※天使と悪魔パロ


※死ネタ注意

















ビュティは悪魔であるが、彼女を悪魔らしくないと評価する者は後を絶たない。彼女が争いや盗みを嫌い、美しい草花や愛らしい生き物をこよなく愛しているからだ。天使達と戦ったことも無く、人間界に災いを呼び起こしたり何かを盗み出したことも無い。悪魔としての所業を何一つとして遂行していない悪魔。それがビュティだ。




彼女は魔界の長の妹で、保有する魔力は魔界随一の物であるが、それが生かされたことは無い。宝の持ち腐れだと非難する声も少なくない。それでもビュティは悪事に手を染めようとはしなかった。どれだけ魔界で孤立することになっても、信念を曲げようとはしなかった。『天使として生まれるべきだった』と揶揄されても、何も言い返さなかった。彼女自身、天使として生まれたかったと思ったことが少なからずあるからだった。勿論その胸の内を誰かに打ち明けたことは無いけれど。






そんな彼女にも、理解者はいる。彼女の兄で魔界の長であるソフトンと、その友人である狼男の破天荒、そして破天荒の親分で同じく狼男の首領パッチだ。彼らはビュティの信念を否定しなかった。「自分らしくいればいい」と言ってくれた。悪事を働きまくる彼らだが、それをビュティに強要するような真似は一度もしなかった。人間界に無理矢理連れていくことはあったが、それは単に美しい草花が好きなビュティに心ゆくまで堪能させてやる為だった。






そんな彼らがビュティは大好きだった。彼らのおかげで、ビュティはビュティらしくいられた。他の悪魔達になんと言われようと気にならなくなった。ビュティは魔界で、それなりに楽しく生きていた。








そんなある日のことだった。





「嬢ちゃん!」
「破天荒さん? …っ!? その人は!?」





血の池の畔でスズランの花を眺めていると、背後から切羽詰った様子で破天荒がやって来た。振り返ったビュティは驚いた。狼に擬態している破天荒は、背に血塗れの天使を乗せていたのだ。片翼をもがれ、そこから夥しい血が流れているが、その翼は悪魔と違って純白であり、天使であるのは間違いなかった。





何故魔界に天使が? そんな疑問が頭を過ぎったが、今はそんな瑣末な事に気を取られている場合じゃない。その天使は重傷なのだ。一刻も早く治療しなければ、命の危機だ。ビュティは焦ったように破天荒に駆け寄った。





「酷い怪我…早く治療しないと!」
「無理だ。嬢ちゃんだって分かってるだろ? 魔界の治療薬は、天使にとっては毒そのものだ。かえって悪化させちまう」
「そんなっ…でも、このまま放っておいたら…!」
「……いい」





急迫したビュティを、宥めるように放たれた掠れた声。それは破天荒の背に乗せられた天使から発せられたものだった。意識なんて無いものだと思っていたビュティは驚いてその天使を見た。天使はもぞもぞと動き、自ら破天荒の背から下りた(落ちた、というのが適切だが)。痛みに耐えるように呻きながら、天使はゆっくり顔を上げた。








血と泥で汚れた銀髪。痛みと多量の出血によって少し虚ろになった真紅の瞳。それでも端整な顔立ちをした少年であることは分かった。見た目の年齢もそうビュティと変わらない。少年天使はビュティを安心させようとしてか、不器用に笑顔を作ってみせた。



ビュティは少年天使の顔を見て目を見開いた。ビュティは、彼を知っていたからだ。





「あなた…あの時の…?」
















一ヶ月程前のことだ。その日もビュティは首領パッチと破天荒と共に人間界を訪れていた。二人は早々にビュティと別行動を取って何処かに飛んでいってしまったが、いつものことなのでビュティは気にせず、毎回訪れることにしている花畑へ向かうことにした。






そこは四季に応じて様々な花を咲かせる花畑で、ビュティはそこが大好きだった。どんな人間がそこを管理しているのか、ビュティは知らない。ビュティが訪れる時はいつも無人で、そこには色とりどりに咲き誇る花々と花の蜜を目当てにやってくる虫ぐらいしかいないのだ。だからビュティはいつも心置きなく、迎えが来るまでそこに留まり、美麗な花々の中に埋もれて過ごすのだった。




