学校が終わると、加持の家へ行きユイに運転を教わる。稽古がある日は、その後に。ユイに用事のある日を除いて。
そんな生活が二週間余り続いていた。
「顔色悪いぞ」
加持が横を歩いているミサトを見て、心配そうに言う。夜は夜で、学科の勉強をしている。完全な睡眠不足という感じだ。
「後ちょっとだしね。ユイさんこそ疲れてるんじゃないかな」
家事と叔父の病院通い。その上、毎日のようにミサトの運転の練習を見てくれている。自分から言い出した事だが、人に運転を教えるのは責任が重い。
相変わらず優しく、穏やかなユイ。しかし、大変だとミサトは思う。
「ユイさん運転上手いよ。教え方も」
「俺はあんまり知らないが」
一般的に女性より男性の方が、機械を操作をするのに向いている。脳の働きが異なるからだ。ユイは例外らしい。
「しかも、毎回夕飯までご馳走になってるし。なんかお礼しなきゃね…合格したら」
ミサトとしては、助かるし何より嬉しい。独りで食べる夕飯は、慣れてはいても虚しくもある。
「それは良いと思うが。叔父さんも歓迎してるし、俺も毎日葛城が家に来るのは楽しみだ」
夕飯後に話す時間は、殆ど取れないが、加持からすれば喜ばしい。理由はともかく。
「しっかし、緊張するモンなのね…」
やっている時は集中しているから感じないが、運転後は体中に冷や汗をかく。ミサトは両手を上に伸ばして、首を回す。
「肩凝りが酷くなっちゃったなあ」
「前も言ったがホント、女子高生の肩じゃねえな…」
親指でミサトの肩を押すと、ガチガチに硬い。これだけ酷いなら、背中も張っている筈だ。
「頭痛持ってるからかな?首から腰、全部重たいんだよね…」
「俺が揉んでやっても良いが…」
叔父も肩凝りが酷いから、そこそこ自信はある。
「イタタ…そのうちお願いするかも」
自分の肩を指圧しながらミサトは言う。
「次の日曜には受けに行けるように頑張るよ」
日曜日しか試験は行われない。週に一度の機会だ。もう一ヶ月を超えてしまう。修学旅行までには、必ず取らないとならない。
「無理するなと言いたいが、頑張ってくれ」
仕方がない。ミサトがやるしかない事だ。
(そういやあ、赤木に頼み事があるって言われたな)
忙しそうなミサトには話す気になれない。自分も協力するのは、当然だし、リツコの頼みなら進んで受ける…気にはなる。
(…しかし、赤木だからな)
「盗聴器外してきてくれるかしら」
次の日、登校するとリツコは加持に言った。パン買いに行くなら、ついでに私のもお願い…そんな言い方だ。
「へいへい。分かりました。しかし、なんで?」
「何もないからよ。もう用済みね」
リツコの突拍子のなさにはもう慣れた。多少の事では驚かない耐性がついたらしい。確かに、これ以上校長室を探っても何も出てこなそうだ。
「頼んだわよ。はい、こ…」
「ちょっと待った!」
紙袋をリツコが差し出そうとしたのを、加持は制した。
「変装は必要ないよな?校長は不在だし、あんな辺鄙な場所、誰も来ないぞ」
「…確かにそうだけれど」
つまらなそうにリツコが言う。加持は畳み掛けた。
「ヘンな格好してると逆に目立つだろ?」
「分かったわよ」
(…危なかった)
「そんじゃ、さっさと行っ…」
加持が出て行こうとすると、襟首を掴まれる。
「待ちなさい。今から行ったら授業に間に合わないでしょう」
リツコの気が変わらぬうちに済まそうとして、加持は焦っていた。
「いくら人通りがなくても、できるだけ人がいない時間帯に行きなさいよ」
その方が良いだろう。見付かった場合の言い訳は面倒になるが、大して気にする生徒も教師もいないと考えられる。
「授業中に抜け出して頂戴」
「了解。腹でも痛くなりゃ良いんだろ」
加持がそう言うと、リツコは満足そうに頷いた。
「すみませーん、腹の調子が悪くて…」
腹部を押さえながら、加持が席を立つ。教師は保健室へ行くように指示する。
「大丈夫?」
隣の席のミサトが、不思議そうに加持を見る。朝は元気そうだったのに…そんな視線だ。
「昨日食い過ぎたかな…あー痛ぇ」
