ここ最近、ヘッポコ丸は原因不明の体調不良に悩まされていた。極度の倦怠感、頭痛、微熱、眠気、吐き気、その他etc…上げ始めたらキリがない。体調不良を自覚し始めた当初は気丈に振る舞い、仲間達に悟られぬように努めていたヘッポコ丸だったが、そろそろそれも難しくなっていた。というか、バレた。





つい先日、あまりの吐き気で歩くことすらままならず、ボーボボに背負われる事態に陥った。近くの街までそのまま運ばれ、宿に入ってから「いつから具合が悪かったんだ」だの「なんでもっと早く言わなかったんだ」だのとお説教を喰らうハメになった。当然である。







そして当然の流れで、半ば強制的に医師の診察を受けることになった。必要ないと言うヘッポコ丸の言葉はすげなく却下された。心配されているというのは空気を読むまでもなく一目瞭然であったから、強く反抗はしなかった。したところであしらわれるのは目に見えているのだが。大人しく病院へ行く準備をしている時、天の助が付き添いを申し出てくれたが、ヘッポコ丸は丁重に断った。診察の間、どれだけ待たせてしまうか分からなかったからだ。天の助はしつこく引き下がったが、結局はヘッポコ丸を見送ってくれた。









後になり、ヘッポコ丸は天の助の付き添いを断ったことにホッと胸を撫で下ろすことになる。










どうせ風邪か何かだろうと安直な判断を下し、内科を受診したのだが、そこでここ最近の症状を伝えた時、医師の反応はやや困惑の色が見えていた。なんだろうと不思議に思っていたら、そこから色々と検査をされることになった。血液検査や検尿、その他諸々。一通りの検査を終え、もしかして何か悪い病気だったのでは…と不安に押し潰されそうになっていたヘッポコ丸は、別の診察室に通された。



そこはヘッポコ丸にとっては全く縁の無い科の診察室で、案内された当初は場所を間違えているんじゃないかと案内してくれた看護師に意見してしまった程だ。…だが、ここで合っていたらしい。





「どうやら妊娠してるみたいよ、ヘッポコ丸君」





そうヘッポコ丸に告げたのは、産婦人科の医師だった。









「……俺が、ですか?」
「えぇ。間違いないわ」
「で、でも…俺、男ですよ? 妊娠なんて、そんなバカな…」
「…あのね──」





総排出腔──『そうはいしゅつくう』と読む──という器官がある。それは軟骨魚類、両生類、爬虫類、鳥類、そして一部の原始的な哺乳類に見られる、直腸、排尿口、生殖口を兼ねる器官のことを言うらしい。そこから更に詳しい仕組みも説明されたけど、その全てをヘッポコ丸は理解することが出来なかった。








理科出来たのは、本来雄に、しかも人間に作られる筈が無い器官が男であるヘッポコ丸には生まれつき存在していたという事実。つまり、ヘッポコ丸は男でありながら生まれながらに子宮が存在し、子を宿せる身体であったということ。











そして──既に妊娠しているということ。












たったこれだけだが、これだけで十分だった。そう、ここ最近自身を襲っていた体調不良の全ての原因は、新たな命をその身に宿したが為だったのだ。





「君が生まれた時には判明していた筈だけれど…その様子だと、御両親からは聞かされてなかったみたいね」





まぁそう簡単に教えられることじゃないか…と、医師は一人納得したように頷いていた。そしてヘッポコ丸もそれには同意見だった。こんなこと、おいそれと息子に話せることではない。自分が親だったとしても、何か話すキッカケを見出さない限り口を閉ざすだろう。一生知らせないままで…と逃げるだろう。