けれど、その日は先客が居たのだ。





「…っ!」





降り立ってから、しまったと思った。だってその先客は、悪魔とは長く敵対関係にある天使であったからだ。飛んでいる途中で見えた見事な色彩を見せる花畑に意識が向きすぎて、そこに佇む天使に気付かなかったのだ。完全に失態である。




天使の方はビュティと違って彼女をしっかり認識していたらしい。その証拠に、その天使はビュティが降り立った瞬間、武器であろう弓矢をビュティに照準を合わせていたからだ。まだ打ち出してはいないが、それはその気になればいつでもビュティを射れるという自信の表れだろう。少年の姿をした天使の真紅の瞳は鋭くビュティを睨んでいて、当然の事だが警戒しているらしいと、離れて立っているビュティにもよく分かった。







ビュティには戦う意志なんてこれっぽっちも無い。寧ろ、戦う術など彼女は持ち合わせていなかった。戦いを極度に拒んできたせいで、魔力の操作すらロクに出来ないのだ(天使や悪魔は自身に内包された魔力を操作して様々な術を繰り出す)。だからビュティが出来る唯一の事といえば飛んで逃げることくらいだが、今少しでも飛ぶ素振りを見せれば、あの矢に射抜かれるだけだろう。万事休すとは、まさにこの事を言うのだろう。






ここで死ぬことになるのか…ビュティがそう悲嘆した時だった。その天使は、何故か武器を下ろし、その手からすっかり消し去ってしまった。どうやらあの弓矢は、彼が魔力で生成した物だったらしい。ビュティが驚いて目を見開くと、その天使は小さく笑って「怖がらせてごめん」と謝罪してきた。





「な、なんで謝るの?」
「戦う意志が無い相手に武器を向けるのは、卑怯だろ?」
「…私があなたを攻撃しないとは限らないじゃない」
「分かるよ。君の目を見ればね」





戦う者の目じゃないから──少年天使はそう言ってビュティに背を向け、そのまま花畑に足を踏み入れた。ビュティもなんとなくその後に続いた。少なくとも今、彼と戦わなければいけないということにはならなさそうだと判断したからだ。それでも敵である天使の後をほいほいついていくのは、些か危機感に欠けると言えるが。





「花が好きなの?」





色とりどりに咲き乱れる花々の花弁を指先で撫で歩きながら、少年天使はビュティに問い掛けてきた。さっきまで矢を向けられていたことなどすっかり忘れてしまったかのように花に見入っていたビュティは、少し反応が遅れ、「う、うん」と吃った返事になってしまった。





「でも、魔界には花が咲かないから…時々ここに見に来るの」
「天界にある文献には、魔界は赤い月が地を照らし、岩だらけの場所だとあるけれど…」
「うん、その通りだよ。だから、花の種を植えても育たないの」





少年天使に倣って花弁に触れながら、ビュティは至極残念そうに語った。花が育つにはいい土と水、何より日光が欠かせない。その日光が無い魔界では、いくら種を植えても芽も出ないまま枯れるだけなのである。花が好きなビュティにとっては、それが残念でならないのだ。





ビュティの言葉に「そうなんだ」と頷きながら、少年天使は尚も花弁を撫で歩く。どうしてわざわざ花に触れるのだろう…そう思ったビュティは少年天使をジッと観察した。するとどうだろう、葉や花から瑞々しさが失せ、力なくこうべを垂れていたツツジが、彼が触れた途端、元の美しさを取り戻したのだ。



よくよく見てみれば、彼が触れた花々はみな一様に元気を取り戻しているように見えた。彼が歩いた花の道は、他よりも輝いているようにビュティには思えた。これは彼固有の能力なのだろうか。それとも天使とは、みんなこんな力を持っているものなのだろうか。