少し不自然だったな、と加持は思った。でもまあ、この際どうでも良い。教室を出ると、腹に充てていた手を離し、目的の場所へ向かった。
(ホント、静かだな)
人気のない学校の廊下。昼前だというのに薄暗く、結構恐い。昔から語り継がれている、学校での心霊現象。その手の話がなくならないのは分かる気がする。
自分の足音だけが響く。なるべく音を立てないように加持は気を配る。
(摺り足…だったか)
一度だけミサトと行った稽古。武道の歩き方の基本だ。足をあげず、且つ頭の位置も変えずに歩く。これは今は必要ないが。
(これだったな)
ポケットからキーピックを取り出すと、加持はドアノブを弄った。回してみると以前と同様、簡単に扉が開く。
「…誰だ」
低い、押し殺したような男の声。背後からではなく、たった今、加持が開けた扉の中…校長室から聞こえた。
(おいおい、聞いてないぜ…)
人がいる可能性は、リツコも加持も頭になかった。念には念を…この基本中の基本をすっかり忘れていた。
逃げる事は可能だ。顔は見られていない。しかし、授業を抜け出している生徒を調べれば簡単に割れる。迷ったのは一瞬だった。加持は覚悟を決めた。
「どうも」
相手の出方を待つ。それが良い。下手な言い訳をするより、聞かれた問いに答える…その方が利口だ。余計な事まで喋ってしまうのを少しでも防ぐには。
「入りなさい」
加持は室内に入り、後ろ手で扉を閉めた。従うしかない。電気を点けていない、暗い部屋。机の前にいる誰か。顔は見えないが、声と雰囲気から察すると叔父と同じ位の男性だと感じる。
「何をしに来た」
盗聴器を外しに来ました…とは、さすがに言えない。
「この玩具か?」
徐々に目が慣れてくる。ぼんやりとだが、先程よりは見える。机の上には、男曰く玩具…盗聴器が置いてある。
(バレバレか)
さて、どうしたモンかと加持は考える。全く予想外の事態だと、ヒトは逆に冷静になると言うが、本当らしい。
「恐がらなくても良い。加持…君だろう?」
名前まで知られている。という事は、かなり事情に詳しい人物。校長かと考えてみたが、多分違う。勘に過ぎないが。
「校長先生ですかね?」
一応、聞いておく。校長室にいるなら普通はそう思うだろう。加持が何を言っても、相手にはバレているし、第一、敵いそうにない。
「君は分かっているだろう。強いて言うなら代理だ」
やはり、校長ではない。とすると、あの建物の関係者。恐らくかなり上にいる人物だ。これは勘ではない。確信だ。
「我々も楽しみにしている。待っている…君達がどうするのかを」
男は、口元に笑みを浮かべて加持を見た。値踏みされている。そんな視線。加持は表情を変えなかった。
「…もう用はないだろう。行きなさい」
立ち上がり、出ていくように目で促される。男は全て分かっている。何も聞く必要はない。これ以上ここにいても仕方がない。加持は背後を見せないように、扉を閉めた。
背中を向けたら何をされるか分かったモンじゃない。
「楽しみにしているよ」
もう一度、男は言った。口調は穏やかだが、挑戦的とも取れる。
(…楽しみ、か)
「なんですって!」
昼休みに、庭に集まる。弁当を食べるどころではない。
「で、どういう人なの?」
切り替えが早いのはリツコの特技だ。こうなってしまったからには、次の対策を考える。
「良く見えなかったが…」
男の特徴を話すと、ミサトはすぐに分かったらしく、口を挟む。
「"あの人"だ。間違いないよ」
漠然とは分かっていた。今までの事柄からすると、あの建物の関係者。そして、学校を自由に操れる人間…ミサトの保護者。
「やっぱりって感じ」
ミサトは加持の話を聞いても驚いていない。薄々、気付いていたらしい。それは加持もリツコも、当然考えていた事だ。口にはしなかっただけで。
自分の保護者が学校を仕切っている…それも大して気にならない様子だ。
「恩はあるけどね。別にショックでもないよ」
保護者には思い入れがない。それも、加持とリツコは知ってはいた。新東京に行くのを好んでいなかったし、解放されてからのミサトは変わった。明るくなったと思っていた。