「(もしかしたら…)」





ふと、ヘッポコ丸の脳裏に過ぎる不安。





「(二人が離婚したのは、俺が原因…なのか…?)」





そうは思いたくないが、考えずにはいられない。ヘッポコ丸が覚えている限り、両親は仲が良かった。喧嘩している姿なんて見た記憶が無い。だけど時折、母が思い詰めたように泣いているのは知っていた。その傍らに寄り添う父は、いつも母を慰めていた。今思えば、あの涙は自分が原因だったんじゃないかと…ヘッポコ丸は思ってしまう。






普通の身体ではない長男。たとえ見掛けも振る舞いも年相応の男子と同じだとはいえ、それが却って母に辛い思いをさせていたのだとしたら…そしてそれに耐えきれず、仲睦まじかった二人が離婚という結論に至ったのだとしたら…。







――ごめんねヘッポコ丸。



――お母さんを許して。







不意に過ぎった記憶を、ヘッポコ丸は無理矢理打ち消した。今はネガティブな憶測を膨らませている場合ではないのだ。今は目下の問題を最優先に考えなければならない。過去を振り返るのは、後でいい。





「君には生理が来ないから、推測でしか言えないけど…検査の結果を照らし合わせて考えてみるに、今妊娠三ヶ月ほどかしらね」
「三ヶ月…」





最後にシたのが、そのくらい前だったな…と、一部分だけ冷静になった頭がその記憶を引っ張り出す。彼が…破天荒が、毛の王国の生き残りを探すために別行動をすることになったから。名残惜しむように、彼にこの上なく甘えたんだったか、とヘッポコ丸は振り返る。







離れたくないとか、一緒に行きたいとか、そんな可愛げのあることは言わなかった。言えなかった、というのが正しいか。そんなことを言ったって、破天荒を困らせてしまうことにしかならないことなど、ヘッポコ丸はよく分かっていた。自分がお荷物にしかならないことくらい。

破天荒も、着いて来いなんて言わなかった。生き残りを探す旅路が生半可なものではないことを、彼は身を持って知っていたから。だから何も言わなかった。目的の達成を優先した。恋人を置いていく寂しさを押し殺して。






だから最後の夜は、とても濃厚なものだった。お互い避妊具のことなんて頭から抜けていた。どれくらい会えないか分からない最後の夜の触れ合いに、薄っぺらい隔たりに邪魔されることすらも煩わしく思ってしまったのだったか。何度あの熱をその身で直に感じただろうか…ヘッポコ丸は覚えていないけれど…あの夜に授かった子であることは明白だった。





「ここ何年かで、性転換手術を受けて女性になった人が妊娠、出産したという報告は何件かあるの。…でも、君のように男性体のままで妊娠したという例は、残念ながら無いわ」
「そうですか…やっぱり、珍しいんですね、俺みたいなのは」
「えぇ。……ごめんなさいね、君が一番戸惑ってる筈なのに、気の利いたこと一つ言ってあげられなくて…」
「いえ…」





医師は本気で申し訳なく思っているようだったが、医師の気遣いとは裏腹に、ヘッポコ丸の心はとても冷静だった。確かに、自分の身体が普通ではないと告げられた時はその事実に驚いたし、妊娠しているというのも未だに夢のように思っているのだけど…それだけだった。慌てたり、焦ったり、嘆いたり…そんな感情のブレは一切無い。とても落ち着き払っている。どうして、こうも平静でいられるのか…ヘッポコ丸自身、既によく理解していた。





「相手は分かってるのよね?」
「はい」
「そう。同意の上ね?」
「…はい」
「ならいいわ。だからと言って、おいそれと打ち明けられることでもないけれど…とにかく、中絶手術を受けるなら早い方が良いわよね? この際、適当に理由をでっち上げて、手術を受けて堕ろすだけでも──」
「先生」





医師は、当然ヘッポコ丸は中絶するものだと思い込んでいた。それを前提に話を進めた。致し方ないと思う。ヘッポコ丸の年齢、現在置かれている環境、全てを加味しても、産むにはとても無理がある。しかも、前例の無い男性妊娠だ。確かに、無事に出産に成功すれば、医学会には激震が走るだろう。根付いてきた常識を覆すことになるだろう。