ビュティは無意識に「凄い…」と呟いていた。すぐ失言に気付いて口を塞いだが、残念ながらその呟きはしっかり少年天使の耳に届いていたようだ。振り返った彼は少々驚いた顔をしている。まさか悪魔に能力を褒められるとは思っていなかったらしい。そんな彼の表情を見て、ビュティは己の失言がなんだかとても恥ずかしいものに思え、赤面してしまった。





「あ、…ご、めんなさい…私、あの…」
「あ、いや、謝らなくていいよ。悪魔にそんな風に思われるのって、なんか変な感じで…」
「うん、私も、変だと思う…でも、本当に凄いなって思ったの。…私達悪魔は、壊すことしか出来ないから…」





奪うことはできても、与えることは出来ない──悪魔とは、そういう種族だ。






遥か昔から…そしてきっと、これからも。






「…悪魔らしくないって、言われない?」
「言われるよ、しょっちゅうね。でもいいの。私には私を理解してくれる人がいるし、こうして花を眺めていられればいいんだもん」
「…君のような悪魔も、いるんだね」





少年天使は柔らかく微笑んで、そして近くに咲いていたスズランに手を掛け、そのまま手折った。首を傾げるビュティの前で、彼はスズランに手を翳した。淡い光が彼の手から放たれ、その光はスズランを包んだ。太陽のように暖かい、そんな光だった。




数秒程そうしてから、彼はそのスズランをビュティに差し出した。「受け取って」と、一言添えて。





「俺の魔力を込めて、枯れるのを極限まで遅らせた。それにスズランが持つ毒も抜いておいた。だから害はないよ」
「え…でも…」
「俺が君に渡したいんだ。だからお願い、受け取ってくれないかな」
「……うん。ありがとう、天使さん」





ビュティはスズランを受け取り、それをまじまじと眺めた。実はスズランを見るのは初めてなビュティ。白いベル型の小さな花が六つ、俯いて咲いている。その愛らしさに、ビュティは一目でその花が好きになった。自然と零れる笑み。ビュティが喜んでいる姿を見て、少年天使もどこか嬉しそうである。




悪魔らしからぬビュティのことを、少年天使が憎からず思っているのは明らかだった。ビュティはその事に全く気付いていないようであるが。





「可愛い花だね。スズラン、って言うんだ?」
「そう。スズランには『幸せの再来』とか、『巧まざる優しさ』という花言葉があるんだよ」
「花言葉? なにそれ?」
「花にはその特質によって様々な意味を持たされているんだ。知らなかった?」
「全然。そうなんだ、そんなのがあるんだね…」






ただ見た目の美しさに惹かれていただけのビュティであったが、少年天使の話を聞いてますます花に関心が湧いた。今までただ眺めるだけだった花々には、全て何かしらの意味が込められた言葉があるのだ。ビュティの心に探求心が芽生えた。







もっと彼から話が聞きたかった。しかし、口を開こうとした瞬間に気付いた。誰かがこの花畑に近付いてきていることに。…いや、誰かじゃない。ビュティはこの気配をよく知っていた。何を隠そう、今日ビュティを人間界に連れ出してくれた二人のものだったからだ。





「仲間が来たみたいだね」





少年天使もそれに気付いたらしい。気配を感じる方向をジッと見やりながら、ビュティから少し距離を取った。





「君と話してるのを知られるのはまずいね。早急にここを離れるよ」
「あ…待って!」





翼を広げ、今にも飛び立とうとする彼を思わずビュティは呼び止めた。彼は翼を広げたまま振り返り、キョトンとした表情でビュティを見た。どうして呼び止められたのか、分かっていない様子だ。


そんな彼に、ビュティは微笑んで「ありがとう」とお礼を言った。貰ったスズランを見せるように掲げながら。





「スズラン、大事にするね」
「…うん、そうしてあげて」
「あ、あと、名前教えて? 私はビュティ」
「ビュティか…いい名前だね」





たん、と彼は地を蹴り、空へ舞い上がった。二人の気配はもうかなり近くまで来ている。早く離れないと鉢合わせしかねないと、彼はそう思ったのかもしれない。だからこのまま、名乗られないまま帰ってしまうのかなとビュティは思った。確かに、彼に名乗らなければならない理由は無いし、敵である悪魔においそれと明かしたくないと考えたのかもしれない。