余程、面倒な事をさせられていたのだろう。
加持から一通りの話を聞いて、リツコはあからさまに不愉快そうだ。明らかにバカにされている。しかも、挑戦状とも取れる言葉まで投げ付けられている。
今ミサトに言うべきか、加持は迷ったが、いつかはバレる。隠し事をするより話してしまった方が良いと感じた。
「私のコトは気にしないで。ホント、なんとも思っていないし」
(…大丈夫みたいだな)
バレた事により、開き直ったのは加持だけではなくミサトも同様だった。
(赤木は…)
リツコは弁当にも手を付けず、腕組みをしていた。正直、恐ろしくて声をかけられない。
「…舐められたモノね」
勢い良く立ち上がったリツコ。反動で膝の上に置いてあった弁当箱が落ちる。顔が真っ赤だ。握りしめた拳が震えているのを、加持は見逃さなかった。
「こぼれてない。セーフセーフっと」
ミサトが弁当箱を拾うと、リツコに手渡す。その冷静な態度が、彼女らしくない。加持の目には奇妙に映る。良く見ると、ミサトも肩を震わせている。
「…むかつく」
「ええ。むかつくわ」
お互いの目を真っ直ぐに見て、ガシッと、拳と拳を合わせるリツコとミサト。
「やってやろうじゃないのっ!受けて立つわ」
「おうっ。暴いてやる!」
いざとなると、女性は逞しい。頭では理解していたが、目の当たりにすると逞しいどころか恐ろしい。けれど、頼もしくもあるのは事実だ。
(良かった…のか?)
そういう事に加持はしておく。
(しかし、何故あの保護者とかいうヤツは学校に居るんだ?)
リツコもミサトも頭に血が昇っていて、考えていない。
(本格的に何か動き出している…そんなところか)
冷静さを取り戻したら、嫌でもリツコは考え始めるだろう。加持が一人考えても単なる予測にしか過ぎない。自分は部外者だ。
(…部外者?待てよ)
相手は加持の事を良く知っていた。名前だけでなく、顔も。ミサトが彼に、自分の事を詳しく話すとは思えない。こちら側が不利になるだけだ。自分は調査済み…調べるって事は、必要だからそうする筈だ。
全く思い当たりはないが、自分の知らない所で、自分は探られていた。二人に協力していただけ…勿論、興味深い話だったし、ミサトに関わるから、自ら進んでしてきたまでだ。
今はただの協力者ではなく、加持も関係者と考えられている。訳は知らないが。
「…俺も混ぜてくれ」
愉快とは言えない、彼の行為。加持も腹が立ってきた。
「やり遂げましょう…絶対に」
リツコは弁当を食べ始める。腹が減っては…という所だろう。
「ぜっったい、本免一発で取ってやる」
既にパンを食べ終えていたミサトに、加持は自分の弁当を差し出した。ミサトはありがと、と言うとおにぎりを掴んで口に放り込んだ。
「それじゃ、また後で。ユイさんに宜しく」
放課後になるとすぐに、ミサトは走って教室を出ていく。道場へ行く日だ。あんな事があったばかりなのに、真面目だな…と加持は感心する。
(つーか、こんな時だから行きたいのか)
どっちにしろ、ユイと約束があるし、家に帰っても悶々とするだけだ。稽古で汗を流したくなる気持は、加持にも分かる。
「会ってみたいわね。とても」
当然、男の事だ。どうすべきか、リツコは考えているらしく、授業が終わっても席を立たなかった。
「…私まで出たら、考えを変えられてしまうかもしれないわね」
加持もそう思う。下手に動かない方が良い。それに、まだ学校に残っているとは思えない。
「だな。今日はやめとけ」
「そうよね。そうするわ」
珍しく意見が一致した。リツコの怒りは消えつつあったが、まだ正常ではない。本人も自覚している。冷静に話をする事は無理だ。第一、何を話して良いかも分からない。
大人しくしているのが正解だ。
「ミサトは随分と大層な人物に保護されたのね。経緯は知らないけれど」
「本人すら知らない…忘れてるからな」
大層とは、色々な意味でリツコは言っている。首都になる都市の、かなり権力があると思われる組織。そこでも、相当な権力を持つ男。