だが、前例が無い分、それにどんなリスクが伴うのか、誰にも予想出来ない。…それに、仮に無事赤子が産まれたとしても、世間は同性婚に寛大じゃない。そこから先の未来は、決して明るいとは言えない。






だから、中絶が一番の方法だと医師は判断したのだ。でも、ヘッポコ丸は迷いの無い、真っ直ぐ凛とした声音で、自分の意思を伝えた。





「俺、この子を産みます」





その瞳は──親となる覚悟の色が鮮明に、輝いていた。






















病院を後にしたヘッポコ丸は、その足で図書館を探したが、意外にここは広い街であったようで、残念ながら見付けられなかった。その代わりに見付けたのはインターネットカフェ。図書館探しを諦めてそこに入ったヘッポコ丸は、調べ物をする傍らで、手紙を一通したためた。その手紙は仲間達に宛てた、別れの手紙だった。






ヘッポコ丸は、一味を抜けるつもりだった。妊娠していると聞かされた時、既に彼の頭の中には仲間達との別れを視野に入れていた。生まれつきこの身体だったと知って、それは強固な決意となり、彼の心に留まった。ヘッポコ丸は一人で子供を産み、一人で子供を育てていくつもりだった。






調べ物とは、その為に必要な費用や受けられる保護の申し込み方法、住み込みで働ける場所、産後に必要な書類関係等だ。この年齢で、しかも男のヘッポコ丸が一人で子供を産み、育てながら生きていくのは容易ではないと分かっていながら、しかしヘッポコ丸の意志に揺らぎは無かった。





「(これが本来必要なことじゃないのは、分かってる…)」





ヘッポコ丸は分かっている。仲間達に全てを打ち明けても、誰も気持ち悪がったり奇異な目で見てこないということを。無理に一人で生きていこうとしなくても、みんなが受け入れてくれるであろうことを。短くない時間を共にして、旅をしてきて、その優しさも、寛大さも、懐の広さも、嫌と言うほど実感してきた。それに救われた回数だって、決して少なくはないのだ。





「(でも、ダメなんだ…)」





便箋に走らせていたペンを止め、思い浮かべたのは最愛の破天荒の顔。三ヶ月前に別行動となってから、一度も会っていなければ連絡すらも無い。この三ヶ月、ヘッポコ丸の携帯に破天荒の名前が表示されることは無く、またヘッポコ丸も自ら破天荒に連絡を取ろうとはしなかった。破天荒の目的の妨げになってしまうことを恐れ、携帯画面に破天荒のページすら開いていないのだ。









恋しいと何度も思った。会いたいと願った。声が聞きたかった。『今』が知りたかった。…でも、いつもその気持ちに蓋をしてきた。寂しさを誤魔化してきた。到底、隠し切れるものではなかったけれど。







その破天荒にだけは、妊娠したことを知られたくない──それがヘッポコ丸の、仲間達から離れる最大の動機だった。これから先、誰に知られてしまおうとも構わない。それでも、破天荒ただ一人には、知られたくなかったのだ。









このままボーボボ達と行動していれば、いずれ破天荒が戻ってきた時、必然的にバレてしまう。…いや、戻って来ずとも、誰かが破天荒に知らせてしまうかもしれない。そんなことをされてしまったら、破天荒はきっとすぐヘッポコ丸の元へ帰って来る。今取り組んでいる事全てを投げ出してまで。かなぐり捨ててまで。破天荒からの愛情に疑いを持たないヘッポコ丸からすれば、十分に想定出来ることだった。




ヘッポコ丸が許せないのは、まさしくそれなのだ。





「(負担になんて…枷になんて、なりたくない)」





ヘッポコ丸の心を占めるのは、ただその一言に尽きる。しかし、本当にそう思っているのなら、子供を堕ろすのが最善策であろう。だが、ヘッポコ丸の中に『中絶』という選択肢は無い。それだけは、絶対に。