そうビュティが不安になった時だった。





「俺は、雪」





少年天使は、そう名乗りを上げた。太陽を背に、純白の翼を大きく広げて、ビュティを見下ろしながら。





「神より与えられし名は、『神秘』の意を司りし、雪。それが俺の名前だよ」
「雪…さん」
「今日はありがとう。君と話せて楽しかった」





また会えるといいね──そう言って彼は瞬く間に空の彼方へ飛びさってしまった。そのスピードにビュティは瞠目する。そのスピードはビュティのフルスピードを遥かに凌ぐものだった。もしあの時、逃亡を謀り、射られた矢をかわせたとしても、逃げ切ることなんて到底無理だっただろう。彼はきっと、天使の中でも上級位にあたるのではないだろうか。





ビュティは貰ったスズランをギュッと握り締め、いつまでも少年天使──雪が消えていった空を眺めていた。また会いたいと…そんな想いを無意識に、胸の内に宿らせて。













その彼が、今、瀕死の重傷でビュティの目の前にいる。





「雪さん、よね…? どうしてあなたがこんな…」





ビュティは雪に駆け寄り、傷に障らないように気を付けながら雪の体を起こしてやった。痛みに呻きながら体を起こした雪は、それでも「覚えててくれたんだ」と嬉しそうに呟いた。その口振りから、彼がまたビュティに会いたいと思っていたのは一目瞭然だった。







それはビュティだって同じだった。あの後、何度もあの花畑に足を運んだ。花を見るためではなく、雪に会えないかと期待していたからだ。しかしあれ以降、雪に会えたことは無かった。花畑に行ったら、いつも雪の姿を真っ先に探した。そして居ないと分かると大きく落胆した。目的は花よりも雪になっていた。その心境の変化に、ビュティ自身は気付いていなかったけれど。





「お前ら、どこで会ったんだ?」





狼の擬態を解きながら、破天荒は当然の疑問を投げ掛けてきた。雪を手頃な岩に寄りかからせてから、ビュティは出会った経緯を掻い摘んで説明した。いつ、どこで、どんな会話をしたか、そしてスズランを貰ったことも。ただ、矢を向けられたことだけは省いた。結果的に何も無かったとはいえ、そのせいで雪を攻撃されたら嫌だったからだ。破天荒はそんなことしないと信じたいが、如何せん彼は狼男。粗暴さでは悪魔に引けを取らない。




幸いにもビュティの説明になんの違和感も抱かなかったらしい破天荒は、ふんふんと納得したように頷いた。それでも尚、彼の中に疑問は残っているようだが。





「なぁ、なんでコイツは嬢ちゃんを探してたんだ?」
「え?」
「天界から堕ちてきてこんな重傷だってのに、最初に会った俺になんて言ったと思う? 『ビュティという悪魔を知ってるか? 知ってるなら会わせてほしい』だぜ? 普通こんだけ重傷なら、たとえ嬢ちゃんと顔見知りだったとしても、その前に自分が助かる方法を模索するもんだと思うけどな」





その指摘には、ビュティも同意見だった。何が理由で雪が魔界に堕ちてきたのかは分からないけれど、まずは自分の傷の治療を優先するのが当然だと思う。だが先にも述べたが、魔界の薬は天使には毒だ。どう治療すればいいのかなんて、ビュティには到底思い付かなかった。


雪は、それを分かっていたのだろうか? だから治療を諦めて、ビュティを探すことにしたのだろうか。…いや、それにしても。





どうして彼は──





「どうして雪さんは、私を探していたの?」





破天荒が抱いた疑問を、ビュティは真っ直ぐに雪を見据えながら言った。破天荒もビュティと同じように雪に視線を向けた。雪は荒い呼吸を繰り返しながらも、その視線をしっかりと受け止めた。そして小さく微笑んで、彼は両手を宙に翳した。