「あそこでは何が行われているのかしらね…」
加持に聞いても答えが出る筈もない。それでも、幾つか見えてきた事柄はある。
「少しまとめるか」
ノートを取り出し、箇条書きにしていく。リツコの意見を聞きながら。
「大体こんな感じかしらね」
思い付いた事を、書き撲っているだけだから、時系列はバラバラだ。
・学校はミサトの保護者という男に管理されている。
・彼は相当な権力者
・生徒を選別し、何かをさせようとしている
・リツコとミサトはあの建物の関係者
・加持の名前も顔も知っていた
・ミサトは記憶がない
「後なんかあったけか?」
リツコは暫く加持の書いた文字を眺めていた。
「これ、借りても良いかしら?」
「どうぞ」
ノートを破って渡すと、リツコは鞄にしまった。
「思い出したら足しておくわ。それから推測してみましょう」
色々と失敗もあったし、全然進展がないと考えていたが、こうして見てみると、無駄だと思っていた行為が、発見に繋がる。
「結構、近付いてきたのかもな」
リツコも同じ考えだった。無駄などないし、失敗も糧にすれば良い。そうしているうちに、少しずつ進んでいく。
「取り合えず、ミサトが免許を取得してからよね」
「コースは覚えた?」
試験に出る道は決まっている。何通りかあるが、ユイは全て把握していた。これはとても助かった。どのコースも見落としやすい箇所が必ずある。
「なんとか…」
慎重にハンドルを握り、ミサトは答えた。道を覚えるのは、あまり得意とは言えないが、何度も繰り返し通り、やっと頭に入ってきた。
「急いでいるみたいだから、こんな教え方になっちゃってるけど」
試験に出る部分だけ暗記しているようなものだ。それで良いのかと、ユイは多少の罪悪感があるらしく、言葉を付け足す。
「免許取ってからも、慣れるまで付き合うから。遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます」
(…本当に良い人だな)
どうしてここまで自分に親切にしてくれるのか、ミサトは不思議だった。ユイの性格も勿論あるが、なんとなく自分は特別扱いされている気がした。
「そろそろ帰りましょうね。ご飯食べてくでしょ?」
「毎回じゃ迷惑では…」
丁度、考えていたので、ミサトが遠慮がちに答えると、ユイはとんでもない…そんな風に笑う。
「私こそ、誘っちゃって逆に迷惑かなと思ってるけれど…」
「そんな事はないです。正直、とっても嬉しいし…」
それは本音だ。自分の食生活は酷い。武道をやっているからには、気を付けないといけない。先生にも言われている。
(どうしても、料理は苦手なんだよね)
他にも不得意な物はいくらでもあるが、料理だけは挑戦する気になれない。
「それじゃ、決まり」
ユイと運転を交代するべく、車を路肩に寄せた。これも試験に必ず出る。ドアを開ける時も、バックミラーとサイドミラー、最後に目視。しっかり確認してからミサトは車を降りた。
「バッチリね」
「うわっ、こりゃ酷い。朝より張ってるな」
加持が、うつ伏せになったミサトの背中と首を押さえ驚く。
「どれ…」
加持は背中を丁寧に親指で圧していく。凝りのある部分を確かめながら、そこを集中的にほぐしていく。
「効く?」
「ごめん加持。もっと強くお願い。あ、肘でゴリゴリして」
あまり良い方法ではないが、加持は言われた通りにした。
「あ、そこ。もうさ、ボールペンかなんかでグリグリしちゃって」
「それはやめとけ」
肘に力を込めて圧すと、ようやくほぐれていく。結構力がいる。加持も汗をかいてきた。
「…気持ち良い」
首の付け根を親指と人指し指で何度も圧す。ここは効くはずだ。
「だいぶ良くなったぞ。どうだ?」
返事がない。顔を覗き込んでみると、ミサトはぐっすり寝ていた。
「疲れてるのよね。寝かせておいてあげて」
ミサトは眠ると、なかなか起きない。確実に朝まで寝てるだろう。ユイはミサトにそっと布団をかけながら、横顔を眺めていた。
(…やっぱり似てるわ)
「ユイさん?」