ソっとお腹に手を当てる。まだなんの膨らみも無い、平らな腹。本来宿ることなんてなかった命が今ここに宿り、育っている。男同士だからと諦めていた──否、希望を持ちもしなかった愛する人との子供が今、確かにここに居るのだ。生産性の無い、ただ不毛だと思っていた行為が、文字通り、実を結んだのだ。







それをどうして自分から捨てられると言うのだろう。──出来る訳が無かった。





「ごめんね…」





無意識に零れた謝罪。込み上げて来た涙を隠すように机に突っ伏した。その謝罪は、誰に向けて放たれたものだったのか…ヘッポコ丸にも、よく分からなかった。







破天荒に対する、別れも告げず消えてしまうことへの謝罪か。


仲間達に対する、頼ることも無く一味を抜けてしまうことへの謝罪か。


我が子に対する、過酷な運命の中で産み落としてしまうことへの謝罪か。




あるいは──自分で自分を哀れんでしまったことに対する後悔から漏れた謝罪か。






どれが正解なのか判然としないまま、時間ばかりが無為に過ぎていく。ヘッポコ丸が調べ物等を終えて宿に戻る頃には、陽も落ち始めてしまっていた。


















「お、やっと帰ってきたのかよヘッポコ丸! 遅かったなー、もうすぐ飯の時間だぞー。…あ? 何してんのかって? 見て分かんねぇのかよ、新しいキメポーズ考えてんだよ! オレのハジケをより完璧なものにするには、新しいキメポーズが必要だって気付いたんだよ。なんなら見てくか? 候補が五十八ぐらいあってなかなか決まらなくて…いい? 見ない? なんだよノリ悪いなぁ。さっさと体治さねぇからオレのハジケに付いてこれねぇんだぞ! んじゃ明日だ、明日見せてやるからな! ちゃんと治せよヘッポコ丸!」




「お、お帰り。遅かったな、病院混んでたのか? …そっか、やっぱ今の時期風邪流行ってんのかもな。それ以上悪化しないように気を付けろよ。…あーこれか? 今田楽マンと新しいメニュー考えてんだ! 今流行りのコラボレーションってやつだぜ!」
「おれが作った秘伝の田楽味噌をところてんに塗って炭火で香ばしく焼いた『ところ田楽』が今のところ一番流行る可能性があると思うのら! これからキッチンをジャックして試作しようと思ってるんだけど、お前に貴重な試作品第一号を食す権利を与えるのら。有り難く思えなのら」
「な? ちょっと付き合えよヘッポコ丸。……あ、そっか。いや、いいよ。体調悪いならしょうがねぇよ。気にすんな気にすんな。田楽マン、ヘッポコ丸はやめて、ソフトン辺りに試食頼んでみようぜ」
「分かったのら。でも、ヘッポコ丸にも元気になったら食べてもらうから、覚悟しておけなのら!」
「楽しみにしとけよ、ヘッポコ丸!」




「帰ったのか。それで、どうだった? …風邪か。質の悪い風邪にかかってしまったようだな。そもそもお前は普段から無茶な修行を繰り返しているから、免疫力が低下してそんな事になるんだ。これに懲りたら、もう無茶な修行は絶対にするな」
「おいソフトン、病人にあまり強く言うのはどうかと思うぞ。心配してるのは分かるが、言葉を選ぶべきだぞ」
「…そうだな。すまないヘッポコ丸、少し言い過ぎた。だからそんなしょぼくれた顔をするな。あぁ、謝る必要も無い。今のは全面的に俺が悪かったんだから」
「はは、そんなに慌てるソフトンも珍しいな。まぁヘッポコ丸、あまり気に病むなよ。それよりもしっかり休んで、体調を元に戻すことを先決にな」
「宿の女将が、傷病者用の一人部屋を使わせて下さるそうだ。一人の方がお前も気を使わなくて良いだろう。食事もそこに運んでもらうか? …ダメだ。食欲が無くても何か腹に入れないと、薬が飲めないだろう? 栄養を摂るのも、早く治すのに必要なことだ」
「なんなら後でお粥か何か作ってもらおう。少しでいいから食べろよ。部屋はそこの通路を曲がって突き当たりだ。とりあえず休んでこい。具合が悪いのに出歩いたから疲れただろう? 無理するなよ」