雪の手の平に光が収束していく。二人はその光景を呆然と見つめていた。時間に換算すれば光が収束していたのはほんの数秒間のことで、すぐにそれは消えてしまった。光が消えた雪の手の上には、相当な厚さのある一冊のハードカバーの本が現れていた。表紙には『花言葉図鑑』と書かれていた。





「これを…」
「え?」
「君に渡したかった…ただ、それだけなんだ…」





差し出されたそれを、スズランの時と同じようにビュティは受け取った。呆然とそれを眺めるビュティは裏腹に雪はとても満足そうだ。





「あの、これ…」
「花言葉…知らなかったって言ってたでしょ? だから次会えたら、渡すつもりだったんだ。…任務もあったから、なかなか、会えなかったけどね」





どうやらビュティ同様、あれから雪もあの花畑に足を運んでいたらしい。頻繁に、とはいかなかったようだけれど。それにしても、今日まで邂逅が果たされなかったのは、よっぽど運とタイミングが悪かったと言える。








ビュティはおもむろにその図鑑を開いた。途端に飛び込んでくる色とりどりの花々と、それに付随する様々な言葉。ビュティが見た事ある花も、見た事無い花も、そこには等しく存在していた。この世に存在している全ての花達がこの本の中に収まっているかのようで、あっという間にビュティの心は魅了された。






目を輝かせて本を熟読し始め──そうになったところでビュティはハッと我に返って本を閉じた。いけないいけない、と自分に言い聞かせながらプルプルと頭を振った。今はこれを読んでいる場合じゃない。本よりも、雪が最優先だ。





「あの、雪さん」
「…なに?」
「これ、凄く嬉しい。ありがとうございます。……でも、でも」





本をギュッと抱きかかえて、ビュティは絞り出すように問い掛けた。





「これを渡すためだったとしても…どうしてそんな大怪我を? それに、何故、魔界に…?」
「………」





雪はすぐに答えなかった。焦らしているのではなく、多量の出血で意識が朦朧とし始めているからだった。魔力でなんとか出血を抑えているようではあるけれど、それもそろそろ限界が近付いているらしい。…雪の命は、まさに風前の灯であった。




それでもなんとか気力を持ち直した雪は、ビュティの疑問に答えた。簡潔に。





「神様に…君のことが、バレた…それだけ、だよ…」
「…バレた? それって…」
「…悪魔を始末するのが、天使の絶対的な任務…俺はそれに、逆らった…」





だから罰せられた──雪はなんでもないようにそう言ってのけた。大したことではないと言うように。しかしビュティにとってはそうではなかった。その言葉を聞いた瞬間、ビュティの背を冷たいものが伝った。








思い出す、雪と出会った時のこと。あの時雪は、ビュティに対して矢を向けた。あの眼差しは本気だった。雪はその気になればいつだって、ビュティを射ることが出来たハズだ。迷いなく、寸分の狂いもなく向けられた矢の鋭さを、ビュティは今も覚えている。それなのに雪はそうしなかった。戦う者の目じゃない…ただそれだけの理由で。



この時点で、雪は反逆者の烙印を押されていたということだ。あまつさえ雪は、ビュティにスズランを贈っている。それが裏切りを助長させると理解していただろうに。









あの日の行いが、雪の運命を決定づけたのだ。





「どうして?」




スズランと本を一層強く抱いて、ビュティは雪に歩み寄った。





「そうなるって分かってたはずでしょ? 私の思い違いかもしれないけど、雪さんは天界ではそれなりの地位を持った天使だったんでしょ? だったら、あの時私を殺さないとどうなるか、分かっていたんじゃないの?」





ビュティの言葉に、雪は首を三度横に振って答えた。最初は、こうなると思っていなかったということかと解釈したが、雪の言葉がその解釈を退けた。





「分かっていても、俺には君を殺すことなんて、出来なかった…初めてだったんだ…花畑を目指して、笑顔で飛んでいる悪魔なんて…」





それでも一度矢を向けたのは、ビュティに戦う意思があるかどうか見極めるため。本当は向けなくても分かっていたが、そこは念を入れてのことだった。もしビュティが少しでも戦う意思を見せたなら、迷うことなく矢を放つつもりではいた。けれどその決意は、たった数秒の対峙で無に帰した。ビュティの瞳には、天使と対峙したことに対する恐怖しか無かったから。