長い時間、ユイが動かなかったので加持は不思議に思い、声をかける。それでも、ユイは感慨深そうな面持ちで、ミサトを見ていた。
「無理しているのね」
疲れているのは、ユイも同じだと思う。しかし、今日は学校での事もあったし、稽古にも行っていた。運転も緊張する。かなり疲れているはずだ。
「リョウジ君は下の部屋で。今、お布団用意するわね」
「それくらい、俺が…」
「良いのよ。リョウジ君もお風呂に入ってゆっくり休んで」
(…威圧感あったな)
ミサトの前で言うのは気が引けたが、あの男の事を思い出すと、加持は恐くなる。あまり顔は見えなかったが、彼を取り巻く空気…というモノ。それが半端ではない。
(あんな人が保護者を買って出るとはな)
理由がなければそんな面倒な事はしない。相当な訳がある。それは間違いなさそうだ。
(葛城の親…父親関連か)
海でミサトが言っていた"お父さん"と。夢に見る位だ。父親には思い入れがある。それも、かなりの。
あの男が、ミサトの父親に恩があるとは加持には思えなかった。それなら、もう少しマシな扱いをするだろう。
欲しいのはミサトが持っている何か。形にある物ではなく、彼女にしかできない…或いは経験した何かだ。
(…眠くなってきた)
風呂の中で考えていると、睡魔に襲われる。もう少し入って、考えていたかったが、ユイの言う事を聞いて早く休む事にしよう…加持は体を拭くと、すぐに布団の上に転がった。
加持が自分の部屋に行くと、やはりミサトは寝ていた…布団は完全に役割を果たさなくなっていた。何故か、片足を椅子にかけて、肘で体を支えている。
熟睡しているようだが、良くこんな格好で寝ていられるモンだと、加持は呆れる。
ミサトが寝ている姿は何度か見ている。その時は、加持が隣にいた。今までは自分が妨げになっていたから、酷い寝相を目撃する事がなかったのか、たまたま今日が酷いのかは知らない。
「葛城、起きろ。遅刻するぞ」
やはり、ちょっとやそっとでは起きそうもない。経験上、加持は分かっていた。そして、起こす時は、慎重にしなくてはならない事も。
下手に触ると、足が飛んでくるか、技をかけられるかのどちらかだ。
悩んだ末、遠くから声をかける事にした。
「かーつーらーぎっ、起きろ」
ミサトはやはり起きそうにない。
椅子の上の足を卸しながら、後転させてみた。体が柔らかいからできる事。それは素晴らしいが、一回転してうつ伏せになっても起きない。
「ここまで行くと特技だな…」
さて、どうしたモンかと考え、加持は思い付いた事をやってみる。
「ミサト、起きないっ。試験勉強!」
リツコの声色を真似てみた。ミサトはパチッと目を覚まし、慌てて上半身を起こした。
「り、リツコ!?…やる、やるよー」
「おはよう」
加持の顔を見ると、ミサトは呆然とする。何がどうなっているのか分かっていない様子だ。
「あれ?…どうしたんだっけ」
暫く考え込んで、ミサトは大声をあげた。
「あーっ、あのまま寝ちゃったんだ…」
すっかり目が覚めたらしく、事態を把握してミサトは項垂れた。
「あら、おはよう。良く眠れた?」
「…すみません。ホントにもう、なんと言ったら良いか…」
ユイはにっこりすると、気まずそうなミサトに優しく声をかけた。
「無理に誘っちゃたのは私よ。頑張り過ぎちゃうのね、葛城さんは。疲れちゃったでしょう?」
そういう訳でもないし、なんのために頑張っているのか知らないユイに対し、申し訳なさで一杯になる。
「葛城さん、おはよう。良く眠れたかな?」
新聞を読んでいた叔父が、顔をあげてミサトに笑いかけた。ミサトは益々申し訳なくなってくる。
「…ごめんなさい」
「全くかまわないから。でも、若いからと言っても無理してはいけないよ」
「…はい」
「リョウジの無茶は仕方ないが、葛城さんは…女の子だからな」
女の子扱いされる事に慣れていないミサトは、叔父の言葉を嬉しく思う。状況が状況なだけに、気を遣ってくれているのだとは思うが。
(…免許取れたら、少し休もう)
そして、ユイと叔父にお礼をしよう…こういうプレゼントを考えるのは楽しい。
