は破天荒程頑なではなかった。短い時間躊躇う様子を見せた後、おずおずと自分の布団から抜け出した。そしてゆっくりとした足取りで破天荒が待つベッドへ向かい、広げられた腕の中に収まった。破天荒は腕に収まる自分より華奢な体をしっかり抱き締め、そのまま諸共ベッドに横になった。








ゆっくりと髪を梳いてやりながら、ぽんぽんと背を叩く。破天荒が織り成す幼子をあやすようなそれに、ヘッポコ丸は安堵の溜息をついた。普段こんな態度を取られたら気分を害すが、精神状態が劣悪なだけにとても安心出来た。体を支配していた不安が、徐々に溶かされていくようだった。





「…置いていかれる夢を見たんだ」





唐突に、ヘッポコ丸は語り始める。それはさっきまで見ていた、夢のこと。





「破天荒が、なんにも言わないで俺を置いてって…俺は追い掛けるけど、全然追い付けなくて、そのうち足も動かなくなったんだ」
「ふーん。それで?」
「だから、呼び止めようとしたんだ。でも、声が全然出なくて…そのままお前は、行っちゃうんだ…」
「嫌な夢だな」





破天荒は首肯した。恋人に置き去りにされる夢など、見て気分の良いものじゃない。それは破天荒も同意見だった。そして置き去りにした張本人は、夢の中の自分だ。不安にさせてんじゃねぇよ、と心の中で夢の中の自分に毒を吐いた。








ヘッポコ丸が抱いた不安は、それが正夢になりかねないという思いからだろうと破天荒は解釈した。そう思わせているのは自分か、と考えると、夢の中の自分ばかり責めている場合では無い。ヘッポコ丸が夢は夢と割り切れなかった原因は、普段から仄めかしている自身の目的のせいだろう。確かに、生き残りを探す使命は大事だ。けれど、だからと言ってある日突然黙っていなくなるつもりは毛頭無かった。







その点を信用されていないらしい、と破天荒は冷静に分析した。とどのつまり、全ての原因は破天荒にあったのだ。





分かりきっていた回答である。





「置いていかねぇよ、心配すんな」





優しく言い聞かせるように、破天荒は囁く。ヘッポコ丸はその言葉が本当かどうか見極めようとしてか、しばらく破天荒の顔を見つめていた。だがすぐ安心したように笑って見せ、額を破天荒の胸に押し当てた。





「それなら、いい」





信じる──ヘッポコ丸をそう言って甘えるように破天荒に擦り寄った。どうやら、渦巻いていた不安は取り除かれたらしい。初めて明言されたそれは、ヘッポコ丸の精神を落ち着かせるのに十分な効果を発揮したようだ。






そんなヘッポコ丸の様子を見て安心したようで、破天荒はヘッポコ丸を抱き締めたまま目を閉じ、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。珍しいな、と思ってヘッポコ丸は破天荒の寝顔をまじまじと観察してしまった。いつもヘッポコ丸の方が先に寝てしまうから、先に寝られる、というのがなんだか不思議に感じたのだ。





八つも年が離れているけれど、無防備に眠る破天荒はなんだか幼く見えた。普段寝顔を眺める機会なんて皆無に等しいから、これは新たな発見だった。ヘッポコ丸は、幼さが垣間見える寝顔を愛しく思いながら、キスをした。ただし、唇にはしっかり抱き締められているせいで届かなかったので、腕に自分の唇を押し付けた。








気恥ずかしさに蓋をするように、ヘッポコ丸も目を閉じた。今度は良い夢が見られることを期待しながら。












今夜は腕の中で
(腕へのキスは『恋慕』の意味)
(俺はまだ、お前に恋してる)



嫌な夢見たら寝れないよね、っていう話だよ。





栞葉 朱那

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