雪は瞬時に悟った。ビュティがただ純粋に、花を求めて来ただけだということを。悪魔らしい目的なんて一つも持ち合わせていなかった。そこにあったのは、悪魔らしからぬ、女の子らしい理由だけだった。雪はそんな悪魔に出会ったことなんて無かった。










だから、殺したくなかったのだ。──それで自身が、堕天の烙印を押されることになろうとも。





「あの日の自分の行動を、俺は少しも後悔していない…だから神様に裁かれたって…本望だった…でも、一つだけ…」





雪の視線が動いた。その濁り始めた真紅の瞳が映すのは、ビュティが大事そうに抱えている花言葉図鑑。





「それを渡せないまま消えるのが、心残りだった…それを知った神様が…慈悲をかけてくれた…魔界に堕ちた理由は、それさ…」
「…たった…たったそれだけのことで、堕天を…?」
「そうさ。…本当はあのまま、天界で裁かれるハズだった…今俺が、堕天しているのは、神様が情けを掛けてくれたからだ…」





そもそも天界に堕天の罰は無いのだという。堕天とは、魔界に住む者の手引きで自ら魔界に身を染めるか、罰された本人が希望した場合に魔界に送られる者のことを指す言葉らしい。ビュティと破天荒は初耳だったらしく、心底驚いた顔をしていた。今回の雪は後者のパターンで、ビュティに花言葉図鑑を渡すためだけに堕天を希望したのだ。





堕天しなければ、雪はビュティにその末路を知られないまま…花言葉図鑑も渡せないまま…消えていたのだ。それを考えて、ビュティはゾッとした。たった一度しか会っていないというのに、雪が知らない間に消えてしまっていたら…それを考えただけで寒気がした。そして押し寄せる、不安。





「じゃあ、目的を果たしたお前は、神に消されるのを待つだけってことか?」






ビュティが恐れていたことを代弁するかのように、破天荒が雪に問うた。どうか否定してくれないか…ビュティは心の中でそう願った。





「…あぁ」





しかし、雪から返ってきたのは肯定の言葉だった。ビュティはショックを受け、ペタリとその場に座り込んでしまった。破天荒が気遣うように側に来てくれたが、掛ける言葉が見付からないのか何も言ってはこなかった。








雪がいなくなる。もうすぐ、与えられた罰を受け入れ、消えてしまう──その事実が、ビュティはどうしても受け入れられなかった。





「…ごめんね」





ビュティがショックを受けているのが分かったらしい。雪は本当に申し訳無さそうな顔をして、謝罪の言葉を口にした。





「俺が余計な未練を残したから…君を傷付けることになっちゃったね…」
「雪さん…もう、どうにもならないの…?」
「うん。…ごめんね…一度しか会ってない俺に、何を言われても困るよね…」
「そんなことないっ。ただ…ただ、もう、雪さんに会えないって思ったら…私、それが嫌で…」





これが『寂しい』『悲しい』っていう感情なのかな──ビュティはぼんやりと考えた。今までどれだけ孤立していても、そんな感情を抱いたことは無かった。…否、知らなかったと言うべきか。だから、この二つはビュティが初めて知った感情ということになる。








出来ることなら、一生知りたくなかった感情だった。これは、悪魔には最も不必要な感情だ。こんな、どうしようもなく胸が痛む感情なんて…いくらビュティが悪魔らしからぬ存在だとしても、知りたいとは思っていなかったものだ。





まさか、こんなことで知ることになるなんて…思ってもみなかった。





「おかしいって思われるかもしれないけど…私、雪さんとお友達になりたかった。それで、色んなことを聞きたかった。私が知らない色んなこと…たくさん、教えて欲しかった」
「ビュティさん…」
「だから私、雪さんが消えるのは嫌…嫌なの…!」





ビュティの言葉は、まるで人間の子供が駄々をこねているように幼稚で、身勝手なものだった。そんなことを言っても、雪が困るだけだ。ビュティだってそれが分からないわけでは無い。それでも、ぶつけずにはいられなかったのだ。その思いを。胸の内を。