「あ、お帰りへっくん。どうだった? 病院。…そう。お大事にね。…辛い? 顔色悪いよ? 熱は…んー、ちょっとあるかな? へっくん、一度寝た方がいいよ。ご飯は私が女将さんに断っておくから。その代わり、おにぎりでも作って持って行くね。それなら起きた時すぐ食べられるでしょ? …ううん、気にしないで。仲間だもん。助け合うのは当たり前じゃない」












ボーボボに教えられた通りに通路を進むと、やがて目的の部屋に到着した。ヘッポコ丸は奥の窓際に設置されたベッドにもそもそと潜り込み、布団を頭まで被った。寝具に全体重を委ねてふー…と一息つくと、ボロボロと涙が溢れ出てきた。嗚咽が込み上げてきて、枕に顔を埋めて必死にそれを押し殺した。







みんなの優しさが痛かった。みんなが掛けてくれた言葉の一つ一つがとても暖かくて、ヘッポコ丸の不安定な精神に嫌になるほど響いた。胸を占める嬉しさと、罪悪感。相容れない二つの感情がぶつかり合って、キャパオーバーを起こした心はそれを涙へと変えた。枕をじわじわと濡らしながら、ヘッポコ丸はただ泣いた。







先の事は自分で決めた。誰に強要されたわけでも、教唆されたわけでもない。全ての決定権は自分にあった。でも、不安が一切無いというわけではない。本当は不安で不安で仕方が無い。叶うなら今すぐに決意を棒に振り、みんなに縋ってしまいたい程。本音を露にすれば、飛び出てくるのは弱音や泣き言ばかりに違いない。








しかし、それは無理からぬこと。ヘッポコ丸はまだ十六歳なのだ。十六歳なんて未熟な子供と言っても差し支えない。本当ならあと数年は、大人の庇護の下に居てもいい筈なのだ。そのことを咎められる年齢ではない。十分に、護られてもいい筈なのに。





けれどヘッポコ丸はその庇護の下から立ち去り、未知の世界へ足を踏み入れようとしている。不安を募らせないわけが無い。…でも、その不安の渦中に自分を貶めているのは、やはり自分なのであって。



そう考えると、こうして泣くこと自体烏滸がましい。





「………」





布団の中、無理矢理嗚咽を止めたヘッポコ丸は、ゴシゴシと袖口で残留している涙を拭う。泣いていたせいで乱れた呼吸を整えながら、ヘッポコ丸は自分に言い聞かせる。





「(泣いてる場合じゃない…そんな暇があるなら、寝て、体力を温存しておかないと…)」





今夜にでもボーボボ達から離れる腹積もりでいるヘッポコ丸は、自分にそう言い聞かせる。そして「よし」と景気付けに一言声に出してから、一度布団から出て寝巻きに着替え、見付かって困る物(診断書やインターネットカフェで印刷した書類など)をバトルノートの間に、隙間からはみ出ないように挟んでからリュックに詰めた。



リュックはしっかりファスナーを閉めて、万が一でも覗かれないように細心の注意を払ってから、ヘッポコ丸はもう一度ベッドに潜り込んだ。そしてそのまま瞼を閉じた。朝から色々ありすぎたのと、泣き疲れたのとで、ヘッポコ丸が夢の世界に旅立つのに長い時間は掛からなかった。


