「本当に気にしないでね。今度は元気な時に泊まってね。お話でもしましょ」
ユイは心からそう言ってくれている。これ以上謝り続けるのも、余計に気を遣わせてしまう。ミサトはお礼を言ってから、学校に行く準備を始めた。
「あー、大失態だ…」
通学途中、ミサトは頭を抱えながらブツブツ言っていた。ユイの勧めるがまま、シャワーを借り、用意された朝食までしっかり食べてきた。
「気にする必要は全くないって。それより体、大丈夫か?」
言われてみれば、結構スッキリしている。首や背中の張りは残っているが、マシになっていた。
「ありがと。指圧、気持ち良かったし、ラクになったよ」
だから寝てしまったんだけれど。ミサトがそう言うと、加持は満足そうに頷いた。
「そりゃ良かった。取り合えず一仕事終わったら休め、な?」
ミサトも同じ事を考えてたし、人に言われる…特に近くにいる加持に言われると、改めてそうした方が良いと思った。
「うん。修学旅行前に調子悪くなったら大変だもんね」
「それも暫く忘れとけ」
考えるなと言われても無理なのは、加持も分かっている。自分も同じだ。
「だね。ま、日曜日までは気を抜かないようにするね」
学校の試験とは異なり、免許試験は減点方式だ。一度のミスで、終了してしまう大きな減点もある。
止まるべき場所で忘れたり、停止線を僅かに越えたりするのはありがちだ。
(…やってやろうじゃないの)
学科は頭に叩き込んだので、大丈夫だとは思う。運転は運の要素が大きい。救急車が通るかもしれないし、駐停車禁止の道路に車が停まっていたりもする。
機転を利かせるのは、頭で分かっていてもなかなかできない。
「桂さん」
こう呼ばれるのも慣れた。ミサトは拳を握り、胸の横に引いてから、突き出して気合を入れた。
「はい」
確認確認…とにかく確認。ユイに習った事を思い出しながら、試験に向かった。
「えへへ。どう?」
リツコの近所のカフェ。ミサトはコーヒーを啜りながら、二人に取ったばかりの免許証を自慢気に見せる。
「老けて見えるわね」
「写真うつり悪いな」
「ソコじゃないでしょーがっ」
そう言いつつ、二人から免許証を取り上げると、何度も見たそれを改めてじっくり見る。確かにイマイチかも…眉毛を寄せながら、ミサトは眺め続けていた。
「冗談よ。おめでとう…ありがとね。本当に」
「本物の方が良いって意味だ。頑張ったな。葛城」
二人に言われて、ミサトは背中を反らし、伸ばしてから大きく息を吐いた。
「私こそありがと。あーホッとした…」
何かをやり遂げる…免許証を取るという事は、こんなにも嬉しいモンなのか。取ってからの事を考えていなかったが、やたら気分が上がる。自分でも驚く程に。
「疲れも吹っ飛ぶね。うっれしいなっと」
にんまりしながら、免許証を見続けているミサト。確かに疲れは微塵も感じられない。
「でもまあ、疲れてるハズだ。のんびりしろよ?」
「そうね。そうして欲しいわ」
さすがにリツコもミサトに無理をさせていた事に負い目を感じていた。
「本当にありがとう。ミサト」
ミサトの手を握ってリツコが再び礼を言う。その声は少しだけ震えている。かなりの無茶振りをしたのに、応えてくれた友人…それに感極まっていた。
「良いんだってば。私がやるって言ったんだし。何より嬉しいしね」
まだ免許証を見ながらヘラヘラしているミサト。嬉しくて嬉しくてしかたがない。そんな感じだ。
「中間は全力でサポートするわ…私が」
「…あ、忘れてた。テストが終わってまたテストかぁ」
それほど呑気にもしていられない。何日かは勉強する気になれないが、まだ多少の余裕はある。ミサトはのんびり構る事にした。
(一つクリアしたが、次は…)
あの男も気になるし、まだまだ計画に必要な事は沢山ある。
それをこの場で話すのを、加持はやめておく。リツコもそう思っているみたいだ。中間の話題を敢えて出したのは、その為だろう。
(赤木ならもう考え始めてるよな)
リツコに従う事にする。意見を聞かれたら助言はするし、いつでも手は貸す。自分がやりたい事、できる事を加持は考えていた。