ぶつけられたそれがビュティの本心であることを、雪は何も疑っていなかった。話した時間は決して長くはないけれど、それでも雪はビュティの人柄を十分理解していた。ビュティが嘘をつくハズが無いと、思い付きやハッタリでこんなことを言う子では無いと、雪は重々承知していた。








だから、雪が返す言葉は決まっている。『ありがとう』と、『ごめんね』だ。






『ありがとう』は、友達になりたいと思っていてくれていたことに対しての。






『ごめんね』は、その思いを無碍にしてしまうことに対しての。





「叶うなら…君と、もっと話がしたかったな…」





それが──雪の最期の言葉だった。








突如現れた、巨大な一本の光の矢。それは魔界の厚い雲を突き破り、一直線に雪に向かってきた。超高速で向かってきたそれに三人が気付いたのは、矢が雪の胸を貫いた瞬間だった。






誰も、声を出さなかった。貫かれた当人である雪も、目の前で貫かれるのを目撃したビュティも、二人のやり取りをただ傍観していることしか出来なかった破天荒も、一声も上げられなかった。ただ、神々しい光を放つ矢先を、呆然と眺めていた。それが矢であることも、気付くのに少々のタイムラグがあった。これが神の裁きであり、雪を罰するために放たれた矢であることをビュティと破天荒が悟るのは、もう少し後のことだ。






突然のことに止まっていた三人の時間が動き出したのは、間もなくのこと。







矢に貫かれた雪の体が、淡く光り始めた。そしてその光が雪の体から離れて四方に散り始めたのと同時に、雪がぼんやりと透け出したのだ。原因は、言わずもがな光の矢だ。神が放った、神の一手。天界から飛翔してきたこの矢は、雪を光の粒子へと分解していく。





「雪さん!!」





消えゆく雪を目の当たりにしたビュティが、衝動的に矢を引き抜こうと手を伸ばした。だが、その矢は神が放ったモノ。言わば天界の魔力の塊だ。いくらビュティが魔界随一の魔力を保持していると言っても、そんなモノに直接触れたらどうなるか分かったものではない。





しかし、ビュティは恐れなかった。自分の身を厭わず、雪のことだけを考えて行動した。その優しさは、やはり悪魔らしくはない。きっと他の悪魔がこの場に同席していても、ビュティ同様の行動は取らなかっただろう。その証拠に、破天荒は雪ではなくビュティに駆け寄ろうとしている。矢の恐ろしさに感付き、ビュティを止めようとしているのだろう。…だが、それは取り越し苦労だ。










何故なら…ビュティがまさに矢に触れようとした瞬間、雪の体が矢と共に無数の光の粒子となり、宙に散らばったからだ。





「あっ…」





驚きに目を見張るビュティの前を漂う、雪だった粒子。それはゆっくりと天へ導かれるように昇っていき──やがて、全て消えてしまった。






天使・雪は、神の裁きを受け、影も形も残さず消滅した。





「雪さん…」





呆然と、粒子が消えた空を見上げるビュティの瞳から、大粒の涙が溢れた。次々と溢れてくるそれを拭うことも忘れ、ビュティはただ雪を偲んで泣いた。悪魔でも悲しいと涙が出るのだと、ビュティはこの時初めて知った。






投げ出されていたスズランと花言葉図鑑を拾った破天荒が、ビュティの隣に腰を下ろした。そして同じように空を見上げる。破天荒は涙こそ流していなかったが、どこか後味の悪そうな顔をしていた。今まで幾人も天使を殺めてきた破天荒でも、こんな形での天使の消滅には思う所があるらしい。





「…アイツ、笑ってたな」






最期に見せた雪の穏やかな表情を思い出しながら、破天荒はポツリと呟いた。消えてしまう瞬間、雪は笑顔だった。運命を受け入れた故か、ビュティを安心させるためか、それは分からない。少なくとも、矢に射られたことも粒子とされる過程にも、苦痛は一切無かったことは見受けられた。そうじゃなければ、あんな穏やかな笑顔は浮かべられないだろう。