次に目が覚めた時、部屋は随分と暗くなっていた。眠気でボヤける目を擦りながら、窓から入り込む月光を頼りに壁掛け時計を見ると、指針は既に零時を回っていた。どうやら思ったよりも寝入ってしまっていたらしい。よっぽど疲れていたのだろうか。





そのまま起き上がると、サイドボードに何かが置かれていることに気付いた。それはおにぎりだった。傍らには『食べられそうだったら食べてね。お大事に。』と書かれたメモが添えられていた。その字には見覚えがあった。ビュティのものだ。ヘッポコ丸は彼女の優しさに顔が綻ぶのを自覚した。彼女の気遣いは、いつ触れても暖かな気持ちにさせられる。







厚意に感謝しつつ、おにぎりを頬張る。食べながら、ヘッポコ丸は荷造りを進めていく。と言っても、そんなに大した量は無い。着替え類、少しのお金、そして寝る前に隠した書類関係ぐらいだ。ヘッポコ丸の私物など、本当に少ない。元々物欲に乏しいのが幸いして、荷造りにそう時間は掛からなかった。



携帯は全てのデータを消去したあと、サイドボードに手紙と一緒に置いた。これで誰かから連絡が来ることも無く、GPS機能で居場所を特定されることも無い。本当はデータを全て消去する必要は無かった(そのまま置いていけば事足りるのだから)が、そこはヘッポコ丸なりのケジメだった。これから一人で生きていくために今まで築いてきた全てを捨てて、忘れてしまった方が、踏ん切りがついていい。







全てを終えて、ヘッポコ丸は窓から外へ出た。満月に満たない楕円形の月と、絵の具をこぼしたかのような満天の星空がヘッポコ丸を出迎えた。月と星とで外は十分に明るかった。これなら道に迷うことは無いだろうと、ホッと胸を撫で下ろした。




宿を振り返る。物音は一切しない。きっと今頃、みんな眠っているのだろう。ヘッポコ丸は静かに、宿に向かって頭を下げた。誰に見られているでも無いけれど、それは精一杯の感謝の意思表示だった。数秒間下げていた頭を上げて、ヘッポコ丸はポツリと呟いた。





「…さよなら」





踵を返し、ヘッポコ丸は歩き出す。別の街に行く手段に目星はついている。朝にはそこに着けるだろう。そして、そこに着けば、もうヘッポコ丸は一人だ。…いや、一人ではない。





お腹の中の子供と、二人っきりだ。





「早く会いたいな…」





愛おしそうにお腹を撫でながら歩くヘッポコ丸。その姿を見送るのは、楕円の月と幾億もの星屑達…ただそれだけだった。


















『みんなへ

黙っていなくなってごめんなさい。けど、みんなに面と向かってさよならを言える自信が無いから、こういう形を取りました。本当にごめんなさい。


実は、大切な人が出来たんです。その人の為なら、俺の全てを犠牲にしてもいいって思える人が。だから、その人を守るために、俺は旅をやめて、みんなから離れることに決めました。その人に唆されたわけじゃありません。俺が自分で決めたことです。


みんなは、どうして相談しなかったんだって怒るかもしれませんね。でも、相談したらみんなは親身になってその人のことも守ってくれようとするでしょう。俺はそれがどうしても申し訳無かったんです。だから、敢えて黙ってみんなから離れることに決めました。


心配しないでください。俺はその人とちゃんと生きていけますから。だからみんなは旅を続けて、絶対に毛狩り隊を倒して下さい。みんななら出来るって、俺は信じています。だから俺の事なんて気にしないで下さい。


でも最後に一つだけ…破天荒に、「今までありがとう。愛してる」って伝えておいて下さい。それから、「探さないで」とも。


最後まで我が儘ばかりでごめんなさい。今までありがとうございました。さようなら。



ヘッポコ丸』





















――――
愛してる だからこそ
VALSHE/Collar



→『愛』シリーズ第一話。突如知らされた自分の秘密。宿った命。それを守るため、敢えて離れることを決めたヘッポコ丸の話。

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