破天荒はスズランと図鑑をビュティに持たせた。それに気付いたビュティがゆっくりと自身の手の中にある二つを見て、それから破天荒に視線を向けた。相変わらず涙を流したままで、その傷は相当に深そうだ。…無理もないと言えるが。誰かの死を見たのは、ビュティは初めてだから。





「泣きやめよ嬢ちゃん。アイツが、嬢ちゃんの泣き顔見て喜ぶと思ってんのかよ」
「でも…破天荒さん…」
「アイツはもう戻ってこない。なら嬢ちゃんがすることはなんだ? 泣くこと以外に、出来ることがあるんじゃねぇのか?」





ビュティはまたスズランと図鑑に視線を戻した。雪の魔力が込められ、一ヶ月経った今でも変わらない美しさを保っているスズラン。雪が自分の死を押してまで届けてくれた、ハードカバーの花言葉図鑑。どちらも、雪が生きていた証だ。確かに雪は生きて、ここに居たのだ。




スズランと図鑑を抱き締めて、ビュティは泣きながら考える。自分に何が出来るのかを。偲んで泣くばかりじゃなく、他に、雪のために出来ること…一体それは、なんなのだろう…。





「…破天荒さん」
「なんだ?」
「私、雪さんに会うまで花言葉なんて知らなかったの。綺麗で、可憐で、いい匂いがして…私が花を好きな理由なんて、それだけだった」





けれど、雪に会い、花にはそれぞれ花言葉があるのだと知った。スズランは、確か『幸せの再来』『巧まざる優しさ』。今まで見てきた全ての花に、同じように、そして異なる花言葉があるのだろう。それを知り、ビュティの探究心はくすぐられた。でも、調べる術なんて無かった。魔界には花に関する書物なんて無いし、人間界から盗って来るのも嫌だった。






だから、雪がこの花言葉図鑑をプレゼントしてくれたのが、本当に嬉しかった。





「その雪さんを殺した神を、私は許せない。…っでも、だからって、私が出来ることなんて、何も無いよ…泣くぐらいしか、出来ないよぉ…」





悪魔を見逃せば死罪…それが、平和を謳う天界にのさばる規律。どうしてそんなものが存在するのか…悪魔を淘汰すべき存在であると、神が天使達に教え説いているからに違いない。加えて死罪の件がある…雪は、神が作った偏ったルールの犠牲になったのだと、ビュティはそう解釈している。





しかし、ビュティに出来ることなんて何も無い──それは紛れもない事実だ。今は、哀れな雪を偲んで悪魔に似つかわしくない涙を流すくらいしか、してやれることなんて何も無いのだ。抱き締めたスズランと図鑑を涙で濡らしながら、ビュティは破天荒に寄り掛かって泣いた。破天荒はしばらくの間、何も言わずビュティの頭を撫でてやっていた。















──そして、この日から数十年後。魔界は天界に統合戦争を吹っ掛ける。勝ち目の薄いその戦争の筆頭は、桃色の髪を持つ少女の悪魔であった。





彼女の髪には、美しく咲き誇るスズランの花があしらわれていたと…そう語られている。



















君のため
(天界と魔界を一つにするため)
(そして…あなたのような天使を、死なせないため)




もともと短編のつもりで書いてたのになんか止まらなくなってこんな長さに。全俺がビックリだよ。


雪(へっくん)が片翼をもがれたのは、堕天した際魔界から戻ってこられないようにするためです。飛べなきゃ戻れないからね。この話の中の天界は、神の偏った教えの独裁政権が敷かれています。魔界に住むものは全てが災いの元。発見し次第抹殺せよ――天界に住むもの達はそれが当たり前と思って育ち、当然のように悪魔達を憎むようになります。殺せば正義、情けは悪…雪の今回の行動が、まさしくこれに当て嵌まります。


神の教えとは異なる、純粋なる悪魔との出会い…雪は不思議だったでしょう。そして、好ましく思ったでしょう。たとえ死ぬ運命が待っていようとも…。




栞葉 朱那

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